“Beyond Infinity,” a multisensory installation by French artist and theorist Serge Salat, interweaves mirrors, light, music, and fractal art in an architecture that conflates visitors’ perceptions of space. (via utnereader, Designboom)
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“Beyond Infinity,” a multisensory installation by French artist and theorist Serge Salat, interweaves mirrors, light, music, and fractal art in an architecture that conflates visitors’ perceptions of space. (via utnereader, Designboom)
Tracy Kestler
BC0605, 2006
(via beyondneptune)
今週末です!ぜひお越しください。
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「ハードコアダンスファクトリー第三回」
1. 「ウィスパーズ」映像上映
2. 大橋可也&ダンサーズ×大谷能生パフォーマンス
3. トーク:平倉圭(横浜国立大学准教授)×大谷能生(音楽家・批評家)×大橋可也
4. 国枝昌人×古舘奈津子「そのに」
「ウィスパーズ」は大橋可也&ダンサーズ+空間現代の最新作、大谷能生さんとのパフォーマンスは「OUTFLOWS」のトライアルパフォーマンスに、『ゴダール的方法』の著者で知られる平倉圭と大谷能生さんも初顔合わせ、国枝昌人×古舘奈津子は前回からさらに発展したパフォーマンスを披露します。
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9.11
星野太「美的-政治的判断力のリミット─宮崎裕助『判断と崇高─カント美学のポリティクス』」 表象文化論学会編『表象』第4号、月曜社、2010年、256-263 に掲載
Index+Summary | 目次+サマリー vol.0 エステティクスの臨界 CRITICAL AESTHETICS ←戻る 吐き気──「不定形」の反美学|宮崎裕助 2006年07月26日 「吐き気(Ekel)[嘔吐感、激しい嫌悪感、不快感一般を指す]」とは、人間の感性的経験のなかで、強い拒否反応をもたらす感覚である。カントは『人間学』でこれを「強烈な生命感情」として特徴づけたが、吐き気は、感性にとって、一方における〈健全に咀嚼しうるもの、体内化可能なもの〉と、他方における〈受けつけないもの、唾棄すべき(abject)もの〉とを峻別する限界の経験、感性における危機の経験といえるだろう。言い換えれば、吐き気は、瞬間的な否認の経験、もはや否と判断し言明することすらもできないようなラディカルな感性的拒絶の経験なのである。ところで、バタイユは「形なきもの(Informe)」という短い文章で、「形なきもの(不定形なもの)」が、つねにそうした吐き気に通じる嫌悪や蔑視の対象となってきたことを力説していた。形式をもつものともたないものの区別にまで問いが拡張されることで「吐き気」の感性的否認は、美学、現代芸術、表象文化一般にとって、いかなる危機の経験として現れるのだろうか? 本論は、「吐き気」というモチーフを出発点としつつ、近代のエステティクスを貫く「形式/無形式」の問題系にまで遡及することによって、「感性=美的なもの」の限界経験を理論的な検討に付すことを目的とする。 アンフォルムやアブジェクションについて語るとき、ごく図式的に言って、次のような問題に直面すると言うことができる。すなわち、既存の確立された秩序(美しいものの形式)に対して、カオス的に爆発するような契機(形を欠いた穢れたもの、忌まわしいもの、おぞましいもの、醜悪なもの)を対置・顕揚することで、聖と俗の弁証法(汚辱にまみれればまみれるほど、神的な聖性へと反転できる、云々)や抑圧と侵犯の二元論(形式や法を犯す熱狂的瞬間に自由と解放の希望を語る、云々)という疎外論的な思考パターンに陥ってしまうのである。問題なのはつまり、秩序に対するその種の祝祭的な侵犯は、まさに秩序を裏打ちするものとして、一種のガス抜きの効果として、秩序を前提しかつ結果的に強化するように働くことになるからだ。実際、アンフォルムやアブジェクションと冠された諸芸術が、たんなる露悪趣味やゲテモノ趣味を超えないことはよくあることで、アンフォルム論再考を試みるならば、その種のナイーヴなカオス回帰の幻想を断ち切る必要がある。 そもそも「形式/無形式」の対立は、ひとたび近代美学の文脈を考慮するならば、「美/崇高」という古典的な区別へと連れ戻す。古典主義的な美学が、良き趣味としての均整と秩序を保った形式を美の範型とするのに対し、崇高の美学は、いまだ趣味に適うものとしては確立されてはいない(それどころか悪趣味でさえある)不定形で未分化な「無形式なもの」に美を超えた表象の様態を見出すだろう。