戦略会議 #02 展示まわり/ 青木弘「樹平線」ギャラリー冬青
12月に入ってすぐに鑑賞したギャラリー冬青で開催されている青木弘「樹平線」へちょっと無理をしてロンドン渡航の当日に時間を作って再度足を運んだ。
実はこのところしばらく、あれほど買っていたプリント作品を余程でない限り買うこともなくなっていたのだが…今回のこの展示作品は「余程」という思いからコレクションすることを決めたのだった。そして、何がすばらしいのかをちゃんと紹介したく再度ギャラリーを訪れてブログ用に写真を撮らせてもらった。
青木氏とは一昨年の秋冬あたりからギャラリー冬青でお会いしては話をするようになり、昨年1月の同じ時期に僕らは自身の展示の機会を獲得するためにミュンヘン、パリ、バーゼルへ青木氏はニューヨークへと渡った。その時に何度もやりとりをしてそれ以来関係が続いている。。
青木氏は「HEAL AFRICA」というアフリカを追った名著であるトキュメンタリーの写真集の作家でもある。このあたりは冬青社の高橋社長の紹介の方がよほど僕よりもすばらしいものとなっているので、ぜひブログから探してもらいたい。
高橋国博のブログ「目」http://tosei-sha.jugem.jp/
18年4月に僕がギャラリー冬青で2度目の展示「AA+A」を開催していた時期にギャラリーを訪れてくださり、今回のこの19年12月の展示のオファーがあり決まったと言う話をしたと記憶している。
ギャラリー冬青はモノクロ、ドキュメンタリー写真かつ伝統的な技法で制作されたプリントを扱うことが多い。単に技法へのこたわりというとつまらなく聞こえてしまうが、ポリシーのないギャラリーはもっとつまらないのでコマーシャルギャラリーとしてはありであると思う。青木氏の作品はドキュメンタリーでモノクロ写真のためど真ん中ではと思われるが、ギャラリー冬青の言うドキュメンタリーというのはいわゆる「報道」とはちがうので、その点でギャップがありそこをどう工夫するのか?ということが展示に向けての課題となっていると当時話をしたことを覚えている。どう作品を表現にし、アートとしていくのか?という問題だ。
この問題は、コマーシャルギャラリーでアートとして扱われる作品が良くも悪くもある出来事に頼った形で出来上がる「そこにいた」ということだけが作品の軸ではないということを示している。
青木氏にとってはある意味でいままでの作品とはまったく違った形で作品を創る必要性が出てきたのだが、それを見事に実現したのが今回の展示「樹平線」であったと思っている。そこまで褒めるほど何がいいのか?一番の理由は簡単な話で、純粋にいい作品、いい写真なことだ。
コンテンポラリーアートの研究をはじめて以降、僕が写真に興味がなくなってしまったと思っている方もいらっしゃるが…そんなことはない。元々全ての写真を良しとしていたわけではないし、面白さを見出していた点がコンテンポラリーアートにおいての方がより良く考えられていて、ヴィジュアル言語として豊かな表現だったというだけのことだ。豊かな表現を持った写真は未だに好きである。
本作「樹平線」はその意味で豊かなヴィジュアル言語なのだ。
写真として映し出されているのは中央アフリカという世界でも最貧困の国として数えられる国の風景、そして人々、また終わりの見えない内戦のひとつの要因ともなっているダイヤモンドの原石などだ。
中央アフリカは世界から”見て”非常に貧しく、内戦が続く危険な地域で、安定や平和の無い国のように思われている。その理由は繰り返される内戦による政治の機能不全だと言われている。内戦の原因は中央アフリカの地下資源であり、特に「ブラッド•ダイヤモンド」と言われるダイヤの原石の利権によるものだとされる。
ダイヤモンドは言わずと知れた世界中で高価に取引される「富の象徴」である。「富の象徴」の原石を抱える国が最貧困国とはなんとも皮肉な話だと最初は思った。だが、ダイヤモンドも科学的に言えばただの炭素で、鉛筆の芯と同じものだ。現在では人工ダイヤも作れるようになっているし、同様に中世の魔術的世界においてなら錬金術による金の価値もまた同様のことが言える。
「価値」という概念は人によって作り出されている。魔術的な世界で言えば、人を魅了してやまない何かであろうし、資本主義、商業社会ならば希少性や価値を付加するブランディングによってであろう。シャネルのアクセサリーが天然の真珠より価値を持った逸話やそれこそ、ただ塗布された銀が反応しただけの紙である写真に何故数万円の価値を見出すのかというのも同じことだ。価値の見え方は立ち位置と見方によって変わる。
