20年ぶりに
『三四郎』を読んでいます。 高校生の頃は内容を理解して読んでいたのか今となっては不審におもう。それでもページをめくって読めていたあの頃の読書体力が懐かしい。取り戻したい。 その代わり今は多分当時よりずっと楽しみながら読めていると思う。漱石の文章が飛び込んでくる。 三四郎の時代の東京も、そのときの大学や学生の在り方も実際に体験したことはないのに、何故か読みながら自らの学生時代を髣髴させて嬉しい。
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20年ぶりに
『三四郎』を読んでいます。 高校生の頃は内容を理解して読んでいたのか今となっては不審におもう。それでもページをめくって読めていたあの頃の読書体力が懐かしい。取り戻したい。 その代わり今は多分当時よりずっと楽しみながら読めていると思う。漱石の文章が飛び込んでくる。 三四郎の時代の東京も、そのときの大学や学生の在り方も実際に体験したことはないのに、何故か読みながら自らの学生時代を髣髴させて嬉しい。
パガニーニ 協奏的三重奏曲 ニ長調
有名な24のカプリースもないのに、うちにはこんなレコードがある。パガニーニの、ヴィオラとチェロ、ギターのための協奏的三重奏曲。安くて、中身が面白そうだと思ったらとりあえず買う、だからちょっと風変わりなものに偏り気味のコレクションができる。うちのCDやレコードのコレクションは、枚数はあってもそうお金はかかっていない。
居間に寝っ転びながらタイトルの曲を聴いた。まず、楽器編成がいい。響きが落ち着いて、やわらかで。3つの楽器が交代で主役になったり伴奏にまわったり。パガニーニはギターの名手でもあったそうだ。ギターの音の動きも面白い。特に最終楽章が優れているとぼくは思う。
グールドのハイドン 後期ピアノ・ソナタ集
はじめはモーツァルトを聴こうと思った。でもハイドンのほうがいい、と、確固とした理由もなく思った。からだが、心が求めている、その直感のようなものに従おうと思った。で、演奏家は誰にするか。いつもはアンドレアス・シュタイアーのフォルテピアノでの録音を聴くけれど、きょうはグールド。これも勘。
グールドのコチコチした音が、ハイドンの書いた音符のかたちでぼくの感受性に当たる。息切れした心臓に、ほどよいマッサージが施される。柔らかな音では癒せないものもある。硬質な響きのほうがふさわしいときも。
聴いたのはピアノ・ソナタ第50番。ぼくの好きな曲に多いハ長調の曲。いつも思うが傑作だ。モーツァルトでもベートーヴェンでもなくハイドンにしてよかった、そう思わされる。音が嬉々として音楽の中で跳ねている、歌っている、たち働いている。美しいメロディーや、ロマン的な感情移入の余地などはないが、均整がとれていて、なおかつ無機質でなく人間的な暖かみがある。
こういう人のそばに立っていたいと思う。そこで日を過ごしたいと。
ロッシーニ クラリネットと小管弦楽のための変奏曲 ハ長調を聴いて
うちにたくさんあるディスクの中から、あまり聴いてないなと思うもの、かつ就寝までのちょっとしたすきま時間に聴けるもの、といった条件で曲を探すことがある。ジャンルはクラシック音楽であることが多い。一曲のポピュラー音楽は大抵チラシみたいだが(もちろん素晴らしいチラシもある)、クラシック音楽は短くても短編小説のような読みごたえがあるような気がする。
きょうはクラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの録音を集めたボックスセットから、ロッシーニの小品を。短いながら、序奏つきの立派に仕立てられた変奏曲で、クラリネットが軽やかに舞い、オーケストラがそれに応え、最後は重い扉を閉めるように荘重な感じで締め括られる。
