firstly, abandon the realm of verisimilitude.
身振りとしての映像 - 中平卓馬
はっきりいってしまえば、いわゆる「ブレボケ」と呼ばれた写真の「表現」について、いまさら何かをいいつのる気はない。私はすでに決着を自分ではつけた気でいる。だが、なおかつこのテーマで何かをしゃべるのを引き受けたのは、いわゆる「ブレボケ」というやつがひとつの表現の様式、かつて、1960年代の終わりから70年にかけてあったひとつの「表現の意匠」として整理され、ああいうのもあったな、とレッテルをはられ、そのまま「写真史」の中に埋め込まれてゆくことへの異議申し立て、という動機以外の何ものでもない。 「ブレボケ」、この奇妙な言い回し、あるいはこれに随伴するもうひとつの奇称「コンポラ」(なんということだ、これは)、それらは、当時のわれわれの「表現」に外から与えられたものである。当事者たるわれわれは、具体的には森山大道と私は、自分の写真をそのように呼んだことは一度もない。おそらく当時、自分の「表現」に距離を置いて考えるゆとりなど、われわれは持っていなかったであろうし、「ブレボケ」と呼ばれるのを苦笑いとともに受け入れていたにすぎない。 だが、同時に、人は自己がそうあると信じるもの自身であるわけにはゆかない。人は他者に名指されるものでもある。他者の眼差し ... などとおおげさにいわなくてもよい。つまり、自分たちが、自分たちの表現が「ブレボケ」と呼ばれ始めたときから、われわれは少なくとも社会化されたのだ。だから、「ブレボケ」がひとつのエコール(流派)と受け取られ始め、その亜流までが出始めたときから、われわれは当然自己の「表現」への社会からの照り返しを受けざるをえなかった。そしてそこにわれわれの責任が生じたこともまた否定できない。 事実、写真「表現」の技法への転化といったものが、いつの間にか私たちの写真そのものの中にも起こったのではなかったか。私は当時、はっきりとそう意識していたわけではなかったが、そういった予感に近いものを感じていたことは確かである。写真の技法くらい安易で簡単なものはない。美術、たとえば絵画の技法ならまた別のことがいえるかもしれない。技法の習得にはそれ相応の時間と勉強が必要である。そして獲得された技法そのものは、すでにその作家の造る作品と無縁ではありえない。ところが、写真の技法ほどイージーなものはない。まさにその安易さが、写真のもつ特性のひとつではあるのだが ...。 たとえば「ブレボケ」を例にすればよい。比較的遅いシャッター・スピードでも、強引に、あるいは気軽にシャッターを押す。像は「ブレ」る。暗室作業も簡単である。高温のフィルム現像液での長時間現像、のりにのったネガをさらに四号ぐらいの硬調の印画紙に焼き付ける。むろん焼き付けの露光時間は、普通考えられるようなものではない。30分から、ときには1時間もの露光。出来上がった写真の粒子は荒れ、像は当然「ボケ」てくる。まぁこんな具合である。それさえわければ、だれでも「ブレボケ」派だ。 だが、われわれはこのような技法を前提にして写真を撮っていたのでは、けっしてない。むしろ、これまで写真の常識とされていきた技術のイロハ、グラデーション、光と階調や、その他なにやらかにやらを考えて写真を撮る、ということをはじめから無視しただけである。問。なぜ無視したか? 答。私は初めからそんなことは知らなかったし、また知ろうとする欲求すらもっていなかったから。私にとって、たったひとつの関心は、現実をどうとらえるか、とらえることができるか、ということだけにあった。 もう少し詳しくいえば、われわれが日々を生きている、その一瞬一瞬を肉眼でとらえるように、世界と私の出会いをカメラでとらえることがどうしたら可能か、ということである。われわれの存在は、それ自体すでに世界との「関係」そのものであるといってもよいだろう。「関係」ぬきに人間は存在しない。その「関係」たる私が、日々、一瞬一瞬を生きてゆくこの世界と私の白熱する磁場、「関係の関係」とでもいうべきものをどうフィルムに定着することができるか、ということである。視線の厚み、世界の肉質を、どうしたら薄っぺらなこの紙っぺらに印することができるか、といことである。 日常的には、われわれの視線は一つ一つの対象を明確に意識し(もっとも対象といったとき、それはすでに主体との対語を語っているのであるが)、それだけを全体から切り離して見ることはけっしてない。あるひとつを見る、その意味をとらえる、そしてこの場合、視線はけっして連続しているのではない。ひとつひとつはバラバラな対象とそのおぼろげな記憶、それをわれわれは想像力によってつなぎ合わせ、そこに一本の意味の系を作り上げているだけなのだ。そしてそれを可能にするのは、歴史としての私の身体である。 だから、見るということは、けっして眼球に関するものだけではない。「見ることの身体性」と中原佑介はいった。まさしくその通りだ。