今回の青木氏の作品の素晴らしいところは単にシャッターを切ってきましたという写真ではなく、このある概念に対しての「価値」の捉え方をあぶり出した点にあると考える
内戦の続く世界の最貧困国、中央アフリカの写真と聞いてどんな写真をイメージするだろうか?展示されたイメージがその想像に合う部分もあるだろうが、普通多くは「世界が中央アフリカをどう見るか」という世間のバイアスのかかった価値観で見てしまうものだ。今回の作品には想像以上にそういった世界観はおそらく無いと思われる。
実際に展示されたイメージは非常に穏やかで優しく、精神的に豊かに見える世界が広がる。
青木氏が中央アフリカをそういう形で表現したことには理由がある。これらのイメージは青木氏が中央アフリカをどう見ているのかというものや、イメージとして世界に中央アフリカの現状を知ってもらいたいといった類の作品ではないのだ。
青木氏がイメージ化したものは中央アフリカの人々の「平和」という概念に対する価値観つまり価値の捉え方なのだ。それ故に作品に作家が中央アフリカをこう見せたいといったエゴのようなものは感じない。
実際に現地に行って人々に会い「あなたにとっての平和とは?」と問い続け、その言葉の意味を解釈し、それを示すイメージとなるモチーフを現地で探し、ヴィジュアル言語へと置き換えているのだ。バスキアがノートのポエムをキャンバス上でヴィジュアルに置き換えたように…カミーユ •アンロが文学のセンテンスをいけばなで示したように…青木氏は中央アフリカの人々が言葉にした「平和」という概念をイメージに変換している。
そこに世界が勝手に”見る”中央アフリカに対するステレオタイプなイメージはない。
映し出されたイメージが意外と思うかもしれないが、彼らが「平和」に対して何を思うであろうということを知った気になっているのは外に立った我々なんじゃないだろうか…作品を見れば価値は見るものの立ち位置で決まるということが良くわかる。
命の危険が無いことはたしかに平和なことなのかもしれない。しかしその考えすらも、もしかしたら持ってしまったものを失わないために必要なだけだという一方的な側面の価値観なのかもしれないとさえ思えた。イメージから感じる彼らは「生きてしまう何年」も先の話ではなく、世界を五感で感じながらしっかりと今を生きているように見える。それは今が良ければいいという刹那的なことではなく、日々を考え、日常を意味に溢れた日々として積み上げて生きているということだ。
「PIEACE is…」あなたにとって平和とは何か?
青木氏は展示会場では中央アフリカの人々と同じことを僕らにも問う。どこに立って、何を価値と思うのか?日々の意味を考えなくても生きれてしまう我々にはそれを考えるいい機会を与える。
作品の制作プロセスを知って少年兵たちが学校で学ぶイメージが更に放っておけないものになった…先日ブログにも書いたが、カミーユ•アンロは人が人と成らしめるものはなんなのか?という根源的な問いを作品としているのではないかと解釈したが、おそらくそれを「知」にまつわる何かだと言いたかったのだと思う(参照:「戦略会議 #21 アートライティング/ カミーユ・アンロ《蛇を踏む》オペラシティ」)。
知識、学び、勉強、学問、学校…平和に対し彼らが何と答えたことがこのイメージを創り出したかは知らないが、いつ自分の身に死が訪れるかわからないその時に「平和」を「学び」と結びつける彼らは余程に人間として豊かだと思った。
「学校で学んだことは社会で何も役に立たない…」自分でも言ってきたし、良く耳にする…。事実そうかもしれないが、恥ずかしいのでもう二度と言わないようにする。役にたてられていないのは自分自身の問題だ。
展示としては中央アフリカのドキュメンタリー作品という横糸が全体を通して通るが、各イメージごと立ち位置の違いから生まれる深さの違いとしてストーリーを持ち、価値観、イメージを創り出し縦糸になっている。全体を通して多様で広大に編まれた「樹平線」は鑑賞者に平和の価値のあり方を問い直してくる。久々に観てわかった気になるのとは違う豊かな意味を持ったすばらしい写真展だった。オススメです。