それにしてもこのジャケットはない。オリジナル・アルバムは別の写真だから、このボックスのためのフォトセッションなのだろうが、なんだかザビーネ・マイヤーという人はちょっと曲者なんじゃないかと思わせるような写真だ。ぼくは本人を見たこともないからわからないが、もっと魅力の伝え方は他にあったのではないかと思う。ボックスの表紙はローワン・アトキンソン(Mr.ビーンの)みたいだし、ロッシーニの曲を収めたCD4のスリーブは戦艦の艦首にこちらを睨まれているかのような印象を受ける。
しかし写真はどうあれ、ザビーネ・マイヤーのクラリネットはいいなと思う。楽器さばきも、あるときはスープを静かに掬うようにそっと、あるときはスマッシュを打つときのラケットのように素早く、自在な感じが技術の高さを伝える。そして何より変奏曲の中で、旋律の表情の吹き分けが優れているように感じた。紙に書かれると同じような顔に見える音符が、名手によって変化に富んで豊かに実るものなんだなと思った。クラリネット奏者の比較対象をこれまでに行ってきたわけではないけれど、彼女が優れた奏者であることは間違いありません。写真はともかくとして。
J.J. Johnson and Kai Winding “The Great Kai & J.J. (1960)
ぼくがジャズを聴き始めたきっかけは、間違いなく学生時代・塾講師時代にお世話になった家庭教師先のおじさんである。あのお宅にお邪魔して、おじさんのコレクションを見なかったら、そしてそもそも音楽好きを自認していたぼくがそのことでおじさんに質問を投げかけなかったなら、大学在籍中にジャズなぞ聴き始めなかったと思う。ジャズを聴く人間に、今でもそうそう出会うわけではないからである。
きっかけは家庭教師先のおじさんでも、その趣味まではしかし受け継ぎはしなかった。おじさんにCDなどを借りなかったわけではないが、「よしジャズを聴いてみよう」と思ってからの行動、図書館でジャズの名盤案内本を借りる、図書館・TSUTAYAでCDを借りる、MDに録音する、パーソネル・曲目などをノートにつける、店でCDを手に取って購入する、それら一連の動きは自分の指針に従ってのものだった。
おじさんはModern Jazz Quartetと、トロンボーンが好きだった。だからMJQのMilt JacksonのLP (同じMJQのJohn Lewisのはなかったといえば、わかる人にはおじさんの趣味のある程度の方向性がわかると思う)や、トロンボーン奏者のアルバムは比較的たくさん持っていた。反発するわけではなかったのだけれども、ぼくは自分のコレクションを構築していくにあたってそれらのチョイスは避けるようにした。朴訥とした音のイメージのあるトロンボーンや、ジャズが端正な佇まいでいることを強いられているような(とその時は感じた)MJQの音楽よりも、もう少し勢いで裂けて破れたような、そして尖った音楽を求めたわけだ。
が、時を経て、きょうは二人のトロンボーン奏者がリーダーのこの有名な盤を聴いている。少しも悪くない。回り道をしたし、もっとおじさんにその趣味を伝授されてもよかったかもしれないが、継続して聴いているときっとどこかで繋がるものなのだ。結局、Bill Evansの参加と、Tommy Williamsという、天才ドラマーの誉れ高いTony Williamsと名前の紛らわしいベーシストの存在(ちなみにこのトミー・ウィリアムズ、あの”Getz/Gilberto”にも参加しているのでお確かめください)が気になって、ぼくはこのアルバムに辿りついた。
と、思い出話ばかりで中身の話は何もしなかったけれども、いいアルバムである。曲目にも演奏にも変化があって、リラックスしつつ聴き飽きさせない名盤といえると思う。
ぼくの一番大事なディスク
