連帯する、ということについて。
昨年来、応援してきているChoose Life Project。キャッチコピーは「自由で公正な社会のために」。オンラインでお話する知人たちに共有したり、クラウドファンドに参加したり。時代が変わっていく境目に、市民が公正でdemocraticなメディアを維持することはとても大切なことだと思っていて、これまでで一番しっくりくるもの、と感じて、可能な限り特集番組的なものは逃さず見ている。
そのCLPで、森さんのsexism remarkをうけて、「Don’t Be Silent #わきまえない女 たち」という緊急企画がありました。2月6日。
これまでも、福島みずほさんのフェミテレビなんかを見る中で、女性が女性たちのつながりによって作られる安全な器の中でことばを交わしていくことのlivelyな感じがいいなぁ(わたしも元気がでるなぁ)と思っていたので、そう言うものに触れられるのかな、というようなことを期待しつつ、パートナーと一緒に視聴。実際見始めると、やはりどうしても、自分のこれまでの体験から自分のからだの中に残っている感覚や感情のようなものが「あ、わたしも!わたしも!言いたいことあるよ!」とやってきて、それらと一緒に小さなiPhoneの画面を見続けることになる。でもだからこそなのかなと思うけれども「視聴する」という行為だけで、あっと言う間に画面の中の人たちと連帯してしまうかんじがある。
対話を支える仕事をしてきて、この、同じことばを話すことの発見を通じて瞬時に連帯する感じ、というのは、それがオンラインであれ、オフラインであれ、人々がその共有する課題や問題に各々主体的に関わっていくために大事な入り口の感覚だと思う。それは、自分の身体や体験からしか生まれてこないことばで、誰かに否定されたり、頼んでいないのにケアの対象になったりするようなことばではなく、言ってみると、その人自身のサバイバルの歴史の証人のようなもの。あるいは、未来をこんな風に展望するんだ、ということを語るための、靴のようなものだと思う。この靴を履いて生きてきて、この靴を履いて生きて行くんだって、自分で認識している自分の靴。不意打ちでつけられた汚れも納得いかないまま生じたすり減りもあるけど、わたしの歴史。(ただし、勲章、のイメージではない。もう二度と見たくない傷、不可抗力によるダメージもあるもの)
その例えをもう少し引き続けば、連帯の感じ、というのは、あ、同じ靴履いてる!って分かった瞬間に、相手が具体的にどんな体験をしてきたのか全く分からなくても、生じる感じ、だと思う。だから、「みんな似たような体験をして生きてきたと思うんです」っていう、ファシリテーションの基本で言えばNGな乱暴なカテゴライズがOKになる。ここでわたしたちがしたいのは、その靴を履いたままで「せーの」で同じ方向へ一歩踏み出すことで、靴の傷や汚れひとつひとつを解説したりすることじゃないから。
ただ一方で、まっさらな靴のままでここまでやってくることが出来なかった、悲しみとかしんどさとか、未消化感とか後悔とか怒りとか、そういうものから生まれることばたち、というものもあって、それは、同じ靴を履いている!と分かった人たちの間でだけお互いに耳を傾けあえるものだ、と言うことも思う。ばーかばーか、とか、ゆるさん!とか、むかつく、とか。分かる分かる、だよね、という合いの手が来ると知っているから始めて出せることば。一生誰にも言う予定もなく自分の中にあることば。それらは、本当に実際に自分から出ていくことがなかったとしても、連帯を感じる相手が何かを語るだけで、ぷくぷくと沸いてくる感情の源泉のようなものとしてあって、「ああ、分かるその怒り」とか「そう言ってくれてとてもすかっとするー」といった心の中のつぶやきをうむ。他者を通じて自分を感じる、と言えばよいのかな。
2月6日の「Don’t be silent #わきまえない女たち」の総勢24名の女性が出てくるという番組が為したこと、って、わたしは、社会問題を可視化する、というようなそんな上品なものではなくて、もっともっとプリミティブで、同じ靴を履く視聴者が「ああ、ひとりではないんだなぁ」って、自分が誰とも交換することのできない自分の靴を履いていることを感じることを通じて(密やかに、時には隣に座っている人にも内緒で)連帯していく、その力を生み出したことにあるんだと思う。インターネットの力だし、もはや伝統芸となっている放置remarksのpileが崩壊寸前のところまで来たから、だとも言える。それらがありつつも、わたしには今回の企画が、力を持っていた、ということが何よりも「わぁすごい企画だなぁ」という感想につながっている。情報のショーケースじゃなくて。気持ちや感情が動いたひとりひとりが「あれ?わたしって、大きな社会問題を共有する集団のメンバーだったのかー」と自認するためのメディア(媒介)として働いた、ってことを、今回は一番大事なことだった、と言いたい。それは、出演者たちの間にも起きていたし、見ているわたしの側にも起きた。(とわたしは感じた)
