[マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル → クレンツィス+ムジカエテルナ ベートーヴェンチクルス三日目へ]
1日2本建ての過密スケジュールもいよいよ今日が最後。 まず17時からマウリツィオ・ポリーニのピアノリサイタル。 私がまだ子供だった頃、ポリーニといえば、ピアノ界の神様みたいな存在だったが、そのポリーニも今年76歳。歳を重ねても尋常でないほど練習をするらしく、そのために故障していることが多いのだとかなんとか、とかく最近はあまりいい噂を聞かない。私がヨーロッパでポリーニを聴くようになって5年くらいになるが、正直言って現在の彼の生演奏は、往年の演奏の面影もないような状態である。それでも、やはり何かしら魅かれる部分があって、音楽祭のスケジュールを組む時に、何となく買ってしまうのが彼のリサイタルのチケットなのだ。 今日のプログラムは、前半がブラームスの二つの夜想曲、シューマンのピアノソナタ第三番、後半がショパンだけで、夜想曲作品62、ポロネーズ作品44、子守唄作品57、スケルツォ作品39。 弾き始めのブラームスは、美しい旋律の出し方に思わずハッとした。ポリーニ、ひょっとして良くなっているのか??一昨年より昨年が良かったけど、今年の方がまたずっといい。叙情的でしっとりとした夜想曲は、故意に硬質に作っているところはあったが、見事だった。ふむふむ、と思いつつ聞いていると、技巧を凝らしたシューマンのグランドソナタはもうボロボロ。指が回らない箇所もたくさんあって、そういうミスが曲が進むほど多くなってくる。ひょっとしてスタミナがなくて、弾いていくとだんだん疲れてくる、とか、そういうことなのだろうか。ただ、本人は鼻歌で旋律をなぞりながら、ごくごく上機嫌で弾き進めている。 後半はショパンだけになるが、かつての神業的な録音の記憶が存在するせいなのか、こちらの方がさらに不可解な演奏だった。テンポが速くなると必ず指がすべるし、全体に変な硬さがあって、メロディをスムーズに出していかない。こういうのがあるから、心無い人たちに「劣化が甚だしい」などと陰口を叩かれるわけだ。しかし、音をどんどん飛ばして弾き進むショパンを聴いていると、やはりポリーニならではの美しさというものは明らかにある。何しろ高音がキラキラときらびやかで美しし、そして、ショパンの曲で中間部で変調するとき、短調から長調になるときに、ふっとした彼独特の間合いがあって、それが本当に魅力的なのだ。これこそ技巧を超えたうまさ、というのだろうが、おそらく若い頃のポリーニの演奏に魅了されたことのある人は、現在の彼の演奏の中にも、こういう深い魅力を巧みに読み取ることができるのだと思う。 そして、やっぱりすごいのはスターの貫録だ。こんな(失敬だが)ボロボロの演奏をさらっと短時間で弾いて、無条件にこれだけ多くのブラヴォーが飛ぶピアニストはポリーニだけだろう。今年もピアノリサイタルはたくさん聴いてきたが、観客のテンションの高さはポリーニの時が最高レベルだったと思う。しかし、こういうアプローズは、今日の演奏だけではなくて、録音も含め、彼がこれまでの人生の中で積み上げてきた業績すべてに対するリスペクトとして解釈したい。 ***
18時50分に祝祭大劇場でリサイタルが終演して、モーツァルテウムでのベートーヴェン・チクルス開演が19時30分。かなり忙しいスケジュールである。 クレンツィスのベートーヴェン交響曲チクルス演奏会は本日で三日目。プログラムは2番と5番「運命」である。 3日目にしてようやく前方席で聴くことがかなったが、当然のことながらどこに座るかによって聴こえ方が全然違う。音のバランスとしては2夜目の中央列が良かったが、前列だと、総奏になった時の迫力がより強く伝わってくる。1夜目に強く感じたムジカエテルナの、土俗的とも呼べるような独特の「雑味」も、ここで聴いた方がより強く感じられる。 クレンツィスのベートーヴェンがとてもユニークなアプローチであることはいまで聴いてきてよくわかったが、この解釈の良さは、初期の古典的な色を残す作品よりも、中期から後期になって編成も拡大し、作曲家自身がいろいろと着想を盛り込んだ作品の方がどうやらおもしろそうだということも、少しずつ分かってきた。今日の演奏でも、2番よりも5番が断然よかった。 前に座ってじっくり聴いていて思ったのだが、クレンツィスはどうやらオリジナルののスコアを多少いじってもいるようだ。