王子公園駅の近くのカフェでお茶をしていたら、BGMでAcross the Universeの安易におしゃれなカバーが流れてきた。そのまま注意していると、OasisのWhateverとかClaptonのChange the World、Elton JohnのYour Songとか、いわゆる名曲をリスペクトしているのか辱めているのかが曖昧なカバーが、続けざまに聞こえてきた。
帰ったら、久しぶりにジョン・レノンのAcross the Universe(この曲は何故かビートルズの、というよりジョンの、というほうがしっくりくる)を聴こうと、そのとき心に決めた。
アルバム"Let It Be"で聴いてもよかったのだけれど、ここは原点に立ち返る意味で、ぼくがはじめて手にした(親にプレゼントされた)青盤のCDで聴くことにした。
2枚目のCDの13曲目にセットする。はじめの一音から感傷的になる。カバーではない原曲。ぼくの原体験でもあり、その後のあらゆる音楽的体験の原石である青盤。その中でも特に神秘的で、思索的・瞑想的な気分を持ったAcross the Universe。いまだにぼくの心を瞬時にして掴んでしまう。そして、その後に続いて、ぼくの亡父が好きだったThe Long And Winding Roadが、まだリマスターされていない音で流れ出すと、(感傷的になり過ぎかもしれないが)涙が出そうになる。ポールが激怒したというオーケストラのオーバーダブされたバージョンだが、ぼくは嫌いじゃない。確かに"Let It be ...Naked"で現れたオーケストラなしのバージョンも優れて感動的ではあるのだけれど。
明日から、また新しい職場で働くことになる。ぼくのこころの基盤にあるいちばん大切なディスクを聴き、こころを整えて新たなことに臨むというのは、思いつきもしなかったけれど良い方策だったかもしれない。カフェで流れた安易なカバー曲にも感謝である。
1日早いバレンタインデー
この月末でおしまいの職場で、4歳の女の子からバレンタインデーのチョコレートをもらった。
仕事帰りに、妻と岡本でタイ料理を食べ、家に帰ったら1日早いバレンタインデーのおくりものをもらった。コーヒー豆と、ベルギーのチョコレート。うれしい。
しけしぼくに豆を挽いておいしいコーヒーを淹れる余力がなかったので、コーヒーメーカーでUCCのコーヒーを淹れてふてりで飲んだ。
しないといけないことがあるが、疲れてしまって何もする気が起こらない。明日の朝早く起きてすることにしようと決めて、ドビュッシーの歌曲を聴きながら放心している。コーヒーを、もっと、もっと、飲みたいけれど、ストーヴの上のやかんに入った白湯を何杯も飲んでごまかしている。
からだがだるいなあ。でも眠りたくないなあ。せっかくの週末、好きな音楽を聴いて魅了されていたい。しかし放心しているだけとあっては・・・
区切りをつける意味で、ブラームスの4番でも聴くか、と考えるが、それも無茶かと思い直して、また白湯をカップに1杯。
妻とクリベッジ対戦
結婚してよかったことのひとつに、クリベッジの相手をしてくれる相手ができたことを数えてもいいと思う。ほんの小さな一つのことではあるけれど、結婚相手が違えば叶わなかったことかもしれないのである。
松田道弘という人が書いた『トランプゲーム事典』というPlaying Cards(日本以外では、いわゆるトランプを「トランプ」とは言わない。トランプは本来「切り札」の意)で遊ぶ伝統的なゲームを1人用から2人用、3人用そして4人用という風にプレイ人数別にまとめて解説した本があって(絶版)、ぼくは高校時代に図書館でその本を借りて、相手もないのに様々なゲームで遊ぶ自分を想像しては夢を膨らませていた。その頃読んでいた海外の推理小説の登場人物たちが、ブリッジ(日本でポンとかチーとかいうセブンブリッジとは違う)をしている場面がよくあって、いつか自分も仲間とテーブルを囲んでブリッジに興じたいと思ったものである。
