Bar:CatsGARO
イントロダクション
シロガネの夜は、どこか息が詰まる。
運河を渡る潮風は生温く、石畳に落ちる提灯の光は揺れるばかりで道を照らしてはくれない。 エレン・ヴァレスは外套の襟を立て、拡張区の細い路地を足音を殺して歩いていた。
三日間の依頼が終わった。 それだけだ。達成感も、高揚感も、とうに使い果たした。 残ったのは疲弊と、宿に戻りたくないという、言葉にならない感情だけだった。
正確に言えば、戻れないのだ。 宿の天井を見上げて、今夜起きたことを一人で反芻する時間が、今のエレンには耐えられそうになかった。 依頼は成功した。誰も死ななかった。 それなのに胸の底に何かが澱のように沈んでいて、ひとりになると途端にそれが浮き上がってくる気がした。 だから歩いていた。 行き先もなく、ただ足を動かしていれば、少なくとも考えずに済んだ。
角を曲がったとき、微かな燈りが視界の端を掠めた。
看板ではなかった。 ただ、扉の隙間から漏れる黄みがかった光と、革と古い木材の匂い。 それだけで、エレンの足は自然に止まった。 引き寄せられたというより、足が勝手に判断した、という感覚に近かった。 頭よりも先に、体が決めていた。
扉を押すと、ヒンジが低く鳴った。
最初に目に飛び込んできたのは、床だった。
白と黒の石畳が、正確に、しかし冷たさを感じさせない落ち着いた配列で奥まで続いている。 壁は重厚なウォールナット材で、時間の経過が木目に深みを与えていた。 天井には緩やかに回る扇風機、そのさらに上には青みがかった夜天の絵――空とも宇宙ともつかない、曖昧で美しい闇。
照明は最小限だった。 卓上の小さなランプが二、三か所に点在し、丸い鏡越しに映る酒瓶たちが、その光を静かに受けていた。
喧騒はなかった。 あったのは、グラスの触れ合う音、低い笑い声、そしてどこかで鳴っているレコードの針が溝を拾う、微かな雑音だけだった。
カウンターに向かうと、席のほとんどはロスガル族で埋まっていた。 大柄な体躯が並ぶ様は壮観だったが、誰も声を荒げていない。 隣では細身のエレゼンの女性が一人、ウイスキーのグラスを両手で包むように持って、窓の外を見ていた。 彼女の横顔には問わず語りの疲れがあって、エレンはそれを見て少しだけ、自分が場違いでないと思った。
「立ったままでいるつもりか」
声がした。
カウンターの向こうから、腕を組んだロスガルがこちらを見ていた。
茶褐色の肌に、霜が降りたような白い体毛。 鼻梁には銀縁の遮光具をかけており、その奥の瞳は涼しかった。 体格は大きい。しかし、その立ち姿には獰猛さより、どこか場を仕切る者の静かな矜持があった。 胸元にはいくつかのネックレスが揺れ、デニムの上衣は襟が開いている。 豪放に見えて、指先は正確にグラスを磨いていた。
「何にする」と彼は続けた。 押しつけがましくない。ただ、訊いた。
エレンは少し考えてから、「おまかせで」と答えた。
自分で驚いた。いつもなら銘柄を指定する。 考えるのが面倒だったのか、それとも今夜は誰かに委ねたかったのか、自分でも判然としなかった。
店主は鼻を鳴らし、それが了承の返事だと分かるまで少し間があった。
出てきたのは、淡い黄緑色の液体だった。
グラスの縁には塩が薄く施されていた。 飲む前から、柑橘と何か草のような香りが鼻をくすぐった。 一口含むと、最初は爽やかで、後から静かな熱が喉の奥に広がった。
悪くなかった。いや、それ以上だった。
「初めてか、シロガネは」
エレンが二口目を飲んだところで、店主が言った。 声は低いが、耳に引っかかるような押しつけはない。
「……依頼で来ました。今日終わって」
「そうか」
それだけだった。彼はそれ以上を訊かなかった。 どうだったか、とも、大変だったか、とも。 ただ、隣の客のグラスが空いたのを見て、無言で新しいボトルに手を伸ばした。
その無関心に近い応答が、エレンには心地よかった。 労われると、返す言葉を探さなければならない。 気遣われると、平気なふりをしなければならない。 しかしこの男は、ただ受け取って、流した。 それでよかった。
エレンはカウンターに肘をつき、鏡の中の酒瓶たちを眺めた。 整然と並んだ瓶のかたち、色、ラベル。 あれを全部覚えているのだろうか、とぼんやり思った。
「賑やかだな、と思ったか」
店主が言った。エレンの視線の先を正確に読んでいた。
「ロスガルが多いから、見た目は迫力がある。でも無為に騒ぐ者はいない。ここでは」
誇らしげでも、自慢げでもなかった。ただの事実として言った。
カウンターの端では、大柄なロスガルの二人連れが、小声で何かを話し合っている。 笑うときも、声を抑えている。 それが不自然でなく、この場所の空気として根付いていた。
二杯目を頼んだのは、自分でも意外だった。
店主は訊かずに、最初とは別の――もっと深い琥珀色の液体を用意した。 今度は氷が一つだけ入っていた。溶けていく音が、やけに近くに聞こえた。
エレンはそれをゆっくり飲みながら、今日の依頼のことを思い出そうとした。 しかし、不思議なことに、詳細が霧のように遠ざかっていた。 記憶が消えたのではない。 ただ、今夜はそれを引き留めなくていいと、体が判断しているようだった。 この店の空気が、そうさせているのかもしれなかった。
チェッカーの床に、ランプの光が滲んでいた。
窓の外には、シロガネの夜が続いていた。 しかし扉一枚隔てた内側では、時間がわずかに緩やかになっていた。
店主は気づけばカウンターを離れ、奥のテーブル席に声をかけていた。 豪快に笑い、しかし決して騒がしくない。 また戻り、グラスを磨き、次の客の注文を黙って聞く。 その動線に、無駄がなかった。
広い背中だと、エレンは思った。
あの背中が、この店を支えているのかもしれない。 いや、あの背中があるから、ここに来た者たちが少し軽くなって帰れるのかもしれない。
三杯目は頼まなかった。
勘定を済ませると、店主は「また来い」とも「ありがとう」とも言わなかった。 ただ、エレンが立ち上がったとき、一度だけ顎をしゃくった。
それで十分だった。
扉の外に出ると、潮風がまだ生温かった。
エレンは少しの間、その場に立ち尽くした。 胸の底を探ってみると、あの澱はまだそこにあった。消えてはいない。 しかし、さっきよりも輪郭が曖昧になっていた。 触れても、もう痛くなかった。 それが酒のせいなのか、あの背中のせいなのか、チェッカーの床を眺めていた時間のせいなのか、エレンには分からなかった。 分からなくていい、とも思った。
空を見上げると、雲の切れ間に星が一つあった。
瞬いてもいなかった。 ただ、そこにあった。それがなぜか、今夜のこの感じに似ていると思った。
エレンは外套の襟を戻して、石畳を歩き始めた。 足音は、来るときより少しだけ、落ち着いていた。
――・――・――
店主さん
店内ハウジング
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