ベートーヴェンの交響曲はどれも聴きなれた曲ばかりで、これまでの自分なりのイメージを思い浮かべながら聴いていると、時どきハシゴを外されるようなガツンとした感覚がある。それが何だろうとずっと思っていた。おそらく、パート譜を微妙に変えたり、反復をしなかったり、小節を飛ばしたりをしているのだろう。記憶と異なる部分が妙な感覚を生み出すのだ。 とてもエキセントリックな解釈なのだが、最高に良かったのは第四楽章だった。かなりのハイテンポで突っ走るのだけれど、それが痛快と思えるような小気味よさがあった。メリハリを利かせてドラマティックに仕上げた、その企図がここではとても成功していると思った。こういう作り方は、やはり日頃オペラを演奏しているオーケストラであることを強く感じさせずにはいない。 曲が終わったあと、指揮者が引いてもお客さんの拍手が止まらない。オケはまだ舞台の上にいる。クレンツィスはしばらくして戻ってきて、戸惑ったような笑顔で指揮台に上がり、「こんなことってあんまりないんだけど…」と、相当困惑した口調で語りかける。オケに指示したあと、「5番第1楽章の別ヴァージョンです」。まさかのアンコール、先ほどの運命の主題の第1楽章を別の解釈でリピートである。そして別バージョンとは?…、本番よりオーソドックス。つまり、クレンツィスのフィルターをかけない、素のままのベートーヴェンである。なるほどね。今回のツィクルスは、ここまで冒険して演奏しているということが改めてよくわかった。そしてここで「普通ヴァージョン」をあえて演奏するということは、「ここまで面白くしているんだよ」ということを観客にアピールする意図があったのだろうか。 ところで、今日の演奏会で、突如、面白い記憶がよみがえった。…というか、むしろ記憶力悪いんじゃないの? とも言える話なのでお恥ずかしいのだが、備忘録として記しておきたい。今日は座席が3列目だったので、舞台がよく見える。クレンツィスの表情もここだとよくわかるのだが、私の記憶を引っ張ったのは、彼の派手なジャンプだった。ややオーバーアクションな指揮者なので、時どき指揮台の上でかなり力を込めて飛ぶ。ドン、と着地すると、このホールは舞台があるのに、私が座っているところまで衝撃が伝わるのだ。あまり好きになれないこのドン、というジャンプは…。一気によみがえったのは、2011年の2月に、短期留学の学生を引率して、ウィーン楽友協会大ホールで、若い聴衆向けの「ジュネッセ」というコンサートシリーズを聴いた時の記憶だった。あの夜の指揮者、絶対彼にちがいない。このドーンという音を立てたジャンプもそうだし、そして、あの日はモーツァルトの「ジュピター」だったが、古典の作品を解体していくようなエキセントリックな解釈も、クレンツィス以外には考えられない。帰宅して、すぐに検索をかけた。キーワードに、"Currentzis Jeunesse Musikverein 2011" と入れたら、楽友協会は過去のコンサートの情報もアーカイヴしてあるから、すぐに出てきた。
https://www.musikverein.at/konzert/eventid/18105
2011年2月17日で、オケも同じムジカエテルナ、ピアニストのアレクサンドル・メルニコフがソリストとして参加したようだが、のちにリサイタルにも数回出かけているメルニコフのこの日の記憶は、残念ながら何もない。鮮明に覚えているのは、とにかくざらっとした手触りのモーツァルルトが非常に奇異な感じをよび起こしたことと、指揮者の名前が何と発音していいのか読めなかっことだ。そして、ホール内で学生たちが写真撮影などをしていて遅く出たら、カールスプラッツ広場側に、旧式の、いかにも東欧から来たふうの大きなバスが止まっていて、終演後のオケメンたちが楽器を抱えて次々に乗り込んでいたことも妙に記憶に残っている。おそらく、終わったらすぐに次のツアーの目的地に向かっていたのだろう。時間も遅かったし、とても寒い冬だったので、見ていてずいぶん大変そうな印象を受けた。あれから7年。若者向けのコンサートにバスで移動して出演していたムジカエテルナとクレンツィスが、いま、本当にスターになろうとしている。だが、彼らのやっていることはほとんどあの頃と変わらないのだ。古典を解体して再構築するようなアプローチも、音を立てて派手にジャンプするタクトのスタイルも。彼らがこのまま自分たちのやりたいことをストレートにアウトプットしていって、それが正当な形で認められていくよう、心から願いたい。