その本に載っていた中でも特異な存在が、きょう久々に妻と対戦したクリベッジというゲーム。17世紀ごろに生まれたゲームらしく、現在でもイギリスではパブなどでプレイされているらしい(ということなので、イギリスへ行った人にはクリベッジのことを訊くことにしているが、今のところ誰も目撃証言をもたらしていない)。ゲーム中に発生する得点の記録用に「クリベッジボード」という道具を使う(左の写真にうつっているもの)。取り決めにより61点もしくは121点先取のプレイヤーが勝ちになるので、120個の穴があいていて、そこにペグと呼ばれる得点をマークするためのピンを抜き差ししながらゲームを進めていく。場へ交互にカードを出していくときと、最後に手札やクリッブという親の得点となる札のセットを計算するときに得点が加算される。たとえば、先手のプレイヤーが2を出して、次のプレイヤーも2を出した場合に「ペア」となり、ゲーム中に2点が発生する。手札やクリッブにはできるだけ高得点となるようカードを組み合わせる必要がある。例えば足して「15」になるカードのセットはフィフティーンといって、フィフティーン1組につき2点。単純な例ででいえばQと5でフィフティーン(絵札は10点)で2点。少々複雑なのでいえば3、4、8、8でフィフティーンが2組とペアが1組になるので、6点。他に3、4、5と数字が連続したカードなら「ラン」といって1枚につき1点等、得点になる組み合わせは色々と考えられる。
くどくどとルールを説明しても面白くないので、このへんにしておくとして、このゲームの面白さは、まず、できるだけ高得点になるよう、手札や場の数字の組み合わせを考えることにある。そしてプレイ中にも些細なことで得点が発生するので、手札計算を待たずして勝敗が決してしまうことがあることが挙げられると思う。いくら手札が素晴らしくて最後に一発逆転を狙おうと思っていても、プレイ中のポイントで逃げ切られてしまうこともあるのである。逆に言えば、プレイ中に得点を獲得できるよう手札を選んでおけば(カードははじめに6枚配られるが、そのうち2枚を捨てることになる)、チマチマとポイントを稼いで逃げ切ってしまえるわけだ。
*****
実家にいるとき、ボードなしに紙と鉛筆で、妹に相手をさせたことが1度だけあったが、自分自身まだルールが掴めていなかったのと、妹が乗り気でなかったので、その1度だけでなにやらわけがわからずじまいになってしまった。
しかし妻と結婚が決まってから、ぼくは再度クリベッジをプレイする夢の実現に立ち上がった。そしてまず形からということで、クリベッジボードをeBayで購入。イギリスから中古のボードが届いた。そして『トランプゲーム事典』を再び図書館で借りて熟読。今も昔も忍耐強い彼女を相手に、ああだこうだと言いながら習得。妻もよく付き合ってくれたもので、よくルールを理解してくれ、結婚前から何度も何度も対戦を重ねた。いつかの記念日には新しいクリベッジボードを買おうかと思ったほどだ。
きょうは実に久しぶりに妻とクリベッジの対戦をした。
久々過ぎてガードを出す順番等、細かいルールは忘れかけていたが、すぐに思い出した。1勝負だけしてぼくが勝ったが、妻も1回で勘を取り戻したようなので明日はどうなるかわからない。
BGMはキューバ出身のジャズ・ピアニスト、ゴンサロ・ルバルカバ2005年のアルバム、”Solo”。クラシックの素養があるからか、ときどきクラシック曲を聴いているような錯覚に陥ることがある。ビル・エヴァンスは偉大なジャズ・ピアニストだが、あるピアニストの演奏があまりにその影響を感じさせるとぼくとしては興味が失せてしまう。しかしこのアルバムはそうではなく、ルバルカバ独自の世界が築けているように思う。今回、御影クラッセのワゴンセールでルバルカバのディスクを3枚も見つけたが、これを気にルバルカバのアルバムを集めてもいいかなと思っている。ルバルカバ、ルバルカバ、ルバルカバ・・・。あくまでも、思っている段階で、実際に買い揃えていくかは未定である。あくまでも。
