文字の黄昏④
木村敏/形なきものの形──音楽・ことば・精神医学/弘文堂・1991
学生時代にピアノを弾いていたとき、ぼくは独奏よりも伴奏のほうが好きだったし、みんなからも伴奏のほうがうまいといわれていた。プロの声楽家からも練習の伴奏をよく頼まれたし、放送やステージでの伴奏をつきあったこともある。
伴奏のこつはなにかというと、歌い手の音とピアノの音を合わせようとせずに、おたがいの音と音とのあいだで、いってみれば音のない空間で気持ちを合わせるということである。
それに慣れると、不思議なことに、歌とピアノが同時に始まる曲の一番最初のところの難しい呼吸もぴったり合うようになる。つまり、音と音との「あいだ」というものは最初の音の前にまで拡がっているということだ。音と音とがまずあってそのあとで「あいだ」ができるのではなく、まず「あいだ」という共通の場所が二人のあいだに成立して、最初の音もこの「あいだ」から出てくるのだと考えれば、あまり不思議ではなくなる。
この経験は、あとから非常に生きてきた。精神科医になって、人間関係を病んでいる人たちを治療するとき、治療者の役割は伴奏者の役割と完全に同じだと思う。歌手がなんの拘束も感じることなく、自由に自分自身の歌をうたえるように配慮するのが伴奏者の役目だとすると、治療者の最大の役目は、自分とのあいだで患者がのびのびと内面を表現できるように配慮することである。まったく同じことだ。
「音楽の中ではどんな音でも、それまでに響いたすべての音の意志を受け入れ、次に来る音を求めている」
澄川龍一/アニソン大全 「鉄腕アトム」から「鬼滅の刃」まで/祥伝社・2025
TVアニメはすべて30分番組。うちOP/EDで音楽を流せる時間はそれぞれ89秒。どうしてもBPMは上がっていく。水木一郎・影山ヒロノブといったレジェンド歌手の時代から、00年代には林原めぐみ・水樹奈々ら声優による歌唱、その派生として『アイドルマスター』『ぼっち・ざ・ろっく』の人物に扮したキャラソン、そして現在はYOASOBI・米津玄師・Official髭男dismら人気J-Popとのタイアップが主流に。
『ポパイ』など輸入作品を除き、アニソンのフォームを決定づけた第一号は、もちろん1963年元旦にフジテレビ系列で開始された『鉄腕アトム』なのだが、手塚治虫の依頼で高井達雄が作曲したそれは当初歌詞のないインスト曲としてOP/EDに流れた。OPが谷川俊太郎による歌詞を少年合唱団が歌うバージョンに代わったのは同年7月の31話から。この年の9月にアメリカのローカルネットワークでもAstro Boyとして放映開始されることになり、事前の試写で、当時アメリカでは子ども向け番組テーマは歌ものが通例であることを手塚らが知って、では日本でも歌詞を付けようとなったと言われている。
アトムと共にテーマ曲も子どもの心をとらえ、これに着目した朝日ソノラマは、ソノシート=柔らかい塩ビのレコードを小冊子にとじ込み、家庭向けに書店で売られる=を、アトムの物語とテーマ曲を収めた『鉄腕アトム 第1集』として商品化。本書には「爆発的な人気を呼び、120万枚売れた」とあるが、手塚の『新宝島』40万部というのもウソなのでね。朝日ソノラマは左翼/リベラルということになっている朝日新聞の完全子会社なのだが、これに味を占めたかウルトラマンをはじめ幅広くソノシートを作り、他社も追随、まあ本書とは別の話だ。著者はタワーレコードの洋楽シングルバイヤー、bounce編集部を経て、ソニーミュージック系のアニソン専門誌編集長に。商魂たくましい日本の業界/ジャンル御用聞きとして活躍中。
武論尊/悪と嘘を描く──武論尊の漫画原作私論/小学館新書・2026
クリント・イーストウッド演じるハリー刑事はまさにダーティーな男だ。職務を遂行するためなら手段を選ばず、法や規範からの逸脱も厭わない。そのヒーロー像を支えているのは、やられる側の描かれ方なのだ。第一作の悪役スコルピオは、まさに世の中のすべての悪を凝縮させたような殺人鬼。1968年にサンフランシスコで起こった、ゾディアックと名乗った犯人による迷宮入りした連続殺人事件をモデルにしたとされる。ハリーがルールや規律を守らない問題児だから、より上位の悪を設定し、悪を持って悪を制すの構図を作る。
主人公の加納錠治(ドーベルマン刑事)やケンシロウはセリフを少なく、寡黙なキャラに設定し、周囲に取っておきの悪役キャラを配置することで、一歩引いた視点で主人公を間接的に操るのだ。貧しい家庭に育った俺は、自分の心の闇を自覚していた。単に粗暴で残虐なキャラクターを登場させるだけでなく、主人公と悪役の価値観のせめぎ合いと社会的な葛藤を見せなければならない。ドーベルマン刑事では「モンスターペアレンツ/少年犯罪/米軍の治外法権/筋弛緩剤による殺害」といった実際の報道を参考にしたし、北斗の拳では原哲夫先生の卓越した肉体描写を売り出すという編集方針に沿って、映画マッドマックス2 に想を得た、核戦争後の荒廃を舞台に。世界観を提示する1話目は一挙46ページ、描き直しで苦労した2話目「種モミに未来を託した老人が惨殺される」過程のリアリティは会心で、5話目から2年間ジャンプの人気トップを明け渡さなかった。