見るということは、この世界を通り過ぎてゆく、その私の身振りと切り離して考えることはできない。見るということは、一枚のタブローを見ることとけっして同じではない。当然のことながら、出来上がった一枚の写真を見ることと同じではない。そこにはすでに見るための距離があらかじめ設定されている。われわれは安心して一枚の絵、一枚の写真を見ることはできる。一枚の絵、一枚の写真にそそがれるわれわれの視線は安定しており、確かなものである。だが、われわれが生きてゆくこの現実においては、われわれの視線はけっしてそのような安定したものであることはできない。そのひとつひとつは交錯し、うつろいやすく、不確かなものである。だがそれらがいくつもの重なり、それに記憶がからみ、遠近法がからみ、このようにして現実の視線は逆に厚みを獲得し、生きたものとなる。当時、私を突き動かしていたものは、そのような視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化することであり、それを強引にカメラという手段を通じてやろうとしていたような気がする。 やってしまった自分の行為を、このように整合する言葉によって説明することは、みずからの行為を薄めることになるのは知っている。だが同時に、それは自分が行った行為の再読をあるいは可能にしてくるかも知れない。私は、今という時制で書いているにすぎない。 つまり、こういうべきであろう。われわれは、どうあれ与えられた一つの状況を生きる。その身振りを振る無二刻印するという、しょせん不可能なことをあえてやってみようという衝動にかられていたのではなかったか。そしてそのとき、たまたま生まれてきたのが「ブレ」であり、「ボケ」であった、と。「ブレ」「ボケ」は、当時の私にとっては、正確な像よりもはるかに肉眼に近いものであった。私は、当時しきりにいっていた。一枚の写真とは、一回限りの生を日付とともに生きるその生の痕跡であるにすぎない。だが、まさに痕跡であるにすぎないところに、写真のリアリティーを求めていたのだ。ときには過大な思い込みを入れて。視線の不確かさ、世界の不確かさ、それを一枚の写真に刻印することそのおびただしい並列を通して見るということをもう一度考え直そうという衝動。今では「ブレボケ」集団と呼ばれている「プロヴォーク」というグループをわれわれが結成したのは、そしてそれが可能だったのは、けっして言葉で述べられはしなかったが、最低限、この衝動を心のどこかで共有していたからであろう。 われわれは、それまで伝統的にあった写真の美学を否定した。いや、むしろそういったものと無縁の位置にあろうとした。われわれが写真に見たものは、ただの視覚の約束事、約束事を前提とした美学のバリエーションでしかなかった。それらは、私にはすべて嘘事であった。むろんあまりにも思い上がった考えであったろう。だが、若さとは、しょせん大胆さと愚かしさと、そしてちょっとばかりの美しさの入り混じったものである。 結果として「プロヴォーク」は何をし、何をしなかったか。それは私自身すでに書いたし、また構成メンバーの一人一人が決着をつけたと思う。あとは他者の算定にまかせる他はない。だがひとつだけいえることは、制度としての写真美学、瞞着(まんちゃく)された視覚への一時的切り裂き、それを通しての視覚の攪拌(アジテーション)を、たとえわずかながらもやることに成功したかもしれない、ということだ。だがそれは、しょせん見果てぬ夢であったかもしれない。 あたり前な話で恐縮だが、カメラはいうまでもなく「限定された」四角いのぞき穴である。要するにカメラは世界を主体=対象の二元論に還元する近代の所産であることだけはまちがいない。だがわれわれは、日々を四角いフレームで限定して対象化してながめながら生きているのではない。しかも、さきにも書いたように、見るとはだた眼球だけにかかわるものですらない。そのような見ることの洗い直しを、カメラを通して決行しようとしたこと、それはしょせん矛盾撞着をはじめから前提していたのか。そして、われわれの手に残されたものはすべて私が生きた生の局限された一部、しかもその痕跡以外の何物でもない。せいぜい、われわれが手にすることのできたものは、このひとつひとつバラバラな私と世界の「関係」の像だけである。 だが、このペシミズムゆえに、われわれは、いや、私はというべきか、この「ブレ」て「ボケ」た現実のミメーシスに「リアリティー」という特権を付与しようとしていたのだ。 私はすでに三年前、ある評論集の冒頭のエッセーの中で、このへんのところに関して私なりの総括を出した。それは今にして思えば、あまりにも比喩的な言い回しのために、かなりの誤解をまねくものであった。だが、その大筋は次の通りだ。「プロヴォーク」の初発のエネルギーは、いつのまにかその手つきだけが、手法として突出してゆき、それとは反比例して、本来の姿勢を急速に骨ぬきにされていった。