ベルクのヴァイオリン協奏曲に葬られて
ブリテンの「戦争レクイエム」目当てでこのディスクを買ったのに、これまでずっとカップリングのベルクのヴァイオリン協奏曲しか聴いてきていない。このディスクを通してベルクのヴァイオリン協奏曲に出会ってしまったようなものだ。きのうもきょうも就寝前にベルク。ストーヴの前で蹲って音に耳を傾ける。川の中の滑らかな石で心を洗うような、そんな浄化の作用があるような気がする。
ベルクはこの曲を19歳で逝った若い女性のために書いた。そして自身もほどなくして亡くなった。ぼくはこの曲に葬られるようにして眠りたい。ぐっすりと死んだように眠って、色々なことを忘れる時間を長く過ごしたい。この曲は小難しいようで、そうではない。終わりの終わりに、今まで聴いていた音楽はなんて美しい音楽だったかを教えてくれる曲だ。最後の最後に深く納得して音楽を受け容れることができる。すべてよし。そう言えるような曲。
マンフレート・シェルツァーというヴァイオリニストについては何も知らないが、今のところこのディスクでの演奏に何の不満もない。しかしもっといい演奏があるだろうので、目下クレーメルの録音を入手しようかと目論んでいる。
牡蠣はバッハを聴くか
10人で赤穂へ行って牡蠣を食べてきた。酢牡蠣、焼き牡蠣、牡蠣の天ぷら、牡蠣フライ、牡蠣雑炊。とにかく美味しかったが、牡蠣の処理場のベルトコンベアで運ばれる牡蠣の殻や、食べ放題用に積まれた牡蠣の殻、自分が食べた手元の牡蠣の殻をまじまじ見ながら、ジャクソン・ポロックの絵のような(と、ぼくには少しだけ思えた)模様に、造化の業の不思議さを思った。蒲原有明という詩人に「牡蠣殻の歌」という詩があったなとも思い出しつつ。
運転で疲れ、牡蠣に満足したからだには、なぜかバッハがいいように思えて、シゲティの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのディスクを。からだも意識も休息の時間と空間に貼り付いてゆく。牡蠣殻のように。牡蠣も海の中で岩なんかに貼りつきながら海中の音に耳を傾けるだろうか。シゲティの古い録音の背後に聞こえる「ごぉ」という空間の音が、海の中でバッハを聴く牡蠣になった自分を想像させる。あぁ、今ぼくは牡蠣になりたいんだな。牡蠣になって、たとえ理解できなくても、ただバッハの音楽に耳を傾ける無為な存在に。
死のアンソロジー ショスタコーヴィチ 交響曲第14番 作品135 「死者の歌」、そしてバルトークのヴィオラ協奏曲
部屋の片付け、掃除、洗濯、郵便物の受け取り、支払い、外付けHDDへのPCデータのコピー。生きることに関する色々なことを午前中に済ませ、昼ごはんを食べて、大阪の図書館で借りたショスタコーヴィチを聴いた。交響曲第14番、「死者の歌」。はじめて聴く曲。11ある楽章それぞれにソプラノもしくはバスによる歌がついている。ブックレットの歌詞対訳と首っ引きで曲についていく。
ぼくみたいな半分も生きていない人間が言うのもなんだけれども、ショスタコーヴィチがこの曲で行った「死」の編集には、そうだよなあと思わされてしまう。ぼくらの中で蠢く死はこんなだよと納得させられ、不思議に惹きつけられてしまうのだ。アポリネールやリルケなど複数の詩人による詩が実によくまとめられていて、何度も読み返したくなる美しい装丁の詞華集のような交響曲だ。
大きくない規模のオーケストラが必要最小限に機能的に効果的に用いられて、仰々しくもなく、それでいてドラマティック。どこか、優れた映画のサントラのように聴こえなくもない。
