【ノーカット&日本語字幕付き!】ルイス・バラガン邸ナイトツアー 前編 Recorrido Nocturno LA CASA LUIS BARRA...

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船場センタービル50周年短編アニメーション映画『忘れたフリをして』本編
いつ動画が始まるのかなと思いながらみてたけど、途中から動画いらないなと思うようになる
新建築住宅特集2020年8月号|大地の家|西口賢建築設計事務所
The Chemical Brothers - Got To Keep On (Glastonbury 2019)
Khruangbin - So We Won't Forget (Official Video)
TOKYO RIDE - Beka & Lemoine - Trailer
Bill Withers - Live
Abdullah Ibrahim & Ekaya - Water from an Ancient World (fragm.)
Paul Simon - Wristband
Radiohead - Live in Berlin (September 2016) #StayHome #WithMe
なんだこれ音が良すぎるなあ
Stainless Steel - Timber Connectors.
「今の建築は科学である」 小説や詩などは、行間で語られることが多い。読み手の想像力に委ねられている。 一方、論文は理論に基づいた独自の主張や仮説による実験結果に対する客観的判断である。したがって、読み手にとって大切なのは事実を理解すること。想像力を働かせる必要はほぼない。 前者は文学であり、後者は科学である。 さて、今の建築は文学、つまり芸術なのか?あるいは科学なのか? 建築家は、独自の主張に基づいたコンセプトという仮説を立て、建設という実証実験をする。その現場に行き、実証実験とコンセプトとを照らし合わせてしまえば、その建築に対する好奇心や興味は薄れてしまう。 関心のある人にとってはコンセプト通りかを確認するだけのもの。その他の人にとっては実用でしかない。 当然そこに想像力が入り込む余地はない。文学における行間であるところの“空間”はない。 いうまでもなく、空間は目には見えない。人の感覚や想像の中にしか存在しない。 そう考えると、今の建築は科学の領域を出ていない。建築家という学者が持論を発表する場になっている。 本来、建築は芸術である。人間性の回復、言い換えれば、心身の健康に付与する芸術である。
宇野友明:見たことのない普通のたてものを求めて,幻冬舎,2019,pp.74-75 より引用
LINDSAY JOHNSTON ARCHITECT
○:籠城 ×:買い占め
連日、大都市でのトイレットペーパー・食料品等の過度の買い占めや、 テレワークをやってみたところ色々と弊害があって 仕事が捗らないエピソードなどが報じられている。 また、学校に通えなくなった子供が 家でストレスを溜めて爆発寸前で、 テレビで面白い子供番組を見せ続けないと もはや生活が成り立たない悲痛な声が聞こえてくる。 はて、 これはいったいどういうことだろうか。 僕らは自分の家にも関わらず、そこでじっと穏やかに過ごすのが すっかり苦手になってしまったんじゃないか。 普段はずっと出かけてばかりだから、 いざ非常時に家にしばらく留まっていないといけない状況に置かれると、 実は家に居続けられないことが判明してしまったのではないだろうか。 特に都市部に住む人々は、 家に籠もっているとどんどん不安に なってしまう体質になってしまったようだ。 なんでだろうか。 なんとなく思いあたるのは、 家に閉じこもってないで、活発に外へ出かけ消費活動に励むことを 推奨されるそんな社会構造になってしまっていることだ。 これは消費社会を効率良く回すのには好都合であったが、 今回のようなパンデミック(2020年3月26日現在)においては その弊害が露わになっているのだ。 こうして改めて考えてみると、 自分の家にじっと過ごすことすらできない僕ら小市民の存在も、 なかなか哀れである。 そして買い占め行動が明らかにしたのは、買い占めに至るまでには、 僕らには精神的な余裕はもちろん、 僕らの住まいにも日用品を十分にストックするだけの 余裕がもはや存在しないことである。 消費社会は僕らに 「ストック(備え)があるから今は買わなくて良い」 という判断を否定するために、 「いつでも欲しい」状態を作り出したといえる。 非常事態は毎回、日常に潜むリスクを顕在化させる。 それでも僕らはそこから何かを学ぶことができる。 たとえば、現代の家にはストック(備え)が 十分できなくなっているのではないか、という問いが有効であろう。 僕たちは一見無駄だと思っていた家の中のゆとりを せっせと削り続けた果てに、この状況があるのだとしたら、 それはやはり反省が必要だろう。 物理的な備蓄に限らず、 家族全員が長期間穏やかに過ごすのに十分なゆとりが備わっているか、 というのも検証すべきであろう。 僕たちは不必要なものは大量に溜め込めるのに必要なものは置いておけず、 広い個室は揃っているのに家族でいっしょに過ごせない家ばかりを 作り続けてしまったのではないだろうか。 そんな家ばかりが建ちならぶ今の町は、ずいぶん脆弱ではないだろうか。 僕がタワーマンションに違和感を感じてしまうのは、 まさにこうした理由による。 じゃあどうするか。 「籠城できる家」というのがひとつの方向性になるかもしれない。 もはや家をもつことや、家をつくることに対して、 積極的な理由を持てなくなっている風潮もあるが、 いざというときに籠城ができる拠点を持つということは、 実はこれからの時代をサヴァイブする上で重要なのではないだろうか。 STAY HOMEと言われたときに、 楽しく籠城できるほうが断然生き延びるのに有利だからである。
