※11/22 文章がバカキモかったのでちょっと修正しました。
※第43回時点でまとめたものです。書いてる途中で第44回「空飛ぶ源内」を見たのでところどころ付け足しています!
もうすぐクライマックスを迎えるべらぼう。ちょっと早いですが、私が大河ドラマを通年でちゃんと見てるのは大変珍しいので、今の時点での所感を忘れないうちに書いておこうと思いました。
そもそも大河を通年毎週欠かさず見たのはガチガキ時代の「平清盛」以来なんですが…。
毎週決まった時間に小一時間テレビの前に座るのはなかなか難しいよ!NHKは見逃し配信も限定的だから、一回見逃すと追いつける機会が少ないし、見続ける敷居が高すぎる。
そんな自分が大河ドラマを語るのにはあまりに烏滸がましいのですが、個人的に「べらぼう」は、世間であまり馴染みのない時代を非常に親しみやすく描いた意欲作だったと思います。てゆうか飽き性私が毎週テレビにかじりついてたんだから名作だよ(主観)。
個人的には近世後期は、エンタメ的にも歴史学的にも非常に興味深い時代だと考えています。
ただ、ただですよ…人気のある幕末や戦国や、頼朝や源氏物語等の皆が知ってる旗印がある時代に比べて、視聴者と事前に共有できてる文脈と盛り上がりどころが近世後期はほぼない!換言すれば、映像にするにはチャンバラもないし、事前に説明しなきゃ分からないことが多すぎる。(説明事項については、はるか大明神を出してポップかつ必要最小限にやってたのうまいな~て思いました。)しかも田沼や定信、少し時代は下りますが伊能忠敬などの著名な人物を主役に据えず、蔦屋重三郎を中心に田沼時代~寛政期を日曜20時に描くのなんて!なかなか、いやかなり挑戦的な大河ドラマだったと思います。
さっきも言いましたが、近世後期、とても面白いんです。戦国からの移行期である徳川幕府草創や回天の時代幕末とは違った魅力が詰まっているです。都市文化が爛熟する一方で幕藩体制が静かに行き詰っていくどうしようもない閉塞感や、政治や経済・社会が複雑化して色々なところから様々な問題が顕在化してくるところがとても…とても面白いと思っております。
まさにそのあたりを、べらぼうは見事に描いていたなあと。
前置きが長くなりました。うだうだ書きましたが、これから言う説明不足や描写不足というのは、ないものねだりではある!ということです。以上を踏まえた上で、現時点でのべらぼう所感をつらつら書き留めておきます。
・吉原を中心とした都市・江戸の文芸隆興を描くのであれば…
蔦重が、「世を耕す」手段に「書」を選択できた理由といいますか、あの時代に蔦屋重三郎が吉原から出てきた理由といいますか…。空前の「書物の時代」として出発した江戸時代。天下泰平のもと書物を通じて学問・文芸が発達、幕府開府から150年が経過し、いよいよ爛熟してきた大都市・江戸の文化の、その中身の話がもう少し欲しかったです。
マストドンやぶるすかで毎度毎度ニチャニチャ語ってるので省略しますが、この時代の江戸の文芸を語るのに徂徠学(古文辞学)の流行ってのが、結構大きなターニングポイントでしてぇ…。ドラマ内でこんな細かい話を出す余裕がないことは重々承知ではありますが、学者や学派の名前だけでも出るかなあと思ってたので、全然でなくてびっくりしました。本居宣長も名前だけだったなあ。
「べらぼう」で取り上げられた、あの時代の吉原を中心とした文学の盛況と言いましても、書く人と書かれる人の間には、どう取り繕ったって権力勾配があります。そのあたりの話を2部以降もきちんと説明すべきだったのでは。
東北では娘を売らなければならないほどの飢饉が蔓延していた一方で、支配者層たる藩士は領民から吸い上げた米をサラリーに江戸でのうのうと文名を挙げ、売られてきた女を買っている。例えば、作中でも大活躍した朋誠堂喜三二こと平沢常富は東北、出羽国久保田藩の藩士です。マァさんが悪いというわけではなく、このような封建社会のグロテスクな構図を「吉原を盛り上げる」という大義名分の下で覆い隠してしまっていたのが2部以降だったなあと。(余談ですが、奇しくも同じ出羽国久保田藩から、荒廃し行き詰った農村の指導者層に受け入れられた教えを生み出した平田篤胤が出てきたのは面白いですね。)
花の井花魁と蔦重の関係を描写していた1部では、そのへんの話が花魁の口を通じて、きちんと説明されていたと思います。男と女、武士と百姓(町人)、幕府と町方、マトリョーシカのような入れ子の支配と被支配の構造や、メビウスの輪のごとく円環する加害と被害の構図を見事に描いていたなあと。これぞ江戸時代…!花ノ井花魁と袂を分かった蔦重は、これからこの体制のひずみを時代の中でどう自覚して、どう対峙していくんだ!と思っていましたが。なんか日本橋に出た途端、メディア王になって吉原を盛りあげる!(ドン!!)になってしまって、「アレ?」となってしまいました。彼の成功譚の足元には遊女たちの血と涙と死体があるはずでは。
(少し話はズレますが、吉原関連で言えば、職業蔑視と身分差別の話をまぜちゃった、というか前者を後者にすり替えちゃったのはちょっと問題があったかなあと思います。多分放送コードの問題や、説明する時間がなかったことは想像に難くないのですが…。)
個人的には、①②の問題は、大田南畝と松平定信をもうちょっと動かせば解決できたのではないかと勝手に思ってます。ですが南畝は登場が遅く、定信は田沼逆張りレスバトラーになってしまったので…、なんかこう…こうなってしまったのかな…。どうなんだろ…。
★第44回「空飛ぶ源内」見ました!文芸好きの好学大名としての定信の名誉挽回、面目躍如はこれから来そうですね!
