僕たちは三人兄妹だった。
兄のカイリ、次男の僕、妹のアカリ。どこにでもいる平凡で特徴のない兄妹だった。
ただ、あの家庭環境の割には僕たちはどこか他人事で、お互いのことを本当の意味ではよく知らなかったのだと思う。
僕たちの両親は僕たちから見ても、世間一般的に見ても、最悪な親だった。
元々DV気質だった父親は、子供が生まれてからはその暴力の矛先を自分の子供たちに向けるようになった、というのは母の言だ。
その母親も、暴力の行き先が増えたことで自分が標的になる頻度が下がったことを喜んですらいたらしい。母親らしく子供を庇う素振りを見せたことは一度も無かったと思う。
そんな家庭環境で育ってきた僕たちは、代わる代わる父親からの暴力の標的となって日々耐え忍ぶように過ごしていた。
一応、曲がりなりにも兄だった僕とカイリは妹のアカリに矛先が向かないよう庇ったりなどもしていたけれど、
僕からしてみればそれは兄としての義務を全うしていたにすぎず、それ以上の感情は何もなかった。
いつか、この家を出るときには兄妹皆が大人になっているだろうし、その時には僕の兄としての義務からも解放されて
あとはお互い干渉せず生きていくだけだろうと、なんとなく思っていた。
勿論、父親の殴る蹴るの暴力は堪えていたし、いつも傷だらけの僕は学校にも居場所は無く、苦痛しかない日々が続いていた。
それでもいつまでも続くものではないと、いつかは自由になってそこから僕の人生が始まるんだと疑いもしていなかったし、今でもそれは間違いではなかったはずだと思っている。
けれど、兄のカイリはそう考えていなかったようだ。
そして事件は起きた。
ある真夜中。家のどこかで何かが割れる音がした。
その音は途切れることはなく、合間に人間の怒号なんかも混じっていて、酷く耳障りな不協和音を奏で続けていた。
寝ぼけた意識がはっきりする頃には怒号は叫び声や懇願の声に変わっていて、次第に僕の部屋に近づいてきていることが分かった。
僕は途端に恐ろしくなり、部屋の端に移動して頭から布団をかぶり、それがこの部屋に辿り着かないことをただ震えて願うことしかできなかった。
最初に聞こえていた叫び声は父親で、その次に母親、大泣きしているのはアカリの声だったと思う。
しかし次第に声の数は減っていき、その不協和音を奏でている主が僕の部屋の扉を開ける頃にはアカリの泣きじゃくる声しか聞こえなくなっていた。
ガチャ、と特に荒々しくもなく開け放たれた扉の音に僕の肩は震える。
そして静かな足音と、何かを引きずる音が徐々に近づいてきて、僕の目の前で立ち止まった。
「ツグト。」
それは兄のカイリの声だった。その声は息が上がったように粗々しく、いつもの雰囲気とは全く異なる恐ろしさに、僕は一言も発せなかった。
「ツグト。」
もう一度僕の名を呼んだそれは、簡単に僕の被っていた布団を引きはがした。
「ごめん、ツグト。」
最後に聞いたカイリの言葉はそれだけだった。目の前には赤黒い何かで全身が汚れていた兄だったものがいて、ところどころ凹んだ金属バットを大きく振りかぶっていた。
次の瞬間、一生の全てを凝縮したかのような激痛が全身を駆け巡り、そして何もかも分からなくなった。
気付くと僕は白い場所にいた。
頭上は微かに青みを帯びた白い空が、目の前には浅瀬のような花畑のような、よく分からない景色がどこまでも続いていた。
もしかして死後の世界というところだろうかと、ぼんやりとした頭で僕は考えていた。
あの衝撃は間違いなく死だったと思うから、ここは死後の世界で間違いないだろう。
立ち尽くしていても良かったが、人というのはやる事が無いと敢えてやることを探してしまう質らしい。
僕はとりあえず辺りを歩いてみることにした。
しかしどこまで歩いても景色は変わらず。疲れるということはなかったが、どこまでも白色の風景が続いていた。
仕方ないのでその場にうずくまっていると、しばらくしてどこからともなく人型の何かが現れた。
その見た目は人型をしていても人間離れしており、一目見て同じ存在ではないということが分かった。
「迷子だ。困っているね。ああ、なら救ってあげないと。仕方ないよね、それが神の仕事だし。」
顔はベールのようなもので覆われておりよく見えなかった。声音も機械的で全く感情が読み取れない。
それだというのに、ニタニタと笑うような気配だけは何故か感じ取れた。
そして神と名乗る人物に僕は捕まった。
「人間は嫌いかい?それは可哀想に。そんな哀れな子羊くんでも、ぴったりな姿があるよ。」
そして気付けば僕は人間ではなく、人間の精神とリンクするとして世間で広まりつつあった新世代の生物、「リヴリー」へと姿を変えられていたのだった。
連れてこられた場所は、一本の木だけがあるところ。それ以外は僕が歩き回っていたところと何も変わらなかった。
ただ、その木の近くには既にもう二匹の姿があった。
「今日は迷子が大漁だなあ。そんな沢山の面倒を見るのは言葉通りに面倒、でしょう?