俺のような特定のパートナーを持たない原作者は、若手から巨匠までさまざまな世代の漫画家と仕事をすることになる。サンデーとマガジンでは史村翔の名を使い分け、アクション・コメディー・ラブロマンス・シリアスな人間ドラマまで幅広い芸風で勝負してきた。仕事なのでどんな人とでもうまくやっていかなければならない。どんな編集者とも話ができ、 どんなテーマにも好奇心を持つことができる、それが原作者としての一つの才能になると俺は思う。(抜粋)
柳父章/翻訳語成立事情/岩波新書・1982
Heやsheなどの西洋文における役割は、第一に行為の主体である主語を常に明確にしておくという構文上の要請である。人称代名詞の多い文は、西洋人にとって読者が親しみを持つ第一の条件である。その背後には行為の主体を常に明言し、責任者を個体として捉えて明らかにしておく、という思考の構造がある。一方、日本語の文章に主語が少ないことについてはさまざまな説明がなされてきた。「する」ではなく「なる」という動詞を日本人は好むという。会議の先で報告するとき「こうしました」と言うと抵抗があるが、「こうなりました」と言えばすんなり通る。「お安くなっています」という、八百屋のお安くなる行為には、当の八百屋だけでなく、同業者も客もいくらか参加している。
日本の私小説の元祖といわれる『布団』において、とにかく花袋は「彼」や「彼女」という言葉を使いたかった。日本文に欠けていたからではない。花袋の思想がそれを求めたというのも当たらない。翻訳語「彼」「彼女」に誘惑されたのである。(10章「彼、彼女」の抜粋)
福澤諭吉は下級武士の末っ子に生まれたので、父親は僧侶であれば武士よりも立身出世の道が開けると考え、彼を僧侶にするつもりだったが、諭吉が物心つく前に死んでしまったので果たせなかった。また当の諭吉も欧米留学を経た維新の混乱期に自分の息子をキリスト教の宣教師にしようと考えたという。(山本七平『日本人の人生観』による)
彼の、いや明治期に大学や新聞出版を興したような知識人の学問立国/脱亜入欧志向は、諭吉が『文明論の概略』で説いたような日本の権力偏重/タテ支配=男女・親子・長幼・世間全般の身分秩序が動かしがたいとして、それに対応する実用主義/自己責任論の面が濃厚だったとも解釈できるのだ。
社会/個人/美/恋愛/存在/自然といった言葉は、江戸期の日本語では正確に表せず、そうした知識人が苦労して作った造語なのだが、いったん定着すると、柳父氏の造語「漢字のカセット効果=中味が何か分からなくても、人を惹きつける宝石箱」として一人歩きし、言葉は正しい、誤っているのは現実の方だというような象牙の塔の権威主義を形作ってしまう。こうした漢字中心の表現は、人文系の大学や出版業などの分野で、やまとことば伝来の日常語表現をかえりみない、現実を置き去りにした観念的な修辞をのさばらせ、「用語で煙にまいたような評論を書く知識人は多い(歌人・川本千栄による書評)」、すなわち身分秩序+欧米模倣=学問立国どころか東京五輪開会式/広告馬鹿女が首相という現状を招いた。
木村涼子/学校文化とジェンダー/勁草書房・1999
1970年代以降のフェミニズムは、それまであまり問題にされなかった学校教育を対象として取り上げ、その内部にある性差別を問い直した。男女別学が私立高校では約半数、中学からの技術科と家庭科、公立高校の定員が女子を少なく設定しているなど。こうした格差はランドセルの色・名簿の順番・制服・部活・進路指導などカリキュラム外にも及んでいるし、教師の固定された男女観による何気ない発言・態度などによっても蓄積される。
学校文化における、男女は同じ人間として同じことをすべきだしそうできるという近代市民社会的な平等原理と、男女は異なる存在として同じことをしてはいけないしできないという性差別の共存。女子は2つの矛盾するメッセージを受け取り、それに生涯縛られ、再生産していくことになる。男性の側から見れば、この2つのメッセージは、勉強がんばれ、男なんだからがんばれと、ひたすら達成・競争を促すものになるし、もう一つの問題点として、女性の場合とは逆に家庭生活や家事育児など労働力再生産分野の仕事や文化から排除されるということである。家庭運営面での能力と意欲を奪われるとともにそのことを不自然と思わないパーソナリティが形成され、それもまた再生産されていく。(抜粋)
このほか後半では、大島弓子や吉本ばななのようなフェミニンな表現、花井愛子や折原みとといった少女小説、そして吉川ひなのや広末涼子ら自己肯定の芸能人像を取り上げ、それらは「自己と他者」という課題について、それぞれの回答を提示しているが、自己模倣のマンネリ化に陥った時その作家、もしくはそのジャンルは失速していくことになるだろう、と総括。
実際はその後、女の消費はますます類型的・記号的に分断されたものになっている。90年代終わりの時点で2700円+税という高価な本。学生と教員しか買わない。学生は自分のキャリアのため買うのだし、教員は公費で買う。社会的な広がりはない。日本の学校教育は、ご本家の欧米よりさらに、規格化された従順な勤労者を育てるためにある。アダムの肋骨だの処女懐胎だの差別のウソで固めたキリスト教の文明社会が、明治維新および敗戦後の中枢権力にとって好都合だったのだ。男と女は生きものとしてまったく違う。二足歩行で骨盤が小さくなったのに、なぜ巨大な頭部で未熟なまま生まれてくることになったのか。出産で死ぬ女も無数にいた筈だ。あらゆることに疑問を持ち、生涯かけて考えるべきだが、それは日本の学校教育と雇用慣行になじまない。私は勝手にやっていく。