南畝は描写が足りず、定信はなんかレスバが弱かった。こうなってしまったのも、多分渡辺謙さん演じる田沼意次が激メロすぎたのがアレだったんじゃないかな…と。いや私も放送中は田沼様激メロ!コリャ元の濁りの田沼恋しきになりますわ~と思ってましたけど、ね!
南畝に限らず、政治と市井をつなぐ役目を持ったトリックスター的な役割を担うべきだったキャラが、多分にonちゃん源内と田沼さま(と意知くん)に出番食われたのでは…?私はその役回りを源内と彼が見出した知識人チーム、平秩東作や杉田玄白、そして大田南畝が担うと睨んでました。蓋を開けてみると、南畝も玄白も東作くんも、出番は中途半端で、いなくても問題なく話進む程度の役回りでしたね。悲しい。
そしてこれはonちゃん源内先生がよかったからこそ、悔やまれることだなあと。(晩年疎遠になっていたとはいえ、)源内が撒いた種のひとつであった南畝は1部から登場してほしかった。
個人的に南畝は徂徠学派の末の弟であり、その末路を体現した人物であると考えています。彼とそのバックボーンを掘り下げることによって狂詩ブームと吉原をめぐる文学の話が、もう少し思想史的・文化史的に中身をもった形で見せることができたのではないかと。不遜な妄想をしてしまいます。
★第44回「空飛ぶ源内」で杉田玄白や南畝の再登場で、彼らにつながっていく源内の描写が、すこ~しですがありましたね!出番少ないのにしっっっかり学問吟味落ちてた南畝に爆笑しました。そうです、彼を見出したのは源内だったんですよね。ってウチは南畝のことよく知ってるから分かるんだけど(俺って変わってるからこういう子のこと好きになりがちなんだよな~)、そうじゃないと44話の玄白と南畝は唐突すぎたんじゃないかな。
この点、春町先生や京伝、そして歌麿の描写がとてもよかったからこそ、にぎやかし要素にしか見えない南畝はもったいなかったなあと。源内とも繋がりにしても、徂徠学にしても、南畝は蔦重の生きた時代の文芸というものの微妙な位相を体現していた人物だったのではないでしょうか。
狂歌師として、市井の文芸ブームの華として名声をほしいままにしながら、“太田直次郎”の自意識は、幕臣であり、治世の学問である儒学を修めた知識人というところにあったようです。(南畝とその周辺については色々な先行研究がありますが、揖斐高氏の「大田定吉伝」が個人的には一番好きです。)(そして私はこういう自己矛盾を抱えながらも学問に身を捧げた人物が好き~…。)
劇中での南畝は、春町の切腹前後くらいから、なんかよくわからないままフェードアウトしました。田沼失脚以後に狂詩・狂歌を捨て、定信たちが始めた学問吟味を受験した南畝の軌跡には、小禄幕臣の立場と苦悩、まだまだ実利や出世とは別の位相にあった(からこそ闊達に発展した)学問への葛藤がありました。そして、彼の立場と懊悩こそに、近世という時代の雰囲気とそこで生まれた文学の妙が描けた…のではないかなと。妄想してしまいます。
そんな南畝役を演じた桐谷健太さんがインタビューで、南畝は一歩引いたところで見ていたと思います、そういう風に演じました、と語ってたのを見て、おお~コリャ源内亡き二部以降のキーマンになるな!と思ってたのですが…。なんか二部以降も源内の死後強まる念が強すぎて、自然と田沼様(とその跡取り息子意知くん)に焦点が当たり、知識人チームは置いてけぼりでしたね。
意知くんが担った役回り≒市井と政局を結ぶ役を、東作くんと南畝ら源内からバトンを引き継いだ知識人チームがうまく担っていたら、蔦重と須原屋さんが源内の死を前にして誓った「書を以て世を耕す」にももう少し説得力がでたのかなと妄想してしまいます。限られた尺の中で、時間がないといえばないのですが…。