図書館で借りたのはアシュケナージ指揮、NHK交響楽団のディスクだけれども、ぼくはどうやら早速この曲を気に入ってしまったようで、もう購入ディスクの選定作業を行い始めた。モーツァルトのレクイエムのように何枚もディスクをあつめることになるかもしれない。
夜に立ち寄った御影クラッセのワゴンセール(年明けからまだやっている)で見つけたバルトークのCD。偶然にも、バルトークの死により未完に終わったヴィオラ協奏曲のパリ初演を録音したものだった。死。未完。補筆。人によっては縁起が悪いと言われそうだが、きょうは死者の書にパタンと挟まれた栞のような1日だった。有給休暇の1日だったのだけれど。
Art Pepper "Modern Art" (1958)
毎日妻のことばかり書きますが、これは結婚してから1年目か2年目に大阪の日本橋へレコードを漁りに行ったときに妻が買った1枚。当時のぼくはArt Pepperになんて興味はなかったのですが、妻がジャズのレコードを求めるというまさかの事態に欣喜して、ペッパーだろうがベイカーだろうがよしとしたのです。これは名盤として名高い1枚ですが、コレクションになかったので丁度よかったというのもあります。
しかし時の流れは人を変えるもので、いまやぼくもすっかりペッパーのアルトのファンに。というよりも、ペッパーがわからずして何が「ジャズ聴き」かと。偉そうに、です。
A面1曲目、Blues In。ジャケットにArt Pepper Quartetとあるからぼうっと聴いてるとカルテット演奏かと騙されそうなんですが(誰も騙す気はない)、ベースとのデュオなんですね。説得力のある雄弁なアルトです。全編デュオでも聴いてられると思います。むしろ無伴奏でペッパーのアルトを聴いてみたい。でもピアニストがぼくの好きなRuss Freemanなので、カルテット演奏もおいしい。
それにしても音楽は人と聴くほうが楽しいかもしれませんね。好みに影響を与えあったり、これまで見えなかったものが見えたり。あれを久々に聴きなおそうと思ったり。 妻は復帰したiPodに使うヘッドホンかイヤホンについて思案中です。
なつかしいものが改めて新しい
ぼくは”red curb”派だ。のっけから、なんだ。いや、レイ・ハラカミの作品の中では、ぼくは断然”red curb”を推したいということだ。でも、なんだかきのうから”[lust]”にしみじみ感じ入ってしまっている。
このアルバムが出るのをぼくら夫婦は(そのときはまだ夫婦ではなかったが)心待ちにしており、ぼくはリリースとほぼ同時に入手してiPodに入れ、すぐに当時彼女であった妻にもシェアしたが、ぼくは”red curb”をその後も頻繁に聴き続け、妻は殊更に”[lust]”を愛聴した。きのうから妻と居間で音楽を聴きながらゴロゴロしているが(もちろんきのうの記事ときょうの記事の間に出勤はしている)、ぼくは改めて”[lust]”はいいなあ、レイ・ハラカミはいいなぁと感じて、改めてそのファンになったような気がしているのである。ぼくらは惜しい人を亡くした。
レイ・ハラカミの音楽に”red curb”で初めて接した頃は、初期の2枚は廃盤だったかで入手が難しく、ぼくはAmazonでもヤフオクでも楽天でもないサイトからやっとのことで”Unrest”や”Opa*q”を購入した。
しかし元来がただのコレクターに過ぎないぼくは、入手すればそれで満足してしまうところがあるらしく、やはりお気に入りの”red curb”はよく聴くが、その他の作品はあまり再生しないということが続いた。けれどもその裏で当時の彼女である妻は、ぼくがシェアした音源から、”Unrest”や”[lust]”をちゃんと聴いていたのである。
その妻の感性に今更ながらに刺激されて、レイ・ハラカミ名義の最後の作品(ほかに編集版やサントラ等があるが、ぼくはこれが最後のフルアルバムと認識している)を味わい深く聴いている。 それにしても妻が日曜の夜にタワレコの試聴機の前に立たなかったら、ぼくは相変わらずクラシックの、それも古典派の弦楽四重奏曲や協奏曲を聴いていたであろう(それはそれで悪いことではない)と思うと、なんというか不思議なものである。
