goody two-shoes (1765) - john newbury
“he offered her a motionless arm”
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goody two-shoes (1765) - john newbury
“he offered her a motionless arm”
Indie Beacon Radio Show 72 with Charles Breakfield
ALMOST DONE!
This burst of energy isn’t so much vital as it is addicting. That thrill and rush of being almost done is pretty much as awesome as sliding down a rainbow toward a pot of chocolate gold coins. From The Rush of Being Almost Done, June 30, 2015
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有線黒電話の昔、「なんてすてきにジャパネスク」の連載中だった頃だからたぶん1980年頃、電話魔だった氷室冴子が、「そのうち誰もが電話を持ち歩くようになって、実況よろしく街をぶつぶつ描写しながら歩くようになる。目で見た何かも単なる話題になって、それが現実なのかどうか、判断をテレビに依存するようになる」と書いていた。 今はあらゆるものが実況可能で、読んでいる本、街を歩いたときの風景、たまたま事故に出会った場面や、地震に巻き込まれたたくさんの人たちが、今自分が置かれた状況を公開して、ネットでそれが共有される。 自分もたとえば、自宅で地震に遭遇すると、まず真っ先にTwitter をみる。テレビは捨てて久しくて、PCにはチューナーボードが入っているにせよ、あれを立ち上げるよりもスマートホンをのぞき込むほうが速くて便利。で、地震が起きて、誰もが「地震だ」と書き込んでいるのを確認すると、ようやくそこで、今自分が巻き込まれているのは地震だったのだなんて、どこかで少し安心する。 なんでも実況できるようになって、あらゆる体験が共有できるようになると、同時に今度は、自分の体感が希釈されて、信用できなくなっていく。感覚を発信して、何かの権威というか、承認装置みたいなものから許可をもらわないと、それが信用できなくなっていく。感覚のソーシャル化というのは、それを単に共有できるというだけでなく、何かの許可がないと、その感覚をどう受け取っていいのか、それを自分で決められなくなることでもあるのだと思う。 この場所にはお金の匂いがする。おいしいと感じた何かのおいしさを共有できるということは、誰もがおいしいと言うその何かを口にしたときには、否応なしにそれをおいしいと感じざるを得ない、ということでもある。 反論を出しにくい、誰もが同じ感覚を、同じような文脈で共有することを暗黙のうちに強制されるメディアというものは、反論上等、様々な意見を受け入れるメディアよりも、お金への導線を生み出しやすい。そのほうがお金につながる以上、メディアからはこの先、反論可能性が注意深く排除されていくのだろうと思う。
感覚に許可が必要になる - medtoolzの雑記帳