居心地の良い場所|益永梢子 Shoko Masunaga|東京 TOKYO
(店名を省略)では、商品の正面を通路側へ向ける業務を「フェイスアップ」と呼びます。
この店内でも陳列された食料品や日用品が、私達の方へ顔を向けています。
展覧会をつくることは、作品の顔を通路側へ向けることでもあります。
2020年12月12日(土) ~ 2021年5月29日(土)
参加作家:内山聡、大槻英世、川﨑昭、タナカヤスオ、益永梢子、光藤雄介
展示作家として参加した都内某所で半年という長期間に渡り開催されたグループ展「Face Up」展が終了した。
某所と書いたのには理由があり、展覧会を行う許可を得ていない店舗を展示会場としていた。(一方、企画者は「その店舗内で既に展覧会はいつも開かれている」と述べている)
その店舗は、誰もが一度は立ち寄ったことがあろう場所。知り合いのいない日雇いバイト先で昼休みにできた自分の時間を確保するような場所。真っ暗な田舎道では灯台のようにも、ときにはテーマパークのようにも映るだろう。実家の門限が厳しかった当時の私にとっては、「夜中に気ままに訪れる=自由」というささやかな憧れの場所でさえもあった。そんな個々人のドラマが交差するような場所であり、みんなの中継地点でもあると思う。
展示会場で、実際にFace Upされた商品は正面から見ると平面的だけれど、横から見ると凸凹していた。私は三次元空間を平面に置き換える絵画の視点のようだと興味を持ち、その物理的な構造を引用することから考え始めた。作品の構造は棚状になっていて、立体的でありながら絵画であることを強調したいが為に、正面から見るとP4号のキャンバスサイズになるように作成し、窓のイメージを取り入れ、カーテンのように頼りなく折りたたまれたキャンバスが傾きながら上部を支えている。最近は、もはや支持体が何であるのかがわからない。
作品のタイトルは「休み時間」と名付けた。先に挙げた日雇いバイトの休憩時間、そして鳥の中継地点を想ったのだ。一旦はここでひと休み。作品が置かれる状況をタイトルにした。
本来、会期中は常に緊張状態にある筈(これまでの自分の経験では)なのに、この展覧会では作品が一時的に休憩することを想像した。例えば、展覧会が開催されていることを知らず、商品を買う目的を持って訪れた人にとっては、見えない存在として作品はただそこで休憩する。しかし、作品の鑑賞を目的に訪れた人の前では作品然とし、なに食わぬ顔してそこにいることを主張する。私が期待していたのは偶然にも商品ではない何かがそこにあることに気づき連鎖的に他の作品に気づいてゆくこと。その後、陳列された見慣れた商品までが違うようにみえ、周囲の環境を疑いはじめること。そして、企画者の意図でもあるが、その体験が別の店舗へ行ったときに思い出されたり、個々人の生活に滲み出すことだった。私がまだ芸術に興味を持っていなかった頃、生活の中で、みえていなかったものが急に目に見え始め、「何もない」ことが見えるようになった経験がある。生活の中に芸術のようなものが潜んでいる、発見があることが楽しく、私はそれに支えられている気がする。
展覧会全体で見ると、店舗内に個々に違った状況で作品達は展示された。ホワイトキューブに展示するのと同様に周囲に関係なく独立したものとして展示されたものや、ブランクを利用するかのような場所に展示された作品、私の作品は商品に紛れ込むかたちで展示をした。展覧会が始まってから分かったことだが、展示会場では作品を鑑賞しようとしている人、生活用品や食品購入が目的の人、お店のスタッフ、異なる立場で同じ空間にいる複雑さに戸惑う鑑賞者も多かったようだ。しかし、作品をみる態度、これまでみてきた態度とは。そんな意識を問うこともできる展示空間になったのではないかと今は振り返っている。そして、自分の作品をどうみせたいのか?と改めて考えた。
この、生活の中では特別な場所ではないけれど、展示会場としては特殊な展示の会期中、私は作品の居心地の良さを感じていた。そして終了時にいつもと違う質の寂しさを感じていたのだが、それは私にとって展示会場とその周辺地域と自身が重ねてきた関係性が寂しさを更に助長したのかもしれない。
私は、大阪で生まれ20歳まで暮らした。自分の町内から少しも出られない程、臆病な子供だった。
しかし、実家が大分県別府市へ転居したことで私にとっての故郷が地面から宙に浮いた感覚になり、「どこへでも行ける」と解放された気持ちになった。その後は京都、東京、神奈川の山奥、ニューヨーク、そして現在は埼玉県。期間にばらつきはあるものの、それぞれの土地で生活してきた。 そして、このグループ展が行われた地域は人生で2番目に長く住んだ東京都内のある街だった。 しかも私がこよなく愛する喫茶店のすぐ側、思い出の地なのだった。通い慣れたその喫茶店は都内に店舗を多数持つチェーン店だが、そこの居心地の良さを好んで通っていた。いつも店員さんから死角になるような場所を選び、のんびりするのが好きだった。隅々まで明るく照らすでもなく少し薄暗い店内で、だれも自分のことが見えていないのではないかと思える場所が私は好きだ。作品に使用する色彩も、名前がないようなぼんやりと濁った色彩を選択してしまう。一見無関係に思える、作品を設置した場所と喫茶店と作品だが、これらの名詞を置き換えても話の内容が伝わる程、共通した傾向がある。
久しぶりにその喫茶店を訪れた時、コロナ禍で喫茶店で過ごすことがなくなったせいか、忘れていたことを急に思い出したような気持ちになった。 そして、私が感じていたその居心地の良さと展覧会が終わることで湧き上がった感情、いつもと違う質の「なんだか寂しい」への接続を、大事なことではないかと言葉にしてくれた知人がいた。
鑑賞を目的に鑑賞者の考えや興味と照らし合わせながら集中的に鑑賞していく展示(批判、批評を目的に作られることが多い現代美術は、生活空間とは異なる空間を作り出し、居心地の悪さ、異和が積極的に求められているように思う。)とは異なり、居心地の良さを齎す展示として受け止められ、会期終了時における感想として寂しさをよんだのではないだろうか。( twitter:hippo @digippox より引用 )
この「なんだか寂しい」余韻をここに記録しておきたいと思う。
https://shokomasunaga.info