妻のiPod復帰か
きのう映画館の帰りに妻とタワーレコードに寄ったら、妻がなかなか試聴機から離れなくて、ぼくのほうが手持ち無沙汰になるという不測の事態に陥ってしまった。ぼくのほうはただ癖のように立ち寄ったまでで、すぐに帰途につくはずだったのが、タワレコでの滞在時間が想定外に長くなってしまったのだ。
何をそんなに熱心に聴いているのかと思ったら、Coldplayの新譜やweezerやクラブ・ミュージックのレコメンド。ぼくと結婚したせいで自発的に音楽を聴く習慣を根こそぎ奪われたかに見える妻は、突発的に、囚われたように音楽を欲することがある。去年か一昨年はその発作でか、Sigur Rosの"Inni"を買った。
きょう帰り道の電車でAmazonを見て、妻にColdplayのCDを買った。自分には最近リイシューされたDon Ellisのアルバム。なんとも素晴らしいHey Judeのカバーが入ったジャズ・オーケストラ作品だ。
帰ったら妻が音楽を聴きたいというので、妻のセレクトでCDを流すことにした。metalmouseの"boscage"というアルバム。
ふたりで今はもう故人になってしまったレイ・ハラカミにはまったり、UnderworldのTwo Months Offを口真似したり、エレクトロニカ系の音楽ばかり聴いていたこともあったと懐かしみつつ。郷愁に満ちた映画のエンドロールをいつまでも見ているような音楽に浸りつつ、それぞれにスマホをいじっている(エレクトロニカ)。KALDIで買ったブラジル カシャンブ農園の豆のコーヒーを飲みながら。きょうは妻のカップを借りて。
長らく使っていなかった妻のiPodを今充電している。Coldplayが届いたら、妻のiPodも復帰かなとぼくは内心喜んでいる。
オーボエ協奏曲を聴く モーツァルト、ディッタースドルフ
フレンチプレスでコーヒーを淹れるようになってから、一度に作る量が多くなって、マグカップでばかり飲んでいる。コーヒーメーカーも使われる頻度がぐっと減り、いくつかあるお気に入りのカップで飲むことも少なくなったので、きょうは久しぶりにコーヒーメーカーで作ることに。豆はスーパーで売っている普通のUCCの粉。そこそこおいしい。そして好きなカップで飲むのはやっぱり嬉しい。
母によると、赤ん坊の頃のぼくはモーツァルトのクラリネット協奏曲とオーボエ協奏曲のカセットテープをいつも聴かされていたらしい。それをかけるとよく眠ったそうだ。
しかし当人には全くその記憶がなく、クラリネット協奏曲は大人になってから自分から何度も聴いてきているし、それらの経験で上書きされたのか、特に懐かしいという気持ちは起こらず、オーボエ協奏曲に至ってはつい最近までCDもなかったので、聴いてみても全く初めての曲としか思えなくて、DNAレベルから記憶がないようにすら思う。逆に、ぼくにこれらの曲を聴かせていた母が聴くと懐かしく思うのかもしれない。
モーツァルトのオーボエ協奏曲 ハ長調 KV314は1777年頃の作とされている。モーツァルト21歳の頃。ぼくの好きなハ長調の、堂々とした風格のある曲だ。ぼくは楽器をやらないし、もちろん法螺もオーボエも吹かないが、独奏オーボエが存分に活躍してオーボエ奏者の腕の見せ所が随所にあると思う。クラリネットの響きがぼくはとても好きだけれど、オーボエの舌の上でピリピリと香る香辛料のような響きも良いなと思います。
第2楽章のずっしりとした絨毯の上でオーボエが静かに踊るようなアダージョは、「覚えやすい親しみやすいきれいなメロディー」があるわけではないけれども、単独で聴いても贅沢な鑑賞のできる充実した楽章。第3楽章は歯切れのいいリズムが心地よいロンド。聴いていてなぜか働き者を連想する(ぼくはなぜか「ハイホー」を思いだした)軽快にして頼もしい音楽。
