結局ギリギリ月一になってしまっている。めんどうと言えばめんどうである。ツイッターとかにあげるのもなみたいな落書きも載せていこうと思う。イベントで生の紙無配にしよかな思います。
デジキャラットを見ていた。うさだ可愛い。普通じゃナイのはすごいいいキャラソンだな。ラビアンローズと呼ばないではおたくらしいおたくの夢が詰まっていて、恥ずかしげもなく創作の中で夢がちでもいいんだろうなっていう気分になった。色んなところで日々オタクが燃えてたりするけど、あらゆる創作物は生きている人の糧となるのが何よりな事だと思う。
キャラデザがすごすぎる。目もめちゃくちゃデカい。あんなにデカく描こうっていう発想に自分はならないから、すごい。すごいバランスで可愛くなっている。パーツごとのバランスは年代で変わっていくけど。
リクも可愛い。告白に呼び出すのに成金不動産の前に呼び出すとことかズレてて萌えた。
なんでこの人ら常備耳と首輪ついとんや?
地球外少年少女を観る。
心葉探すシーンの怖さの演出好きだなあ。緊張してる時に、身の回りのこと全てに過敏になってる時みたいな気味の悪い感覚がある。
このブログはネタバレはしないように頑張ります。
あと、やはり自分の厭世的な作風はあんまり表立ってやるべきでないなと感じた。やめろ無くなれとは思わないけど。公の人には公の人の役割があると思う。自分は向いてないなってだけで。自分は、人除けの方法を考えた方がいいのかもしれない。
でもあれも結局セブンスポエムにな〜って感じでないですか❔
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街は誰のもの?を観る。ブラジルのストリートのドキュメンタリー。2019年ごろの映像。トークイベントあり。阿部監督と、人類学者の川瀬さん。
日本では、道とストリートは別の意味合いを持っているが、ブラジルでは道には道いう言葉しかない。ブラジルのグラフィティにはプロジェット(許可や依頼がありギャラ発生)、グラフィッチ(許可や依頼なしに描かれたもの。一応違法)
そして、ペインターやライターではなく、ブラジルではストリートにグラフィティを描く人達のことをグラフィティロと呼ぶ
自分の描いた絵は描いている間は少しは自分のものだと思うけど、描き終わったら自分のものじゃなくなる。だが、街のものでもないし、街に住む人々のものでもない。という風に言ってた人が印象的。言いたい事はすごい分かる。例えば、貯金だかローンだかで何千万で建てた家に勝手に絵を描かれたらみたいなのを想像する。日本じゃ普通に出来ない文化だな。人が家を建てて道を作って街を作って 人が社会の仕組みとして、土地を所有して そういえば大島てるが不動産を扱う人は、例えば街を歩いていて、あのビルは俺のビルだ、あのマンションは俺のマンションだって心で思うのが凄く気持ちが良くてやってるのも多いんじゃないかって言ってるのを思い出した。
ブラジルでは多くの街の人たちにグラフィティが受け入れられている。
街を作る っていう意識の仕方がもっと個人的であるように感じた。ブラジルは、そもそも人と人との関わり方が違う。電車の中で喋らないとか、そういうこと。その場のコミュニケーションに熱中して、どこでも声のボリュームは気にせずに喋る。
1番目に出てきた人は、街に自分はここに居るって証明している、っていう古風な感じだったから、編集の妙を感じた。
スケーターの人も出てきたのだが、パークと道の話とか他にも、とても面白かった。
人がたくさんいて社会を回してる様って面白く感じる、そしてブラジルの道の人たちも、創作者なんだと思った
絵を描く人にも、絵を描くことそのものが楽しい人も、絵を完成に近づけて上達するのが好きな人も、人と見せ合って楽しむのが好きな人がいるみたいなのに結局近い気がする
人に見せる 人がいる所でやる っていうのも要素として必要なんだと言う部分が
みなさん人生を楽しんでください
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中学生の時こういうのを描く交換ノートを1年間くらいしてたのを思い出した。好きな曲の歌詞とか書いて。自分が知る限り学年で1番漫画絵が上手い子とやってたんだけど、1ページでペンのインク使い切るくらいいっぱい描き込んで楽しかった記憶。友達の方が最後だったから私の手元にないけど、その子がノートを欲しそうにしてくれてたのが嬉しかった記憶。
国際学術シンポジウム 歴史・人生・物語
内容は書籍になるらしいので、オフレコ
1980年に韓国であった一家殺人事件(家族史)と、朝鮮戦争や右左対立(大きな歴史)との照らし合わせ
オーラルヒストリーからの目線
戦後の台湾の家族史
など
政治によって消された個人の歴史、人生の話を聞くと
去年観た返校のエンディングを思い出す。
たしか、
本を開いてもあなたの名前はどこにも載っていない 誰にもあなたのことを忘れて欲しくない
2/22にはコロナだけで人が322人死んだ。毎日何人ひとが死んだかが気になって仕方ない。
いつ、突然この命綱みたいな創作活動に興味を失ってしまうか分からない。
認知が歪んでいるので、1~99までの数字どれか1つでもを分からなくなったら100までたどり着けなくなる。例えば100がイベント頒布だとすると。
子供が居たら認識が変わるのかなと思うけど(認識を変えるために子が欲しいという意ではない)。
この世にいる全ての人が子供になってしまうだろうから。私は人が滅んでもいいので、何もしないというのがあるけど、痛いのとかは可哀そうだなと思う。たぶん今現在、人に対する気持ちの99までが揃うことがないからだろうが。寂しいと言ったって誰も私を変えられないくせに。















