(RE)WATCHED IN 2023: —Why are you killing everybody? Why are you making everybody die? —It's my story. —Mine too.
THE FALL (2006) DIR. TARSEM SINGH
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(RE)WATCHED IN 2023: —Why are you killing everybody? Why are you making everybody die? —It's my story. —Mine too.
THE FALL (2006) DIR. TARSEM SINGH
新年の日曜美術館を観た。 若松英輔さんが出ていると知って録画していた。 何となく、若松さんの言葉が聞きたいような気がしていたのだ。 若松さんは、岡山の大原美術館でセザンヌの絵について語っていた。 セザンヌの何気ない風景画を見ながら、これはどこか空想の街ではなくて、現実の風景だということが分かると言う。セザンヌは、目に見えるものでなく、見えないものも含めた現実を描いたのだと。 分かるような、ちっとも分からないような話だ。 セザンヌからは、無私ということを学べると言う。自分が見たいものではなく、あるがままの世界を見ることができたらと、セザンヌの絵を見て思うのだと。 この人は一体何を言っているんだろうと、私は何度か見返してしまった。全然分からないのだけど、ものすごく大事なことを語っているのは分かるのだ。 何気ない一枚の絵から、どうしてこれほどのことを確信もって語れるのだろうか。 他に出てきた芸能人の言葉は、聞いていれば別に分かる。でも若松さんの言葉は、分からない。 というか、語ろうとしていることの大きさが計り知れない。それほどのことが、どうして言葉になるのだろうか。 その後に出てきた、谷川俊太郎がフェルメールを語る昔の映像もそうだった。 フェルメールの絵から、彼がどんな風に世界を見ていたのか、谷川俊太郎は知っているように語る。 絵から、それほどのことを感じ取るのだ。 詩人は不思議だと思う。 言葉にならないことを語れるのだ。 三宅香帆さんが、考察する若者たちという本を出しているのが気になっていた。 まだ読んでいないのだけど、考察文化とは何なのか、何故なのか(それに対して批評とは)を語っている本だと思う。 考察動画というのを私は見ないのでピンとこないし、そんなもの、と思ってしまうけど、本とか映画とかを見ると人の感想を漁ってしまう気持ちは分かる。 結局、どう見ればいいのかの答えを探しているのだ。 もちろん、自分で心から感動した作品なら、自分の感想を語りたいと思うし、人がどう言おうと違うだろと思う。でも、その見方が正しいのか、人はどう見るのかとは気にして、一喜一憂する気持ちはある。 若松さんや谷川さんの言葉には、それがない。 正解とか間違いとかの次元を超えて、作品や人に出会い、その心を感じ取って言葉にする。 批評とは、詩人とはそういうものを言うのだ。 次元が違うと思った。 もう2年くらい前の冬に、若松さんの講演を聴きに行った。 小さな書店の会場で、質問する機会があったので、私はいてもたってもいられず手を挙げた。 読者がいるわけでもない人間が、何に向かって、何を書いていったらいいのだろうと聞いたのだ。 誰に読まれなくとも、書き続けることで、もう一つの世界に、自分の棲むほんとうの家ができる、と若松さんは言った。 分かるようで分からなくて、覚えていると思ってもうまく話せないが、ものすごく大事なことを言われたと思った。時が経つごとに、その言葉のおかげで、私は書くことを続けている気がする。 目に見えないものを見る。そんなことはあり得ない、どうでもいいと思わせられるような現実ばかりだ。 でも、目に見えないものをまなざすことが、本当に深いところから生きることを支える。 時間を掛けて若松さんの言葉を聞くことで、それが分かってくる。 意図を考察するのではなくて、よさを批評する自分なりの深い目をもちたい。
考察と批評の間の深淵|はと
Sibylle Bergemann. 1976
I Am Collective Memories • Follow me, — says Visual Ratatosk
皆美しいと美しくない
時々、写真やイラストを
美しくする作業をするのだが
皆美しくしてしまうと
皆美しくなくなる。
私たちは差を認識しているだけで
差がないと
心が動かないのだ。
美しく直された(私が直した)集団の中に
直していない存在を一つ作ってみると
その一つは眩く輝いて
「美しい」 の定義なんか超えて
一番 「魅力的」 になってしまったりする。
魅力こそ本当の美、かもしれず
作業者としては困る。
私たちが惹かれるのは
「異物」 であり
認識できるのは
「差」 だけなのだ。
「差」 さえあれば、下手な絵の中にも美をみつけられるし
逆に
「差」 がなければ、上手い絵の中でも美をみつけられない。
「差」 をうまく残さないと
魅力ある表現は難しい。
平等の精神とはかけ離れた
「特異性」 こそ
人を惹きつけてしまうのだ。
特異であること、変わっていることが
美の絶対条件なのだと思う。
特異点をうまく作ることが
美術の術なのだと思う。
など。
Sometimes you have to see people as a crayon. They may not be your favorite color, but you need them to complete the picture.
人はクレヨンだと思った方が良い。あまり好きではない色があるかもしれないが、絵を完成させるためにはそれらの色も必要です。
Anonymous 無名
People o3
不明瞭