この記事を書いている間も、メモは別の場所に溜まっていた
この記事の下書きは、数週間かけて溜まった走り書きを拾い直すところから始まった。信号待ちで打った五文字。電車で浮かんだ反論。夜中に一行だけ残した引用のメモ。それらを一箇所に集めて並べ替える作業をしていて、途中で手が止まった。集める作業と、書く作業では、明らかに違う頭を使っている。
先に結論を書いておく。メモが続かない原因の多くは、道具の性能ではなく、「捕まえる」と「育てる」を同じ画面でやろうとしていることにある。この二つは要求が正反対だ。片方に必要なのは無思考の速さで、もう片方に必要なのは腰を据えた判断になる。同じ場所に押し込むと、速い側が遅い側に引きずられて鈍る。
用語を先に決めておく。捕まえる場所とは、思いついた内容を評価せずに投げ込むための一時的な受け口を指す。育てる場所とは、投げ込まれたものを後から読み返し、選び、つなぎ直すための常設の保管庫を指す。前者に求められるのは速度と摩擦のなさ、後者に求められるのは検索性と持続性で、この二つは同じ設計指針からは出てこない。
自分の手元では、捕獲側がiPhone、育成側がObsidianの保管庫という配置に落ち着いている。受け渡しの具体的な挙動については、保管庫のノートへ時刻付きで一行ずつ並ぶまでに整理してあるので、ここでは繰り返さない。この記事で考えたいのはもっと手前の話だ。なぜ場所を分けると楽になるのか。三つの角度から見ていく。
なぜ、作業の切り替えは「移動」ではなく「残留」なのか
作業を切り替えるコストを、多くの人は移動時間のように捉えている。Aを終えてBに移る、その乗り換えに数秒かかる、という理解だ。しかし認知の側から見ると、実態は移動ではなく残留に近い。
Sophie Leroyが2009年に Organizational Behavior and Human Decision Processes 誌(109巻2号、168–181頁)で提示した「アテンション・レジデュー(注意の残留)」という概念がある。人がタスクAからタスクBへ切り替えたとき、Aに関する認知活動の一部が頭に残り続け、Bに使えるはずの資源を削る。Leroyの実験で効果が強く出たのは、Aが時間に追われていた場合と、Aが終わっていない場合だった。中途半端に切り上げたものほど、しつこく残る。
この知見をメモの現場に置き換えると、順番が逆になっているのが見えてくる。整理機能のついたメモアプリを開き、フォルダを選び、タグを付け、既存のメモとの重複を確認する。その一連の判断は、頭の中でまだ形になりきっていない「書こうとしていたこと」を中断させる。中断されたそれは消えるのではなく、残留物として居座る。整理の判断をしているあいだ、思考は前の話題に半分ひっかかったままになる。
規模の感覚として、もう一つ役に立つ数字がある。Gloria Mark(カリフォルニア大学アーバイン校)が2004年に行った職場の観察研究では、中断された作業の81.9パーセントは同じ日のうちに再開されるものの、再開までに平均23分15秒かかっていた。しかも人は中断された直後に元の作業へ戻るわけではなく、平均して二つ別のタスクを挟んでから帰ってくる。Markが2023年の著書『Attention Span』で示した追跡調査では、一つの画面に留まる時間の平均が2004年の約2分30秒から47秒まで縮んでいる。
注意しておきたいのは、これらの研究がそのままメモアプリの操作に当てはまるわけではない、という点だ。Leroyの実験は職場のタスク切り替えを対象にしているし、Markの23分15秒は複雑な業務の再開に要した時間で、買い物リストに一行足す程度の作業には効かない。数字を借りてきて「だから分けるべきだ」と押し切るのは乱暴だと思う。
それでも一つ、確かなことがある。捕まえる瞬間に判断を求める設計は、判断のコストだけでなく、判断が終わったあとの残留まで請求してくるということだ。フォルダを選ぶのに要する時間は0.5秒かもしれない。だが選び終わったあとに元の思考へ戻る速度は、その0.5秒とは無関係に決まる。
分けるという設計は、この請求書を捕獲の側から取り除く。何も選ばせない。宛先も分類も既定値にして、入力欄に打ち込んで送る以外の操作を用意しない。判断はすべて後回しにされ、育てる側でまとめて処理される。まとめて処理するほうが安く済むのは、切り替えの回数そのものが減るからだ。一日に三十回の小さな判断を、週に一度の大きな判断へ畳む。
