[ウィーンフィル・シリーズ3週目はリッカルド・ムーティ!!]
ウィーンフィル・シリーズも早くも今年3週目である。
この頃になると毎年登場するムーティ。たぶん、ウィーンフィル・シリーズの中でもダントツ人気がある組み合わせだと思う。そして、今年はムーティのコンサートが最もクラシカルなプログラムだ。ハイティンクのマーラー、ネルソンスのショスタコーヴィッチ、そして来週がブロムシュテットのブルックナーを控えるなか、ムーティが振るのはブラームスのピアノ協奏曲第二番とチャイコフスキーの4番だ。ウィーンフィルで、難解じゃない古典っぽいものを聞きたいと思う聴衆には、もうこれしかチョイスはないだろう。
今日のソリストはイェフェム・ブロンフマン。ロシア(ソ連)出身でイギリスに逃れたピアニストで、ザルツブルクには定期的に出演してる。昨年秋、サントリーホールがティーレマンを招いてザルツブルク・イースター音楽祭の引っ越し公演を企画して、この時もブロンフマンはコンチェルトとリサイタルを予定していたのだが、病気でキャンセルになった。チケットを買っていたので残念だったが仕方ない。日本でのコンサートでは、一昨年、サロネンとフィルハーモニア来日の時に一緒に来たので、覚えている人もいるかもしれない。個人的には、同年のザルツブルクで、音楽祭フレンズのためのトークショーに出演し、自身のユダヤ系の音楽一家の、祖父の代からの迫害と苦難の歴史を語ったのが印象に強い。この物語がもうそれはそれは壮絶で、今も記憶から離れない。
ブロンフマンといえば、「男の辛口ピアノ」である。もうこの人は体格からして大きいので、舞台に出てくるだけで相当威圧感があるのだが、ピアノもとにかく男性的。最近は鍵盤を叩きつけるように弾く演奏があまり流行でないのかもしれないが、これはブロンフマンのスタイルだ。そして、若い世代はピアノのテクが皆それなりに高いレベルに達しているので、タッチを乱したりする弾き方にあまりお目にかからないけれど、ブロンフマンはそのへんはもうおかまいなし。アルペジオなども、音がくっついてマッスのように響いてくるのはすごい。…お盆時期なので客席には日本人も多くて、私のお隣にいた夫婦?は「なってない」とか、やけに憤慨していた。でも、このくらい辛口なピアノもあっていいし、私はブロンフマンの迫力ある演奏はなかなかかっこいいと感じる。ムーティとの組み合わせも、ブロンフマンがはじける分、指揮者が土台を絶対乱さないという意味で、とても相性が良かったと思う。
ウィーンフィル・シリーズは毎年聴いてきたが、今年はここに到達するまでに、マエストロとの接点が多かった。先週はネトレプコ出演、怒涛の『アイーダ』を聴かせていただいたし、そして、その直前には、ウィーンフィルのイベントもあった。オペラ演奏では、ムーティの素晴らしさを凝縮して味わうことができたし、そして、イベントで音楽家のトークを聞くというのはまた特別なもので、その人が抱いているコンセプトを言語として受容することで、こちらの理解もまた深まったりするものだ。
同管弦楽団の創立175周年記念イベントについては、別途記事をあげようと思いつつ、このままだと何もレポしないまま終わりそうなので、ムーティのことだけでもついでに書いておきたい。イベントは支援者とフレンズ対象のクローズドなもので、7日の午後に「モーツァルトの家」ホールで行われた。ウィーンフィルとゆかりの深い指揮者がつぎつぎサプライズ出演して、まずは隣の「岩場の馬場」劇場で「リア」のリハーサル中だったヴェルザー・メストを呼びつけ、そして「ムチェンスク郡のマクベス夫人」指揮のためザルツブルク入りしたばかりのマリス・ヤンソンスを引っ張り出し、そして最後にムーティがふらりと現れた。そして、何といってもムーティのトークがやはりすごかった。何がすごいと言って、出演時間は三人のうちで一番少なかったのに、しかも、一人だけ決して流暢とは言えないたどたどしい英語でのお喋りだったというのに、もう最初の30秒くらいで聴衆全員の心をしっかり掴んでしまっていたことだ。少しばかり辛辣なギャグも投入しつつ、話題の「アイーダ」のフルート・パートや、冒頭近くのテノールのアリア「清きアイーダ」の一部を口ずさみながら機嫌良く喋るのだが、それがもう本当にチャーミングで、「神レベルの偉すぎるマエストロ」というイメージは瞬時に払拭されてしまった。この、「あっという間に心をつかむ」というのは、指揮者としての大いなる才能だと思った。この奇跡のような才能があってこそ、世界中で超一流オケ、歌手とのオペラ公演をあれだけこなしていけるに違いない。過去の数多の超名演も、この短いトークを聞くだけで成立背景が十分わかる気がした。
そして、何より印象に残ったのが、マエストロの「ウィーンフィル愛」である。司会の音楽祭理事、ラブル・シュタブラー女史に「ウィーンフィルの思い出を」と問われて、初共演した1971年のザルツブルク音楽祭が最初の出会いであったとして、その時のエピソードを面白おかしく語っていた。同年5月、ウィーン市内のプライベートホールが最初のリハーサル会場になっていて、おそらく当時はイタリアから着くと南駅だったのだろう、タクシーに乗ったら行き先を告げたムーティの発音が悪すぎて(笑)、正確な場所に連れて行ってもらえず、市内をあちこち連れまわされた。結果、リハーサルに一時間遅刻。団員は建物の外でタバコをふかして待っていたという。語りながら、トークの合間にちょこちょこ演奏するという演出のために舞台に上がっていた若いオケメンに、「お前この時はまだ生まれてないだろ」「お前はまだ赤ん坊だったはずだ」などと頻りに絡んでいて、絡まれたメンバーも、「1歳でした!」とか、ゲラゲラ笑いながら本当にうれしそうにしている。ウィーンフィルという、なかなか気難しい特殊なオケで、ムーティは一段飛び抜けた信頼関係を構築していることが、話の内容からだけでなく、こんな悪ふざけからもよく伝わってきた。