運動の中でも、とくに「書く」は、非常に複雑なフィードバックのシステムを持ちます。陸上のラインに沿って走る場合と違って、「書く」は意味を生み出す運動だからです。もちろん、「書く」にも、鉛筆を持つ時の位置や長さや筆圧など、純粋に運動レベルのフィードバックのシステムがあります。けれども、それには還元できない、意味に関わるフィードバックのシステムが「書く」には存在するのです。 たとえば、筆算をする場合を考えてみましょう。287×859という掛け算は、多くの人にとっては暗算では困難な計算です。しかし、紙と鉛筆さえあれば、小学生であっても解くことできます。つまり、暗算ではできない思考も、筆算によって、つまり「書く」ことによってならできるのです。 暗算で行う場合、私たちはすべての計算のプロセスを頭のなかに保持し続けなければなりません。けれども筆算の場合には、大きな計算のプロセスを小さなプロセスに分け、書かれた文字に対して足したり掛けたりといった機械的な操作を行えばよいことになります。「書く」は「考える」を拡張する手段になるのです。 ここにあるのは、紙に書かれた情報と対話するようにして進める思考のあり方です。もっとも、こうした対話の相手は必ずしも「紙」には限りません。計算をするにしても、「そろばん」を使うこともあるかもしれないし、算数を習いたての子供なら「おはじき」を使うでしょう。 いずれにせよ重要なのは、私たちが何らかの物を操作し、その結果を視覚的にフィードバックすることによって、思考を容易にするということです。体と物と視覚のあいだにも、思考が存在するのです。 思考というと、頭のなかで行う精神活動のように思われがちです。しかし必ずしもそうではありません。
伊藤亜紗:記憶する体,春秋社,2019,pp34-36「物を介して考える」より抜粋
「観察と実践をめぐる中動態的モデル:コーンとサンドウィッチ」より抜粋 連──そこで本題です。サンドウィッチ・モデルを採用する際には、設計する行為そのものや設計したものを事後的に評価するメタ的な回路が、実践レベルで導入される必要があるのではないでしょうか。コーン・モデルにおけるデザイナーや建築家の位置付けは、理念や思想に支えられた強力な個人です。このなかでは、創作する際の参照点や自分の職能的立場は明確です。しかし、サンドウィッチ・モデルは他律的であるがゆえに、何をよりどころとするのか判断が難しいし、タイミングによって参照点も変化します。チューニングと微修正を繰り返すために、フィードバックの回路が必要になるわけです。建築や都市の領域において、この回路をどのように構築するかが重要であり、今後はその質を問うていくことになると思います。 上記と関連してもうひとつ指摘したいことは、実践介入するうえでまさしくフェッティシュな単体を複雑なネットワークの束として「ほぐしていく」感覚が私自身にもあるわけですが、そこで必ず問われるのは、「そもそも何のために設計するのか」「何のためにリサーチするのか」という、建築家もしくは研究者の主体性の問題です。 ここが十分に自覚的でないと、いくらよい建築物ができたとしても、引いた視点から見たときに、結局は資本主義をはじめとしたより上位の大きいシステムにすべて絡みとられてしまう。そういう意味では、建築家の着想や理念を社会のなかに還元しようとするときに、自分自身の仕事の受け方や立場の位置付けが重要になると思うんです。自分が介入するべきネットワークのありかを主体的に判断するメタデザイナー/メタアーキテクトとしての視点が求められる。こうした視点からも今回のテーマであるデザインとリサーチの関係を認識論のレベルで再構築していくことは非常に重要なトピックだと思います。 青井──さすが。論点を先回りされてしまいました。先ほどの僕の話にも留保をつけなければなりません。というか、それこそが重要です。例えば、僕が言ったふたつの話は、「中動態」の議論ともよく符合します。中動態というのは古代ギリシア語など数少ない古い言語に見られる動詞の活用です。対象に外から行為を及ぼそうとするときの動詞は能動態、反対に外から作用を受けている時の動詞は受動態になりますよね。「中動態」は、これらのどちらとも違って、主語が他者との関係のなかで自分の状態を変えていくときの動詞の活用です。わかりやすい例としては、説得する/説得される、のいずれでもなく、納得する(他者の作用を契機に自分の考え方が変わるのを自ら経験する)、という感じです。ドローイングを描く行為のサンドウィッチ的理解は、紙や絵具を含むモノたちとの関係に突き動かされて私は奇妙にも刻々と描いている、自分が描いているのだが自分が意志しているとは思えないような半ば自動的な変化を経験している、といったことを強調するのですが、これはとても中動態的です。自分がすでに頭のなかで完成させたアイディアをただ具現化するプロセスなんて不毛だし、本当はそんなことはありえない。描く行為の持続のなかで思いがけないものが生まれ、それを驚きとともに自分の作品として受け取るというのが創造行為です。
リサーチとデザイン──ネットワークの海で建築(家)の主体性と政治性を問う:青井哲人(建築史・建築論、明治大学教授)+連勇太朗(建築家、モクチン企画代表理事、@カマタ共同代表)10+1 website 202003より http://10plus1.jp/monthly/2020/03/issue-03.php