ただし、畳んだ先で請求書が消えるわけではない。週に一度そこを開いたとき、三十件の未処理の断片が並んでいる状態は、それ自体がそれなりの負荷になる。分業は判断の総量を減らす手法ではなく、判断が発生する場所を移す手法だ。移した先で処理が滞れば、負債はそちらに積み上がる。この点を無視して「捕獲だけ速くすれば万事解決する」と書いてある文章は、たぶん後半を書いていない。
「捕まえる」と「育てる」を分ける発想は、ナレッジマネジメントの文脈では Niklas Luhmann のツェッテルカステン(カード式の索引箱)に起源があるものとして語られることが多い。走り書きを取り、あとから恒久的なカードに書き直して箱に納める。その二段階の手続きこそが、あの生産量の秘密だった、という筋書きだ。
Luhmannが索引カードを溜めはじめたのは1951年ごろで、1997年に亡くなるまで続いた。箱は二つある。第一の箱は1951年から1962年まで、法学と行政学が中心。第二の箱は1963年以降で、社会学とシステム理論が中心になる。ここで肝心なのは、この二つが「捕獲用」と「育成用」の分業ではないという点だ。時期と主題によって分かれた、逐次的な二代目にすぎない。
枚数についても、通説と記録には差がある。一般には「約9万枚」と紹介されることが多いが、ビーレフェルト大学のアーカイブがカタログ化した数は、第一の箱が22,079枚、第二の箱が51,636枚、合わせて73,715枚だ。9万という数字がどこから来たのかは出典によって揺れがあり、どちらかが単純な誤りだと断じられる話でもない。ただ、少なくとも「9万枚」を検証済みの事実のように扱うのは慎重であるべきだと思う。
そして肝心の二段階についてだ。「fleeting note(走り書き)/literature note(文献ノート)/permanent note(恒久ノート)」という三分類は、Luhmann自身の用語ではない。この整理を体系化したのは、2017年の Sönke Ahrens『How to Take Smart Notes』である。Luhmannが一時的な書きつけをしていた可能性は高いが、遺された紙束の中でそれが独立した種類として制度化されていた形跡は薄い。つまり現代のPKM界隈が「古典の作法」として引用しているものの相当部分は、2017年に整えられた現代的な再構成だ。
これを知って落胆する必要はない。むしろ面白いのはここからで、権威ある起源がないにもかかわらず、同じ形が何度も再発明されているという事実のほうだ。GTDの収集フェーズ。メールの受信箱。Ahrensのfleeting note。そして手元のメモアプリの送信ボタン。誰かが正解として配ったのではなく、別々の人間が別々の場所で同じ壁にぶつかり、同じ形に行き着いている。権威に支えられた作法よりも、こちらのほうがよほど強い証拠だと思う。
では、Luhmann自身は自分の箱を何だと考えていたのか。1981年の論考「Kommunikation mit Zettelkästen(ツェッテルカステンとのコミュニケーション)」で、彼はあの箱を保管場所ではなく、コミュニケーションの相手として説明している。自分とは少しずれた関心を持ち、こちらが思ってもみなかった問いを返してくる相棒。箱の価値は、入れたものが無事に残っていることではなく、入れた覚えのない組み合わせがそこから出てくることのほうにある、という捉え方だ。
この一点は、現代の分業論から抜け落ちやすい。育てる場所を「捕まえたものの保管先」として設計すると、保管はできるが会話が起きない。実際、整然と分類された保管庫ほど二度と開かれない、という現象は多くの人が経験している。あとから自分を驚かせる可能性を残すには、分類の解像度をむしろ粗くしておいたほうがいい場合がある。ここは分業の設計とは別の、もう一段深い話になる。
同時に、起源が神話なら、忠実に再現する義務もない。Luhmannの番号体系を真似る必要はないし、三分類のうち文献ノートを省いても罰は当たらない。分業は原理であって儀式ではない。守るべきなのは「捕獲時に判断させない」という一点だけで、そこから先の形は各自の作業量に合わせて削ってよい。
判断基準を一つに絞るなら、そのとき判断させるかどうか、になる。
・捕獲側に置いてよいのは、内容の入力と送信だけ。宛先も分類も既定値で固定する。
・育成側に回すのは、分類・統合・削除・参照付け。読み返しを伴う操作はすべてこちら。
