乗降場
murashit
ときおり、あの夜の記憶がよみがえってくる。
夜風にコートの前をかきあわせたわたしは駅のホームに立っていて、残業の帰りだか飲み会の帰りだかも判然としないけれど、ずいぶんと遅い時間ではあるようだった。もうひとまわり厚手のストッキングにしておくべきだった。酒の入った気分でもないから前者と覚えるものの、あるいは後者で酒気を冷まされただけかもしれない。
高架に乗った小綺麗なホームを見るに、私鉄、郊外、そういった立地らしく、遠目の先には街灯がぽつぽつとしている。ときおりのクラクション。駅名表示の看板も時刻表もみあたらず、そこの階段を下りればなにかわかることもあろうかと思った。けれどどうにも億劫だ。このように憮然と立ちつくしているからには、きっとやってくる電車に乗るだけなのだ。
菱川と別れた日を思い出す。葬儀場はおなじような私鉄沿線にあった。終えて、そのまま帰る気にもならず、駅前に見つけたバーでぐずぐずし、遅くなってからこんなふうに電車を待ったのだった。菱川がまとわりついていたような心地がしていた。この夜より前のことだったろうか、それともあとのことだったろうか。あるいは当夜まさにその菱川と会っていたのかもしれない。
かつかつと固い音が響いたと思ったら、女がひとり階段をのぼってきた。階段に見えたときからむこうに立ちどまるまで、いやそれからもずっと、スマートフォンをぽちぽちとしている。階段を挟んで反対側のわたしからは顔も見えないが、うしろ姿から判ずるに若い女のようだった。こちらには気づいていないらしい。ふと、ここはどこかと尋ねようと思いつく。けれど、見知らぬ人間にとつぜん話しかけられても迷惑だろう。そもそも電車を待ちながら、ここはどこかもないものだ。そう考えてやめにした。
ふたたびしばらくの無音ののち、左のむこうのその遠くから、電車のうなりが届く。ちかづいてきたそれは、減速する様子もなさそうだった。つまり急行だか特急だかで、ここはその通過駅なのだろう。ヘッドライトのまぶしさにおもてを下げているうち、強い風とごうごうという音で、車体が流れてゆくのがわかる。むこうの線路を走っていたから、わたしの目当てはきっと右側から来るのだと思った。通りすぎたのを見はからって顔を上げ、その方向をちらと見やった。
先ほどそこらにいたはずの女が消えていた。
怖気の立った気がした。女の消えたことにおののいたのか。けれど、考えてみればたいした話でもない。気づかぬうちに、電車の通りすぎるうちに、また階段を下りたに違いなかった。トイレに行ったとか、そんなところだろう。階段を照らす蛍光灯に群がる蛾たちを眺めつつ、わたしはそう思った。
実際、しばらくして女は戻ってきた。あいかわらずスマートフォンをぽちぽちとしている。たいしたことでもなかったはずだが、それでも心細かったのだろう、どこかほっとした心地がした。どころか、さらに高じてむやみに気持ちが大きくなってしまったらしい。わたしは女に話しかけてみようと思った。女はまだスマートフォンに夢中で、きっとわたしに気づいてはいない。ゆっくりと近付き、警戒されないよう、にこやかな笑みを忘れないように。しぜん後ろから声をかける形になるのはしかたがない。次の電車はいつごろ来るんでしょうか、とでも尋ねるのだ。
すみません、と発したわたしの声に、しかし女が気づく様子もない。イヤホンでもしているのだろうか。いや、そういうわけでもなさそうだ。仕方がない、まさかのっぺらぼうでもあるまいと、わざわざそんなことを考えつつ、スマートフォンにむいた女の顔を覗き込んだ。
そのとおり、のっぺらぼうではなかったけれど、 女の視線は動かぬままで、こんなに近くにいるわたしに気がつかない様子である。手を振ってみる、ふたたび声をあげる。けれどやっぱり気づかない。肩をゆさぶってやろうか。さすがにそれはまずかろう。
女にまとわりつくようななりで逡巡するうち、電車のうなりがまた届く。さきほどと逆方向であるからして、わたしと女の乗るべき電車に思われた。だんだん減速している様子だった。わざわざ尋ねる必要もなくなったわけだ。ぼんやりとしたアナウンスの聞こえる気がした。降車すべき駅はいまだ思い出せなかったけれど、乗ればなんとかなるのだろうと思った。わたしはまだ女の顔を覗きつづけていた。どこかで見覚えのある顔に思えてきたからだ。まじまじ見たところで、どうせ気づきやしないのだ。
停車し、わたしはいまだ女の顔を見つめ、女はいまだスマートフォンを見つめていた。ホームドアと電車のドアが同時に開く。わたしはようやく姿勢を戻した。こんな時間だというのに、車内はたくさんの人でひしめいていた。
そして、そこにいる全員が、わたしを見つめていた。ドアの向こうの人間たちも、窓ごしに見える人間たちも、そこにいる全員が、手前のものはわざわざ振り返ってまで、わたしのほうに顔を向けていた。目玉をこちらに向けていた。曖昧なアナウンスがして、ドアが閉まった。電車がすべりだす。後続する車両に浮かぶすべての目玉が、わたしを見つめていた。加速にともなって視線は曖昧になってゆく。動けなかったのだと、テールライトを見送りながら気がついた。女はあの電車に乗っていったらしかった。
それからわたしは、ずっとこのホームで電車を待っている。覗いた顔は、いまでは菱川の顔としてしか描けない。












