家族?
暇だから、いろんな感情が渦巻いては退屈だよとばかりに、騒ぎ立てている。ダンボールに詰め込んだ本をあらかた読み終えて、重い腰をあげて英語の勉強をしているけれど、刺激がほしいと脳が訴える。
地元で生活する友人たちにも、彼女たちの生活がある。私には、地元への思い入れは無く、そこですべてを受け止めて生きる覚悟もなく、ただ生まれただけの場所になってしまったことを改めて実感している。きっとずっと前からそうで、今回疫病をきっかけに分かり合えないただ老いていく両親を目の当たりにして、吹っ切れた。家族らしいことをしようと頑張らなくてもいい。そこに愛をもって投資しようとする余力は、わたしには無い。関わり合いたい人とだけ、関わって生きていけるようになってから、胆力が失われてしまった。些細なことでヒステリックになり、エゴを押し付けていることが理解できていない母親。それを見ないふりをして葛藤をしていないように見える父親。モノのように扱われるのも、人生を乗っ取られるのもごめんだ。怒りはもうとっくに無い、無の感情なのだ。非情だと言われても、仕方がない。心が動かないのだから。
さみしい、は、暇だな、と同義だ。さみしいこと自体は悪くない、でも、暇だな、という感情が余計なのだ。そしてあまりにも分かり合えないことを感じていると、疲れてしまう。たぶん私は、ほんの少しの人だけにしか愛を注げない。それなのに、他者から愛されたいと求めてしまう。おかしな話だ。
時間ができて、焦るようにして読んだ本から、ぱらぱらと自己のかたまりが生まれていく。それは今はまだ、書いた人の思いだけれども、読んだわたしに堆積していく。
家族と近づくことは、フラストレーションを生む。なぜ?と違う反応をする親たちを批難する気持ちが生まれてしまう。冷静になれずに、近すぎて、ざらざらと嫌な気持ちがまとわりつく。社会構造や時代背景を鑑みて、それでも、お互いに歩み寄らねば和解はできぬと牙を剥きたい。
でも、それは結局無意味なことにも感じる。どこまでいっても通じない言葉、同じ言語だからといって同じ意味をもって届くとは限らない。今回、わたしはなぜこの地にマイナスな思いを抱いてしまうかを知りたくて帰ってきた。この地というよりは、彼らに対してだと気づけたし(おそらくそれは前から分かっていたことなのだが)今のこの地はわたしにとってただの地方都市で、彼らがいない場所ならただの観光地と同じなのだ。愛着は無い。一抹の懐かしさはあるかもしれないけれど、なんだかゆっくり死に向かっている気がするこの町にいると、自分も干からびてしまう気がする。そんなの、どこにいたって同じなのに。被害妄想だ。いつまでも過去しか見つからない土地は、無いのと同じなのだ。新しいことを始めたいか、そのまま立ち去りたいか。
そんなおおごとにしてしまうくらいに、私は今、暇を持て余しているのだ。