自分の運用はこうだ。捕獲側は一画面・一操作で、送信すると手元には何も残らない。育成側はプレーンテキストのファイル群で、日付ごとのノートに「- HH:mm 本文」の形で一行ずつ積まれていく。追記はバックグラウンドで行われるので、育てるとき以外はObsidianを開かない。開かなくても溜まっている、というのが分業の肝心なところで、ここが手動だと数日で破綻する。
なぜ育成側がプレーンテキストなのか。育てる場所は十年単位で持たないと意味がないからだ。Obsidianが2020年に公開されたとき、多くの人が最初に評価したのは機能の豊富さではなく、ローカルのMarkdownファイルをそのまま読み書きするという一点だった。育てる場所に必要な条件は、道具が消えても中身が残ることに尽きる。捕獲側の道具は乗り換えてよい。育成側の形式は乗り換えられない。
「obsidian デイリーノート 追記」のような語で検索した記録が手元に残っているが、当時ほしかったのは自動化の手順そのものではなかった。日付ごとのノートへ機械的に足していく運用が、半年後に破綻しないのかどうかを確かめたかった。
ここまで書いておいて言うのも妙だが、分けないほうがいい場合もある。
一つ、一日に生まれる断片が数件しかないなら、分業のオーバーヘッドのほうが高くつく。受け渡しを整える時間で、一つのアプリの中で片づけたほうが早い。
二つ、メモが即座に行動へ変わる種類のもの――買い物、連絡、その日のうちに済む用事――なら、育てる工程そのものが要らない。捕獲して消費すれば完結する。
三つ、場所を分けると「見に行かない場所」が生まれる危険がある。これが最大の落とし穴だ。
三番目は自分にも起きた。育成側を開かない期間が続いたことがあり、そのあいだ捕獲側だけが機嫌よく膨らんでいた。分業は成立していたが、何も育ってはいなかった。置き場所が二つに増えただけだ。受信箱ひとつで暮らす人たちを観察した回でも触れたが、場所を増やすこと自体には何の価値もない。
なぜ開かなくなるのかを考えると、義務感で運用していたからだと思う。溜まったものを処理しなければならない場所として扱っている限り、開く行為は作業であって、作業は後回しにされる。逆に、開くと何か思わぬものが見つかる場所として機能していれば、頻度は勝手に上がる。Luhmannが相棒と呼んだのは、そういう状態の箱のことだったはずだ。仕組みで自動化できるのは受け渡しまでで、その先を相棒にできるかどうかは、置き方と粗さの問題になる。
もう一つ、受け渡しには必ず欠落がある。捕獲側で書いた一行は、書いた瞬間の文脈を持っていない。どこで、何を読んでいて、何に反応して書いたのか。時刻だけは自動で付くが、それ以外は落ちる。落ちた分を後から補えるかどうかが、育てる側で実際に効いてくる。自分は補えないことのほうが多いと分かってきたので、最近は捕獲時に一語だけ、文脈になる語を足すようにしている。それ以上は速さと引き換えになる。
だから分業の成否は、二点でほぼ決まる。受け渡しが自動かどうか。育成側を開く習慣があるかどうか。前者は仕組みで解決できる。後者は解決できない。仕組みで解決できないほうが本体だという事実は、道具を作る側にとってかなり居心地が悪い。
捕まえる場所と育てる場所は、必ず別のアプリでなければいけないのか。
別アプリである必要はない。条件は「捕獲時に判断を求められないこと」と「育成側が後から検索・編集できること」の二つで、同じアプリの中に十分に分離された二つのモードがあるなら、それでも成立する。ただ、一つのアプリで両方を満たそうとすると捕獲側の画面が重くなりやすい、という傾向はある。
捕まえたメモは、どのくらいの頻度で育てる側に見に行けばよいのか。
決まった正解はない。自分の場合は週に一度で足りている。頻度そのものより、見に行かない期間があっても捕獲が止まらない構造になっていることのほうが重要だ。育成のリズムが崩れた瞬間に捕獲まで止まる設計だと、立て直しに時間がかかる。
走り書きをそのまま残しておくと、あとで意味が分からなくならないか。
なる。半分近くは読み返しても再現できない。ただしそれは分業の副作用ではなく走り書きの性質で、一箇所にまとめて書いていても同じことが起きる。捕まえる時点で主語を一つだけ入れておくと再現率が上がる、という程度の対策しか自分は見つけられていない。
分業の話をすると、次の質問がほぼ必ず来る。育てる側の入口は、日付ごとのノートと、固定した一つのノートと、どちらに置くべきか。好みの問題に見えて、実際には振り返りの単位をどこに取るかという設計判断で、自分も何度か乗り換えている。次回はその選択について書きたい。