なので、その後に予定されていた企画「Don’t Be Silent #変わる男たち」はちょっと期待しちゃっていて、中止と知って素直に「えーんざんねん」って思ったのだけれども、CLPのnoteを読んで、ああ、それなら中止になって良かった、って思ってしまった。仕切り直しでもなくていいんじゃないかなってすら思っている。
今回の企画のきっかけになる出来事を、わたしたち(女性たち)はまず、女性蔑視の発言と見なすところから始めているから。
もし、「わきまえない女たち」ではなく、例えば「わきまえることを迫る社会を生き抜くわたしたち」とか「もうわきまえるのはやだ!Noを言うわたしたち」とか、森さんの発言とそれを容認する風土について耐えられない思いをしている人々が口々に語るという切り出し方をしていたなら、そこには性別は持ち込まれることがなく、もしかしたら続編もつくれたかも。
でも、それでは連帯を生む強い力学は作動しないだろうな、と思う。なぜなら、今の日本は、差別のカテゴライズのはしごを上げて行くには、まだまだ準備が足りてなくて、一番上位の「あらゆる差別と戦う」ための連帯を生むほどまでには、ことばたちが育っていないから。
わたしは自分のパートナーが、パラリンピックに参加できる資格が十分あるにもかかわらず、障害を負いたてほやほやの現役アスリートであったがために「障害者初心者だからだめ(障害を克服して努力してやってきた先輩障害者を差し置いて実力発揮などけしからん、というようなことだと思われる)」という謎の理由で排除された経験があるのを知っているので、正直今回の森さんの発言は、日本のオリ・パラ運営界隈が内包している排除の理論が発動した一角にすぎないのだろうなと思って聞いたところもあった。過去にその時の実力よりも国民的な人気が優先された例なんかも思い出す。障害者差別、派閥差別(えこひいき?)、性差別、階級差別(人々を無報酬で労働させようとするなんていうのもそのひとつだと思う)などなど、そういったこと全部をまるっとひとつの問題として見なして解決を目指すというのは、民主主義が導き出すダイナミクスのひとつ、なわけだけれども、わたしたちの国・日本は現状として共有する社会問題に取り組めるであろう人々が繋がることを阻む仕組みづくりに成功しているし、市民の側のそれに向き合うための体力も技量も他に割かないと生きていけないところまで持ってこられている。そんななかでも、まっすぐに戦える個人は、使いたくない感情も使いながらがんばって進むことになるし、そうでない個人はわきまえるか何かして、同調するか面従腹背するか方向性は別としてサバイバルするしかない。結果、いつもみんな、自分の場所で自分のしかたで、ばらばらなまま。
連帯って、仲良しクラブではないわけだから、連帯する人々が24/7でニコニコし合っている必要はない。イヤなヤツがいてもいいし、意見も統一される必要はない。ただし、これがわたしたちの前にそびえ立っている限りは、公正で公平な社会が望めないって言える共通のものが見えている必要がある。どうやっていくかは、いろんな方法があっていい。ただ、同じ障壁を見ている人たちが他にどこにいるか、お互いに知り合っておくことはとても大切で、そうじゃないと、社会が変わる、ということには辿り着かない。障壁は、なぜだか個々人の前に個別に立ちはだかっているように見えるけれども、実のところ巨大なひとつの壁。だから、同じものを認識している、ということを共有しないといけない。
「あらゆる差別と戦うわたしたち」という集団が、連帯の連帯の連帯の・・・と連帯の連鎖によって生まれる最終最大サイズになるのだと思うけれども、今は、自分がどの連帯に繋がるものなのかも分からない・知らされていない人々もたくさんいて、その入り口にも立ってない状態のまま、日々もにゃもにゃしているから、遠い道のり。まずは、目の前の壁が自分にだけ見えているわけではない、というところから始めないといけない。でも分断されているわたしたち。
そんなわけで、わたしは、男女もまた連帯していくことができるのだー!というところにまで、まだ辿り着いていない、と思っている。ここまで分断されてしまったわたしたちの「今」はまだ、女性たちの連帯のサイズが大きくなっていくためにあるのではないかな。
