口の中にちいさな砂粒が五つ入っていた。かろうじて動かせる程度の舌が上顎にそれらを押し上げて、密着させる。上顎の肉をころころと突く、硬い固まりを感じて、朧は気の抜けた様に唇の端が緩むのを感じた。嗚呼、私はまだ、これはわかる。これはわかるのだと。
もう幾分と、先に待つ事柄など何も見えなかった。見えぬまま、追いかけて、疲れ果てて、脛に大きく傷を入れてしまった。私は、この雑木の繁みの隙間に足を滑らせて転がり落ち、ぐったりと息づくなか、かろうじて認識できるものはたったこれだけだと、認めており、その場に倒れていた。されどこれだけなのだと。そうした朧の、安堵に含まれているものは確かに自嘲であった。
青い唇がかすかに真横へ引き伸び、前歯の隙間に息を通して、反芻を重ね過ぎてしわくちゃになってしまったひらがなが目の前で私を見つめるのを見た。家屋の襖だって、冬にはもっと大きな声で泣くものだろう。朧はそれを知っていた。
私の耳は今森に打ち付ける大きな雫の群れを聴く。梅雨とは渡り鳥である。だから、きっと烏ではなくて、彼らは燕だろう。こんなにも透明なのだから尚更そうだ。
透明で聡明な燕たちは、夥しく、幾万本も真っ直ぐな尾を引いて落ちてくる。中には葉に肢体を激突させ、小さな破裂音を立てる者らも少なくはない。如何にせよ、落ちてくるこの燕たちは、きっと生きることを諦めたのだろう。では鰹鳥ではあるだろうか。浅い海を泳ぐ魚を狙って、眼球を潰す鳥達。それも妥当かもしれないが、此処が彼奴らの棲む、拓けた海の真中であるはずがない。
沢山の鳥の屍に、埋もれて死んでいく私も今まさに居た。倒れ伏している。いるようだ。
朧はまたかすかに笑って、安らいだ。水の燕の特攻によって、装束の奥までが水気にひたひたに満ちていた。大きく挫き、動かせない腫れ上がった脚の腱の火照りと、枝の先端が膝下を切り裂いた一本の大傷から出づる血液を、土へと流していく。黒く湿りざらついた土は燕の死骸とこの身の血液を少しずつ吸っていく。寒くて、寒くて。
今は水無月だったはずで、それなのに私の躰はこんなにも凍えて死を待っている。腫れた左踝を上から幾千叩く感覚はあっても、まさか、震えもしないとは。私は一体どんな所業を為して、今ぐったりと諦め、抵抗もしないでいられるのか。ああそういえば、私がそう自らを稽古したのであったか。
大きな水粒が耳の穴が埋める、その水かささえすり抜けて、誰かの澄んだ声を聴いた。
ばしゃばしゃ真新しい草鞋を足袋で包んだ両足で、ゆるい土を踏みつけて、こちらに駆けてくる。同じく真新しい縮緬の、紫色の袴。私がかつて「私」であった頃には、口塞ぎに葬る者の纏い布と同じ種であっただろう。しかし、この袴の男児は、朧にとって、彼の朋友も含め、そうであっては決してならないのだった。
彼は傘を持っているのか、この顔のすぐ脇に寄ると、すっと上半身に杭打つ燕の撃が退いた。腰あたりまでそれを防ぐから、きっと大人が持つような番傘だ。重たかろうに。
晋助は大声を出した。叱咤してすぐ、開いた傘を地面に立て掛けて、空いた両手でゆさゆさと私の右肩を掴んで揺らした。力の無い朧の頭も前後に揺れる。湿った髪が皮膚に引っ張られて一筋頬骨を滑る。晋助は取りやめることは無かった。生半可な力ではなかった。必死なのか。心の臓が左右から圧迫されて細長い棒になる。どれだけ彼の白い手の甲が今現在歪んでいることか。豆が痛いだろう。先日の試合、歳上相手によくやった。帰りに泣いたおまえを背負って、皆に内緒で茶菓子を買いに町に出掛けたな。一度手を、握ってきたじゃないか。あれは頑張ったという主張だろう。その手の痛みを、朧は痛々しいほど容易く予想立てることができた。すまない。これで倒れるのは何度目だろうか。
目覚めなければ。起きなければ。晋助。お前は私が見えるか。私に触れているのだな。お前の手が氷雨に打たれてしまうのが、俺は、嫌だ。だから、もう一度、真を見るべきだ。
此処は何処だ。此処は、そうだ庭だ。此処は萩の真砂土で、ぬかるみが濁りたった山では無いようだ。人を殺め、殺め返して、たった一人で祠で地蔵と夜を明かしていたあの砦の山ではない。そうだとも。