きょう1日だけで何度も聴いたけれども、このCDも先日御影クラッセのワゴンセールで100円で入手した1枚。スイスのレーベルから出ている、ポーランドの奏者とオーケストラによる演奏。この他にモーツァルトのオーボエ協奏曲のディスクがないもので、比較はできないが、特に文句をつけるところはないしぼくは十分に満足している。
もう1曲はカール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ(1739-1799)のオーボエ協奏曲 ト長調。ディッタースドルフはモーツァルト、ハイドンそしてヴァンハルというメンバーで弦楽四重奏曲を演奏したという古典派の作曲家で、コントラバス協奏曲なんて曲もあり、コントラバス協奏曲といえばディッタースドルフという人。とはいえコントラバス協奏曲の数自体そう多くはないはずだけれど。
ライナーノーツによるとディッタースドルフの自伝には1757年(モーツァルト1歳)に2曲のオーボエ協奏曲を書いたとあるらしい。1775年のブライトコプフ・ウント・ヘルテルのカタログには3曲のオーボエ協奏曲が載っているが、そのどれもト長調の協奏曲と一致しないという。
ではぼくが聴いているト長調のオーボエ協奏曲はいつの作品なのかというと、残念ながらライナーノーツにはそこまで詳しく書かれていない。ただ収録された音楽を聴くしかないのだが、こちらはオーボエ奏者が有名なハインツ・ホリガー。ホリガーは昨年来日して、ぼくは大阪で彼が指揮する日本センチュリー交響楽団を聴いた。ハイドンのオーボエ協奏曲を彼のソロで聴いたけれど、なんと美しい音色かと思いました。
モーツァルトのオーボエ協奏曲と比べて、ディッタースドルフの協奏曲がどうかといえば、普通に聴くだけでは時代的にモーツァルトより前だろうと感じるのだけれど、ディッタースドルフはモーツァルトが有名なハイドン・セットを書いたあとに、より古風な弦楽四重奏曲を書いたりもしているし、はっきり言って作曲年代の前後関係はわからない。ひとつ言えるのはモーツァルトの作品に比べると軽快でかつ少し古風な響きがするということだろうか。同じCDにはサリエリやルブランといった古典派の作曲家の協奏曲も収録されているので、またそれらと比較してみても面白いだろうと思う。
Roberta Flack “Feel Like Makin’ Love” (1975)
タイトル・トラックもお目当てには違いなかったが、3曲目のI Can See the Sun in Late December、このスティーヴィー・ワンダー作のナンバーを聴きたいがためにこのアルバムを買ったことを覚えている。12分と長尺で、かつ後半は歌なしのインストゥルメンタルときたが、この曲の魅力は「人には見えないものが見える」その神秘めいた感覚を雰囲気で伝えてくれることだ。スティーヴィーの曲ならではの求心力がある。アレンジで多少間のびした感はあっても、いい曲はいい曲。聴いてみてください。
ボッケリーニ 弦楽四重奏曲 ニ長調 作品2-2 G.160
このジャケット、一見すると味も素っ気もない水色の教科書みたいなんですけど、まじまじ見てみると、シンプルながら趣味がいいなと、そんなことを思いながら、ボッケリーニ初期の弦楽四重奏曲を聴きます。
初期の作品(1761年の作で、ハイドンの多くの弦楽四重奏曲が書かれる前)とはいえ、既に第1ヴァイオリン以外の各声部の扱いが単なる伴奏の域を抜けかけているように思えます。
10分だけ聴こうと思ってたら、これを書いてるついでに割りと長いこと聴いてしまいました。体が冷える。風邪をひく。いけないいけない。古典派の時代に行ってカルテットを演奏する自分を夢見て眠ることを夢見つつふとんにもぐりこんできます。