他の国を見てきてしまったりすると、こういう契機は、世界に今すぐ追いつくために逃せない、って思ってしまうかもしれない。国の外からの呼び声も感じる。でも、「今の日本」にそれは難しい。じっくりじっくり時間をかけて、分断を進められ、間に障壁すら置かれてしまって(誰がそれをしたの?というような議論はここではしないけど)、代替的な安心安全で口をふさがれて。全てのピースが揃っているのに、全部違う場所に押し込まれて、一見完成しているように見えるジグゾーパズルのようです。
だから、まずは、ピースをひとつずつはずして、
無理矢理押し込まれたことでダメージを受けた縁をケアして、
もう一度ひとつひとつ適切なところに配置していく、
そんな仕事の時期なんだなと思う。
人間関係トレーニングだと、日本でのトレーニングはひとりひとりの中の「みんないっしょ」の思う込みを解体するところから始めなければならない特長がある、というのと同じだなーと思う。みんな一緒だと思っているところから離れて、自分の足で立つ感覚を得て、同じ靴を履いている人たちと集まって、せーので同じ方向に一歩足を出す。
「わきまえない女たち」の緊急企画に集まった女性たちは、個々の歴史の上に立って、連帯するための準備が既に出来ていて、あるいは既に連帯の体験を持っていて、だから同じことばを話していることをお互いに判別できて、そのことばによって立ち現れる価値を見せることができた。
そうやって進んで行く先に、個人の尊厳を奪い、自由を抑制してくるものと戦う力と技能、というものが個人的にも集団的にも身につくのだろうと思う。
パンプスを履かない自由について述べる力、をわたしたちは得た。 自分の身体を他者にコントロールされたくない!と述べることも始めている。 生まれ持った名前をずっと使いたい!ということはわがままじゃないってことももう知っている。
まだまだやることはあるのだけれども、それらの流れは、
女性だからパンプスを履きたくないっていう話をしているのではないの、身につけたくないものは身につけない権利というものがあるの、だからあなたもイヤだったら外してもいいと思うよ、そのネクタイ。わたしは絶対に「ノーネクタイなど非常識!」なんて文句は言わないから。
・・・っていう会話を、必要と感じたらいつでもできるようになるための準備なのかもしれない、とも思う。
男女、で分断されているわたしたちは、分断された結果、決して共有できないものを抱えてそれぞれに歴史を作ってきている。それぞれに、疎外され、奪われることも体験してきている。明け渡せと迫ってくる大きなものたちにNOを言い、それらが育つ土壌を耕さず、自らの歴史を綴る主体(学習権宣言を読んでね!)として進んで行く、と表現すると同じことになるけれども、実際にその道がどんな道なのか、は男女で違っちゃうのは当然のことなんだと思う。その道でどうstruggleするか、はそれぞれのものだから、応援はできても口は出せない。そして、逆もまた然り。
だから、今回女性たちが怒っている、ということに、どう反応するのかというのは、男性ひとりひとりのもので、ごめんその反応はなし、とか、そう受け取る人がいると助かるな、とか、女性は女性でフィードバックしていけばいい。そして、その都度、繋がれる人とは繋がっていけばいい。
ここまで社会が壊れてきているのを感じながら、焦らずゆっくり、というのはなかなか難しいなと思うけれども、でも、大きな力で長らく安定してきた分断を乗り越えていく時、まずできるのは、ようやく繋ぐことの出来た手は離さないことなんだと思う。そして、現実に隣にいる人と手をつなげるような現状ではない分、今回のCLPのような企画というのは、メディアだからできることをやったのだなぁ。
マスメディア、って何だろうと考える体験なんてこれまでしたことがなかったけれども、マス、だって、その中身はひとりひとりの人間で、その間がどんな風に繋がっていくのか、ということがどんな世論を作っていくのか、ということなのだろうな、って思うと、場づくりと同じことがいろいろありそうだな、と思った。即時的で有益な情報によってだけ人々が連結されカテゴライズされていく時代はもう終わっている今、どう生きるのかを問い問われるところで生きようとする個人の連帯の場、というイメージが沸く。
もう長らくテレビなるものから遠ざかっていて、マスコミなるものには何の期待もしない時期が続いていたわたしとしては、積極的に視聴するメディアを持つってこういうかんじなのかーとふむふむ思っているところだったりする。