均された、小さな地面の間。ささやかな姫所音と酢漿が、水たまりの底に咲き、液体で満ち満ちていながら、封じ込めた様に小さな葉は中で生き生きと輝いている。目を少し遠くにやれば、若い小楢の木が一本と、名前の知らない黄色の花が秋に咲き乱れる青黒い葉を繁らせた同じ高さの木がふたつ、小楢の横に生えていて、屋根を建て替えたばかりの井戸がその下に置かれている。こなれた桶がふたつある。担ぎ棒が井戸脇に立て掛けられて、濡れそぼっている。井戸の右手には、締め切られた縁側が見える。その縁側は、永久に締め切られて誰も入れないものではないと、此処で暮らす朧は既に知っていた。その建物がどんな存在であるかもとくの間に知っていた。横にぐったり寝そべりながら眺めることが出来る一番遠くの景色には、木の小屋や蔓が伸びつつある小さな畑、洗い場の隙間から、屋敷を取り囲む垣根が並び、躑躅がその垣根の下半分で、均等な列をなすようにと、小奇麗に育てられていた。やや手入れの、手抜きがあるような、せんせいと、弟子と生活する屋敷の庭の一角に朧は居た。
「聞こえてるのか、……誰か此方に向かって来てんのか、またどっかを向いてた」
変に気を張っていた晋助は胸を撫で下ろしたが、すぐ我に帰ったのか、
と撫す腐れて、押し付けるように一段と大きく朧の肩をぐりぐりと揺らした。朧が何か言おうとする前に思いっきり掴み上げて、左手も地面に付いた朧の左肩に回して、強引に半身を縦の視界に押し上げた。ざり、晋助の草鞋と朧の着物が濡れた泥砂を擦る。朧は抵抗を与えまいと丹田からの力をその方向に添えて、上体を起こした。それは晋助の照れ晴らしを慮ったからではなくて、今ならば、それを庇うことすら雑作もなく出来るからだ。
晋助は起き上がった自分を食い入る様に見つめていた。何か、せつなげに見えるのは朧にとって不思議であった。凛々しい眉がしかめられていたが怒りの他にも何かたたえているようだ。端正な縁取りの真ん中に鮮やかな緑色の眼があり、ふたつでこちらを捉えている。淡い色の唇がぐにゅと噛み締められている。胸の上下が早かった。
風邪でも引いてしまったに違いない。私の、不明なる病状の発作によって。
「また俺は、此処で倒れてしまっていたのだな。お前も、すっかり濡れそぼってしまったようで」
こんな恥ずかしい思いをするくらいなら、死んでやる。そんな意志を存分にたたえた顔面が、直前いっそう切なくなって呟いた。
「やっぱり、兄弟子がこんなに冷いなんて、皆は知らないんだろ」
「冷いだろう……な。むしろ俺を見て、覚えるものとはそんなところではなかろうか」
兄弟子から見降ろされてる眼はいつも、黒くて洗っても取れ無さそうな隈で覆われていて、元服済みの男衆だって、一目置いて眺めてるくらい見つめるのをすこしばかり躊躇していた。前髪が長くて、何を考えているのか読み取れない、いつも後ろの方にいて、多くを語らず、また俺達の為に死力を尽くしていることを、悟らせないようにしてる。
でもこの理不尽な発作が、度々起こるようになり、兄弟子がこの庭の繁みで倒れていることがだんだん多くなり、そして不可思議でならないけれど、いつも兄弟子を最初に見つけるのは俺なんだ。ちょろっと、塾の中で噂になってたりするんだ。俺にも何故か解らないけれど。
「冷いって、兄弟子の態度のことじゃない。でも体温だけじゃないところまで、凍えてるんだ。だけど、俺が見つけた時の兄弟子は…他のどんな時よりずっとーー……、から、」
誰かに見付かったら嫌だ。小さな声で、確かに言い切ってから、しまった、と言いそうな程に動揺した晋助はぐねぐね視線を首ごと左右にそらして口を真一文字につぐんだ。真っ赤な顔。果糖と水をなみなみ含んだ林檎を連想する。
有難う、と兄弟子が発した声音を聴いて、晋助の瞳はますますぽってりと潤むようだった。一時合った視線が反れ、どことなく朧の体全体を見回しているようだ。
兄弟子に肩を貸し、片手に傘を持ってゆっくり歩き出した。雨の匂い。土の匂い、霧の匂いが傍らで混ざっている。兄弟子は当然なんの疑いもなく俺らと同じ様に生きてるけど、あのまま放っておいたら分解されるところだったんじゃないかとも、頭にちらつくことがある。
そんなことを言うから馬鹿の一つ覚えみたいに噂になってんだよと悪態を付いても、返事はなく、寄りかかる体重だけを感じた。仕方が無いので心の中で溜息をついた。
よくもぬけぬけと言ってしまえたものだ。いつもは絶対に言わないことだろう。誰にも見せない初めてを朧は俺に見せてきた。たった其れだけだ。他には何も、無いはずだ。
誰かの大事なものを、初めて預かることになったのだ。血がついた重たい衽を開いた時に、舌を這わせて冷えきった体を感じたいと思ってしまった。見えた何本の傷、青白い肌、薄い色素が晋助の脳裏に焼き付いていた。