(というか土山さまをかばった東作くんの話好きだから、土山さまの役回りがまるまる意知くんに取られることで、その話もまるまる消えちゃったのも個人的にはムムム…でした。意知くんと誰袖花魁の悲恋も、それはそれで面白かったけども!!)(金カム白石の人の世直し大明神もよかったです。)
みんな思ってるだろうけどさすがにレスバ弱すぎない?!松平定信ってあんな露悪的に描けるんですね?!オモロ~
私は政治史詳しくないですし、創作物に対して、過度に専門的な精確性で以て追及する風潮は嫌いなので描写が正しいとか正しくないとは言いたくないのですが...。でもやっぱあの定信は5chに顔真っ赤で草って書かれてそうで笑ってしまうんですよね。ドラマの展開として、田沼様との対立を敢えて強調してるのは、よく分かるのですが…。
それでもなお、私の浅い理解ではありますが、定信を田沼様の逆張りで書いてしまうのはべらぼう的には少しもったなかったんじゃないかなあと。なまなかのうろ覚えで失礼しますが、定信の出した種々の政策の裏側には、彼の百姓に対する複雑な目線があったというのを読んだことがあります。白河の藩主として、東北の惨状を見つめ、自身も含め武士という階層は生産者から生産物を簒奪する消費者であることに対するコンプレックスに近いまでの危機感を抱いていたというのは、彼の書いた文章からありありと読み取れます。そう思うと、政治ゲームに夢中なべらぼう定信は、重厚な描写のあった田沼様に比べて、田沼―蔦重のラインとの対立構造のなかであまりにも単純化されすぎちゃったのかなと。
あとこれは完全にわがままですが、中井竹山も本居宣長も出てこず、柴野栗山が突如として湧いてきた朱子学のすべてを代弁していたのが少し寂しかったです。儒学、じゃなくて朱子学として出すならもうちょっと先に説明が必要だったような…。
ていさんと栗山のレスバシーンも、学問(儒学)が表舞台にようやくはいずりでてくることができた(誤解を恐れずにいますが)定信政権だったからこその意味を見出せるのではないでしょうか。
・個人的にとても好きなシーン ふくさんの死と打壊し、新さんの死まで
浅間山の噴火あたりから新さんを不幸にしないで!てハラハラしていました。いやあ、あの展開は…よかった…というか、天明期というものをまざまざとお出しされて色々考えさせられました。
どうしようもない天災に加え、主人公である蔦重の立ち位置の矛盾が、最悪の形で連動し、そのとばっちりを受けた新さんの口から出た言葉が「この者は俺ではないか」。このシーンだけで、私はこの大河ドラマを見れてよかったなと思いました。
困窮する新さん夫婦にお米を渡しながら田沼様を擁護する蔦重は、まったくの善心だけで動いてるのに、どう見ても体制側の人間なんですよね…。吉原云々言ってた割に、ここへきてこの主人公随分権力寄りだな?という矛盾に対する回答が、新ふく夫婦の悲劇という蔦重にとって最悪の形でお出しされる。すごく微妙なバランスを絶妙に描いていて、この言葉はきっと不適切でしょうけれど、新さんの死に際はとても美しいなあと思いました。
先ほど、敢えて「どうしようもない天災」と書きました。いまでこそ天災はどうしようもないものですが、天譴論っていうのがあってぇ(ニチャ…ニチャ…)、災害っていうのは悪政を敷いた為政者に対する「天」からの叱責という考え方がありました。ただ、ちょうどべらぼうくらいの時代に、「災害は民衆のおごりに対する天罰ではないか」という考え方も出るようになります。これがどういうことなのか、学術的な回答は私はまだ出せていませんが、すべての責任を為政者単体に押し付けられないほど複雑化した社会や逼迫した状況にあったことは想像に難くありません。そのような中での、様々な人間の思惑、感情の爆発を本当にきれいに(この言葉も適切ではないと思いますが)描いていて…。新さん関連は本当によかったなあと思います。
べらぼうもいよいよクライマックス。最後まで楽しみです。