ふだんはジュエリーにまつわるあれこれを書いていますが、今回はいつもとちょっと違う趣旨で書きます。そのきっかけになったのは、5月に行われたコンテンポラリージュエリーシンポジウムです。わたしは登壇後の質疑応答で、コンテンポラリージュエリーを学ぶ学生さんに何か一言ありますか、という内容のご質問をいただきました。そのさい、思いがけない質問だったのと、緊張とで一瞬言葉に詰まってしまいました。最終的に、ジュエリーがどういう意味を持つものなのか、しっかり学んでほしいということを言ったと思います。が、自分で答えておきながらその回答がどうもしっくりこず、折にふれて考えていました。その後、これだと思える答えを見つけたので書き残すことにしました。
ジュエリーを学ぶ学生さんに伝えたいこと、それは、ジュエリーが一般にどのようなものでどのような役割を果たすものか学ぶのも大事だけれど、自分にとってジュエリーがどのような存在でどのような意味をもつものなのか考えることをやめないでください、ということです。これはシンプルなようでむずかしい問題です。答えを見つけるまで時間がかかるかもしれません。かくいうわたしも、この問いに自信をもって答えられるようになったのは最近のことです。あせらず時間をかけてください。いますでに、自分なりに明確な答えを持っているなら、それはすばらしいことです。そしてその答えがこの先変わったって良いのです。
おそらくこれを読む多くの学生さんが目指しているコンテンポラリージュエリーの分野について言うと、ここ最近、ジュエリーが何かという模索はもはや必要ないのではないか、という声を目にすることがありました。そう言いたくなる気持ちはわからないでもありませんが、わたしは賛成しません。コンテンポラリージュエリーは、作り手一人ひとりが、自分にとってのジュエリーの意味や意義を模索し、それをいまという時代と呼応させて表現する分野だからです。ジュエリーの意義や役割が、時とともに変わりうる可能性を少しでも信じるなら、ジュエリーが何かという問いは時代を超えて有効であるはずです。
この問いへの答えを見つけていく過程で、みなさんはきっと、いろんな作品を見て、いろんな考えに触れるでしょう。ある作品を見て瞬時に心が動くこと。これは「反応」です。その反応が大きければ、忘れがたい感動的な体験になるでしょう。その心の動きを感じたら、そこから咀嚼に進んでみてください。
咀嚼の第一段階は、作品をじっくり見て、なぜその作品にひかれたのか、この作品にあってほかの作品ないものは何か、などを考えることです。そのさい、素材や制作方法、作者の考え、時代背景などを知りたくなるかもしれません。そんなときはできる範囲で調べてみましょう。
そのようにして、その作品をさまざまな角度から検討してみる、さらに、すでに知っていることと関連づけたり比較したりしながら、自分にとってのその作品の意味内容を考える――そうしてその作品を自分の血肉とする作業が咀嚼です。どうすればそれができたといえるか。ひとつのものさしは、その作品のどこに惹かれどこがおもしろいと感じたのか自分の言葉で言えること。理解することが情報を受け入れる比較的受動的なプロセスだとしたら、咀嚼することはその情報にたいして主体的に頭をはたらかせる、能動的なプロセスだといえるでしょう。
このプロセスがあなたの価値観をつくります。ジュエリーをふくむ芸術表現に正解はありません。だからこそ何度も問いを立て考えつづけ、自分の価値観をみがきあげていく過程がだいじなのです。残念ながらこれは、ある日いきなりできあがってはくれません。少しずつしか作れないものであり完成も終わりもありません。
ときには心から共感できる考えに出会えるかもしれません。ひょっとすると、共感するあまり、その人の言葉や表現を借りて――そのままではないにしろ、少しアレンジして、自分のものとして発信したくなるかもしれません。芸術の世界でもジュエリーの世界でも、あらゆる表現が出尽くしたと言われるいま、新しさを求めることじたいが時代錯誤にすら思われます。また、SNSなどを通じ、相互に影響を与え合うのが当たり前となった現代では、どこからどこまでがオリジナルの考えかという線引きはもはや不可能で、パクりかどうか言いだしてもはじまらないという考え方もあります。
でも、たとえ似たような内容でも、その人が考え抜いてそこにたどりついたのか、借り物の考えでしかないのは見る人が見ればわかります。人の考えを借りて手を抜くのは、先人や見てくれる人に対する敬意や礼節を欠く行為です。それだけでなく、後から自分がやったことの意味がわかると、その負い目があなた自身に重くのしかかってきます。咀嚼をかさね自分の考えに結実させるという、地味で時間のかかるプロセスを積んできた人は、手抜きで自分をつくれないことを知っています。だからこそ、だれかの考えをだまって借りて平気でいられるはずがないのです。
心の目を持ってください。オランダで活動するジュエリー作家、バッパ・ケスラーさんのインタビューによれば、彼女は制作中の見張り役として、アトリエの壁のたかいところに人形をかざっているそうです。だれも見ていなくても、こいつの目だけはごまかせない、そう思える存在を心に持ってください。人によっては神様と呼ぶのかもしれず、昔ならお天道さまという言葉で言い表されていたような存在を。これは自己検閲とはちがいます。自己検閲は他者の目を内面化し、己の行動を規制することです。ここで言っているのは、あなたがあなたに恥ずかしくない人間であるための努力です。これは容易なことではなく、わたし自身なんども失敗していますが、その都度自分にがっかりしてはやり直すしかないのです。