そして、今日のコンサートも、ムーティのこの「ウィーンフィル愛」にそっくり包まれたような演奏会だった。ブラームスとチャイコフスキーなので、オケ構成も弦パートが壁になって、その後ろに木管楽器群、金管楽器群とひかえている。ブラームスはブロンフマンのピアノがどんなに強くても、もうウィーンフィルにしか奏でられない優雅な響きである。ブラームスはウィーンフィルでないとダメ、という人にを何人か知っているが、その気持ちがよくわかる。
本日のコンマスは、ミストレス、アルベナ・ダナイローヴァ。座っていた場所も良かったのかもしれないし、弦が立つプログラムも影響したのか、今日は、バイオリン、チェロ、ビオラ群のうまさをことさらに感じた。集団として、というより、今日の私の耳に聞こえたのは、ダナイローヴァを筆頭に、ひとりひとりのものすごく上手い音が飛び抜けながら個別で聞こえてきて、それがあっという間にオケという集合体の美音を作り出していく感じ、とでも言おうか。そして、最近のウィーンフィルはチームワークもいいので、トゥッティに入る時などは、全員でガットを最大限に鳴らしてゴー!! みたいな瞬間が何度かあった。こんなことは今まであまりなかった。どんなにコンディションが良くても、なんとなく無用な抑制をきかせているのがこのオケの特徴と思っていたが、このレベルにみんなで入っていく覚悟があるのであれば、それはそれでまた無限の可能性が出てきたと言えるだろう。
チャイコフスキーの第三楽章のスケルツォで、最初ピチカートでスタートした主題が菅に引き継がれ、行進曲風に変わっていくところ。菅パートだけの演奏になる部分で、お休みの弦の奏者たちがみな身体を揺らし、膝に置いた手で拍子を取りながら笑顔で聞き入っている。いつからこんなに雰囲気がいいんだろう。終楽章まで、ほぼ全員が笑顔である。ラスト、ファンファーレで弾き飛ぶとき、オケメンのムーティを見上げる目が、まるで(冗談ではなく)慈父を見るような素直な上げ目線で、これはちょっと感動的だった。
そしてムーティ。かれ特有の、身体と頭部はまるで彫刻のように直立不動で、主として腕を上手に使って振るスタイルだが、ウィーンフィルのときは、ほとんど腕も動かさず、立ったまま全く何にもしない時間が結構長い。前から見たら視線だけでキューを送っているのか。何れにしても、ここはもうあの愛と信頼関係だろう。最後に行くほどどんどん全体が盛り上がってくるので、終盤は、心の中で、「あー、終わらないで!ずっと聴いていたい!!」と願ってしまったほどだった。そして、大ブラヴォーのあとは、マエストロ、何度か舞台に戻ってきて、最後、観客に「出てけ!」の合図。このあたりの「オレ様」ぶりもまた好感が持てる。
それにしても、今年の音楽祭は返す返すも良席ばかりを当てていただいているのがもうただただありがたい。…コンサートシリーズ、ムーティの回で、5列目中央通路側は奇跡である。これは来日公演でもちょっと無理なポジションだと思う。たぶん、こんなに特別待遇していただけることは、この先もきっとないだろう。ウィーンフィルのベストな演奏を、今日は心から堪能できた。
夜は内田光子さんのリサイタル。
モーツァルトのソナチネと、これのカウンターパート、現代作曲家のヨルグ・ヴィドマンによる「ピアノのためのソナチネ」(2017年初演)を前半後半の最初におき、あとはシューマンというプログラムである。ヴィドマンの曲はモーツァルトのパロディだが、曲も解釈もわかりやすい。なにより内田光子さんのモーツァルト(そしてそのパロディも)、丁寧で美しくて、超有名曲だが改めて聴き入った。
それに比べてシューマン作品のアプローチの難解なこと、前半クライスレリアーナ、後半は幻想曲作品17番。モーツァルトとはまるで別の楽器のような響き方をさせている。ペダルも巧みに使って、なんとなく、楽器の一部だけを限定的に響かせているような感じだ。しかも、メロディや音形を積極的にデフォルメしていくので、本当に驚くようなシューマンに仕上がっている。特に、幻想曲17番は、音楽祭前半に聞いたアンドラーシュ・シフがチクルス三夜目のシメの作品として選んでいた曲でもある。2楽章の行進曲風の主題を、シフは、「これはオペラ風。シューマンがオペラを書いていたらこうなった」と解説し、演奏では自ら右手を時々鍵盤から離して指揮するように弾いていたが、そのマーチすらも内田は面白いほど見事にばらしていく。このデフォルメの過程で、当然タッチが乱れることもあるが、それはあんまり気にしていないらしい。前列に座っていたドイツ人夫妻、ミスタッチが出るたびに「びくっ」となって顔を見合わせていた。こんな神経質な聴き手もいるけど、「ミスタッチしても、あえて伝えたい世界がある」のが巨匠の貫禄なのかもしれない。このシューマン解釈は私にはまだいまひとつよく理解できなかったが、とにかく、内田光子がいま、シューマンの演奏を通じてこれまでになかった試みに取り組んでいることだけは、よくわかった。