カントの『判断力批判』によれば、崇高なものは、感性的な直観によって直接には把捉できないみずからの呈示不可能性によってこそ、むしろ超感性的な理念(所与の形式を超えた無限や絶対者)が消極的に呈示可能となるよう構想力=想像力を促すことができる。20世紀の崇高の美学は、この意味で、悟性や感性の形式のいかなる既存の法則や秩序によっても規定されたことのない「表象不可能なもの」を表象しようとする点に、アヴァンギャルド芸術の命法を見出した(リオタール)。それはまさに、未曾有の出来事の到来に直面せんとする思考の命法である。 しかし、このような命法はすぐさま維持しがたい困難にみまわれる。崇高の美学は、一方で、「無形式なもの」や「表象不可能なもの」に固執することで、すでに述べたような疎外論に即してカオスの物象化へと容易に転化してしまう。他方で、そのような危険を回避しようとするあまり、偶像禁止の命令のごとく「表象不可能なもの」そのものをテロスとしてしまうような否定神学の罠がある。否定神学というのはつまり、まさにそうした「表象不可能なもの」から出発して、どのように表象するのか、どのように判断するのかが問われているときに、そのような不可能性そのものを解決とみなし当の問いを回避するという罠にほかならない。 本論において、「吐き気」は、以上のような問題設定の背景において、崇高の美学が抱えるアポリアを問い直しうるような、ポスト崇高の形象として捉え直されるだろう。というのも「吐き気」ないし「嘔吐」において露呈する感性の瞬間的な否認の経験は、それ自体としては表象不可能な感性的なものの臨界においてそれでもなお発動する切断の経験、感性的な危機における決定の経験だからである。そこでは、形式と無形式、表象と表象不可能なもの、といったものの区別を否認しかつあらためて法として打ち立てるという倫理的瞬間、いわば《感性のエチカ》というべきものが賭けられているのである。
Sylvie Guillem - Bolero (1/2) (by CDBClassique)
<その手紙の中には、ところどころわかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている>(ペテロの第二の手紙三章十六節)
ここ数日、聖書に関する本をなんとなく読んでいる。日曜学校に通っていた幼稚園生の頃から大学に進学する20年ほどの間、キリスト教に関しては殆ど考えることもなく過ごしていた。仙台に暮らした小学生時代は、祖父や曽祖父母の葬儀や法事は仏壇に向かい、新年には神棚を拝むのが常であった。あまり大きな声で言えることでもないのだが、私で14代目になる我が家が昔から世話になっているお寺の僧侶は、なんとも節操がないでっぷりとしたからだで、ありがたみのない説法を説いているらしいということを、幼心にも感じ取り、物心つくころには、寺や仏と言えども人間の世には違いないということを誰からともなく知った。だから、葬儀のとき、私は随分とさめざめとした目で仏壇の僧侶を眺め、大切な人を失い悲しみに沈む家族をそっと見つめていた。決して涙は流さなかった。葬儀に関して私が泣いたのは、7つになったばかりの冬に長年のがんの闘病の末息をひきとった祖父の葬儀でわがままを言って母に叱られた時、それからちょうど6年前の秋、6つの時から一緒に育った愛犬亡くした時だけだ。その間、何人もの親戚が亡くなった。もちろん、その度にことばにし難い思いに充たされはしたものの、決して泣くことはなかった。なぜかは、半分くらい、わからない。 そもそも大学に進学したのが、愛犬との別れがその後何ヶ月かたってもなおあまりにも受け入れ難い毎日を現前させていたからであり、従って、進学後、キリスト教に限らず様々な神学および宗教学への期待がこもった関心を昂らせたのには、なんの不思議もなかった。毎日、日がくれてから開講される授業にもぐりこんでは、いろんな教官に推薦図書や理解が足らなかった点を改めて聞き返したりして過ごした。 それでも大学で開講されていた講義がキリスト教の教義や歴史、聖典についてを直接学ぶものはあまり多くなく、むしろ私の専攻であった美術史からのアプローチとしてキリスト教に触れることが殆どであった。そして私自身、なにを体系だって知っているでもなく、次から次へと開示される見知らぬ事柄に日々目を丸くしながら、授業と図書館を行き来していた。思えば、その間は自らなにか特定のことを知りたい、知る必要があるとする余裕もなかった。キリスト教に関しても、どこに主眼を置いてなにを知るのかということもなく、流れるようにあらゆることを咀嚼し吸収するに努めており、進学以前からあったはずの、知る必要性はいつのまにか消えていた。 ようやくここ最近、いままで姿をくらませていた、そのような必要性が再びよくみえるようになってきた。更には、必要性とはまた異なる知的関心が聖書という書物を求めているように感じる。人の学ぶ理由とは、ひとつ消えたと思えばまたひとつ新たに現れる。いつか、知的好奇心が消えてしまったらと恐ろしく思った日々があったが、それはまだ勇み足だったようだ。 <その手紙の中には、ところどころわかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている>(ペテロの第二の手紙三章十六節)
知覚の墜落ーーロバート・スミッソン
27日(土)東京堂レクチャーは「知覚の墜落ーーロバート・スミッソン」という題になりました。
どうぞよろしく。
http://tokyodoshoten.co.jp/blog/?p=1343
明日!