だれかの表現を見て、怖い、いやだ、不愉快だ…そういうネガティブな感情が起こることもありえます。その気持ちがつよければ、それをつくった人やそれを見せてきた人に怒りすら感じるかもしれません。ジュエリーを学ぶことは文化を学ぶことです。文化というのは特定の地域や集団ではぐくまれ共有されてきた価値観や習慣です。時代や地域が変わればその文化も変わります。その差が途方もなく大きければ、あなたの理解を超えるでしょう。ジュエリーもまた、気候風土や生活様式にねざす文化のひとつであり、異なる文化と文化がであい、そこに摩擦が生じて影響し合ったり、ときには一方がもう一方に吸収されて発展してきました。個人の表現も、その人が属する文化圏の影響をのがれることはできません。
近年は、グローバル化に伴い、芸術文化においても均質化がすすんでいるといわれ、突拍子のないものを目にする機会は減ったかもしれません。SNSでは自分の目に入る情報を選べます。苦手なものは見なければいいし、好奇心がはたらけば興味の対象はおのずと広がっていきます。だからといって不快なものや異質なものを一切視界に入れないようにはできません。閉鎖的な文化は爛熟期を迎えたら必ず衰退します。個人レベルでもそれは同じです。嫌だと思うものをムリに好きになる必要はありませんが、それが生まれた理由――それが生まれた背景やそこにいる人たちへの想像力だけは失わないでください。
ときには授業中に不愉快な表現や考えに遭遇するかもしれません。コンフォートゾーン=安全圏という言葉をきいたことはありますか。身の安全が保証されていてる領域をさす言葉です。そこにいれば快適ですが、困難がないぶん成長はむずかしいです。良い先生は、あなたがこのコンフォートゾーンの壁を破って新たな世界を切りひらくためなら、努力を惜しみません。生徒の成長を願い、理解が及ばないものを見せることもあるでしょう。それはまた、あなたが精神的に成熟した大人であり、それを受け入れられると認めている証でもあります。とはいえ、生徒と先生の関係の非対称性には、双方ともにつねに自覚的であらねばなりません。また、いかなる形においても、大人として認められたいという、若者として自然な欲求につけこむようなことがあってはなりません。まともな教師なら絶対にそんな真似をするはずありませんが、善意だけで成り立っている環境はまずないと言ってよく、悲しいことに教育の現場もその例外ではないのです。
見ていてつらくなるならムリをする必要はありません。また、状況を問わず、あなたをからかったりショックを与えてやろうという悪意が明らかな場合は抗議の声を上げるべきです。見せる側も、ショッキングなものを見せるときは、あらかじめそう伝えて聞く側が心の準備をしたり、見ないという選択肢を選べるようにする必要もあります。
先ほどSNSについて少しふれましたが、ジュエリー分野ではInstagramが主流なツールとなっています。自分なりの付き合い方を確立して楽しく使えているならよろこばしいことですが、人の反応が数字として可視化されるぶん気疲れしてしまう人もいるかもしれません。わたしも、自分が時間をかけて書き上げた文章をSNSで告知して反応が少なくしょんぼりしたことはあります。そんなとき、見知らぬ人からMessengerでメッセージをもらいました。その誠実な文面からは、わたしの意図がしっかり届いたことが伝わり、それを見た時に「数字とかもういいや」と心から思うことができました。
「いいね」をもらってモチベーションにすること、見てくれた人の数が少なくともだれかの心に深く残ること。どちらが良くてどちらが悪いとは言えませんし、両方の価値観のあいだを行ったり来たりするのがじっさいのところだと思います。が、自分にとって何がだいじか優先順位をつけておけば、振りまわされることはありませんし、うっかり振りまわされても少ないダメージですみます。ただし、数字はあくまで指標です。もしあなたが芸術表現としてのジュエリーを目指しているとして、フォロワーが多く影響力があればあるほど「良い」と信じて疑わず、そこに大きな比重を置いているなら、表現するという行為の意味を根本から学びなおした方が良いかもしれません。
ここまで言ってきたことはすべて、自分の軸を持ってください、そのための時間と手間を惜しまないでください、ということです。わたし自身がそれを経て至った、自分にとってジュエリーは何かという答え、それは自分でも拍子抜けするほど単純なもので、自分が世界とつながるためのものである、ということです。身につけるという行為だけでなく、だれが作ったものをどこでだれから買うか、さらに、ジュエリーについて学び、考え、伝えることを通じ、国を超えて人とつながることができているのです。
冒頭の写真は、イギリス在住のジュエリー作家、リン・チャンさんの『Reasons(理由)』シリーズのひとつです。このシリーズの指輪には、人々がジュエリーをつける理由がエッチングで刻まれています。わたしはたくさんあるなかから「It’s part of me」つまり、ジュエリーは自分の一部である、と書かれたものを選びました。理由のひとつは、わたしにとってもジュエリーは自分の一部だからです。もうひとつは、この指輪という小さな存在が、かぼそいながらも人と人とのネットワークを作り出していて(作り手、「It’s part of me」の理由を挙げた見知らぬだれか、売り手など)、自分もその一部である喜びを、この言葉を通じて感じられるからです。
あなたにとってジュエリーは何ですか? 時間をかけることをおそれず、この問いへの答えを探すプロセスをどうか楽しんでください。
2021年8月16日17:28、 19:33 | 一部修正