いうまでもなくこれは、グループとしての「プロヴォーク」に関してのことであり、メンバー一人一人のことではけっしてない。しかも「プロヴォーク」のメンバー全員が「ブレボケ」写真を発表していたのではない。ちょうどそのころ、ネイサン・ライアンズ・リー・フリードランダーらの『コンテンポラリー・フォトグラファーズ』という写真雑誌が日本でも紹介され、この雑誌の名前の奇妙な縮小語「コンポラ」がつくりだされ、「ブレボケ」「コンポラ」「プロヴォーク」は、同概念として受け取られるようになった。むろん、おかげでわれわれは社会的に浮上した。そして次第に集団としてのエネルギーを失い、また集団であることの必然性もなくなっていった。われわれは解散した。それがロラン・バルトが巧妙にいい当てた「名づけられた反抗、これほど人を安心されるものはない」から身を守るたったひとつの解決策であった。 70年に一冊の写真集を出したあと、「ブレボケ」という手法だけが前面に押し出されていったとき、私はむしろこの本来は結果として出て来たにすぎないものが、われわれ自身に転化してゆくのを感じていた。私は「コンポラ」からも「ブレボケ」からも、かつての「プロヴォーク」からも身を引きたいと思った。 むろん、これまでの形で写真を撮り続けることは、いとも容易だった。ときには、人を感動させることのできる気のきいた写真の何枚か何十枚かはできただろう。だが、自分がかつての自分自身を模倣すること、これほど無残な話はない。それは他者を模倣することとは根本的に違っている。他者を模倣すること、それは自己を変えることでもある。私は「ブレボケ」と呼ばれた私自身、足かせをはめられた私に戻りたくはなかった。私は、写真から徐々に遠ざかっていった。 そんな状況にあったとき、私はふとしたはずみで、ある「デッチアゲ殺人裁判」を知り、その実質上唯一の証拠となった写真を知った。写真に写されたものは事実であるという、世間一般の常識の根深さも知った。写真のもつトリック、写真のあいまい性について考え始め、次第に写真家としての写真 - 作品という枠から、今日の社会において流通するあらゆる映像、テレビ、写真、ヴィデオに関心を向けていった。 映像の氾濫するこの社会において、映像は現実のイメージであることを超え出て、逆に映像が実体化し、現実そのものを縛り上げる。このような倒錯がいつから生まれたのか。そして私自身がとってきた写真を逆に考えた。「ブレボケ」と呼ばれた私の写真を。あれは一体現実であったのか。虚像であったのか。私はあれこそ現実、私にとっての現実であると信じて疑わなかった。その信念ぬきに、私の写真を撮る行為は成立しなかった。だがそれが一度外に出されれば、それははたしてどうなるのか ...。 そのころ、私はカメラを持っていなかった。持つ気もなかった。どうして写真を撮らないかと心配した友人の一人は、本気で「デッチアゲ殺人裁判」の証拠となった写真の責任をとって、もう写真をやめたのかと聞いたことがある。それはあきらかな思い過ごしであった。だた、私には「肉眼」の方がはるかに信頼するに足るものだ、という確信がうまれかけてきたことだけは、たしかである。 なぜ「ブレボケ」か、この問いに対して、今こたえられるのはこれくらいのことだ。ひところ、私にとって「ブレボケ」は一番肉眼に近いものであったと。そして今、再び写真を撮り始めたとき、私の中に何かが変質していることを、私は知っている。つまり現実は、世界はそう簡単にとらえられるものではない。とりわけ、カメラという制度としての視覚を前提した手段をもってしては。 だが、また始めるだろう。初めからやり直した。それがどうなってゆくか、私には予測はつかない。必要ならば、また「ブレ」たり「ボケ」たりするかもしれないし、全然しないかもしれない。ただ、カメラをもって世界に真正面から対峙すること、その点をないがしろにしてしまっては、もとのもくあみどころか、敵前逃亡になってしまうだろう。 もう一度繰り返すならば、「ブレボケ」は、写真表現の様式などではけっしてなかった。だが、いつのまにかそのように名指され、名指されながらいつのまにか少しずつ、そっちの方向へひきずられていってしまったのだ。 森山大道は、依然として「ブレボケ」の極へ突っ走ろうとしているかに見える。それもまたよい。私はイヤになったらすぐにやめる、そのような体質をもっている。だが、自分自身にまといついた矛盾を全部引き受けながら耐えてさまよう勇気をもっているならば、森山大道よ、極の極まで突っ走ってみることだ。 すでに十三、四年前、仕事もなかったころ、そうだ夏の終わり、すでに金色の秋の日が差す長者ヶ崎の海だ。何冊も何冊もの写真雑誌やグラフ雑誌を手で持ち上げて立ち泳ぎしながら、あの小島に泳ぎつき、一日中1ページ、1ページをめくりながら、二人で「なんだこんな写真」「これもダメ、あれもダメ」と怒り狂っていたあのころの何に向かってかわからない憤りを、けっして忘れないことにしようではないか。
『アサヒカメラ』1976年3月号