だから今日からきみたちは私という神に仕える天使だよ。win-win、というやつだね。」
うんうん、と一人で頷いている自称神に対して、二匹はやっぱり状況が呑み込めていない様子であった。
『『『あの。』』』
そして同時に被る声。その声に目を見合わせる僕たち。おかしそうにしているカミサマ。
これが今の僕たちの始まりであった。
ゆっくりと瞼を上げる。そこはいつもと変わらない景色だった。
強張った体をほぐすため伸びをしていると、珍しくカミサマのほうが近づいてきて声をかけてきた。
「おはよう。よく眠れたようだね。」
『……はあ。』
夢見は最悪だった。しかしカミサマの皮肉(本音かもしれないが)に付き合う元気は僕には無かった。
「早速だけど、仕事が舞い込んだんだ。
暇じゃないけど、神の役目は果たさないとね?」
暇つぶし以外でカミサマが動くことがあるのかと驚いていると、その気配を察したのか、プンプン!とカミサマは自ら声に出して怒りを強調してきた。
「今、とても不敬を感じたよ。いついかなる時も神を軽んじてはいけないのに。」
『……別に、軽んじてはいないですけど。』
「口答えもいけないよ。さ、いいから行っておいで。」
何にせよ有無も言わせずいつものワープホールへと放り投げられる僕だった。
あんなことがあり、過去の夢を見たばかりの僕としては非常に乗り気ではなかった。
それでもこなさなければならない、そんな風に考えることが普通になってからもうだいぶ時が過ぎたように思う。
そこは小さな植木鉢のような盆栽のような、「島」と呼ばれるリヴリー専用の住居だった。
またリヴリー案件か、と嘆息していると、すぐ近くから「わあ!」と明るい歓声が聞こえてきた。
「放浪さん?放浪さんだ!」
声の主は高校生ほどの女の子だった。やってきたばかりの僕を「放浪さん」と呼ぶ彼女は、きっとこの島の持ち主であり、この島に住むリヴリーの飼い主なのだろう。
辺りを見渡してみると、綺麗なピンク色のモモスと可愛らしく着飾っているホムがこちらを不思議そうに見つめているのに気が付いた。
「あなたのお名前は……あ、名前無いんだね……。」
僕のバイオグラフィーを確認しながら悲しそうに眉を下げる彼女に、なんだか僕は申し訳なくなった。
『別に名前はなんでも良いんだけど、ワタメとかで。』
人間には僕の言葉は通じないのは分かっていたが、思わず呟いた言葉をピンクのモモスが拾ってきた。
『ユイ。この子、ワタメって呼ばれたいんだって。』
「え、そうなの?」
ホムと女の子が一緒に驚いた顔をする。ホムと通心中だからかなのか僕の言いたいことが女の子にも通じたのだろう。
なんだか恥ずかしくなって僕はその場に座り込んでそっぽを向く。
「そうのかぁ。でもワタメ、はちょっと寂しいかなって。それじゃさ、ワタちゃん、はどう?」
どう、と言われても。僕はそんなことより今自分が置かれている状況をま呑み込み切れてはいなかった。
きょろきょろと見回している僕の様子に、女の子は何かを納得したように、うん、と一人頷く。
「元の飼い主さんが戻ってくるまでうちでゆっくりしてね。
この子はユウちゃん、それからモモちゃんだよ。」
ユウと呼ばれたホム、モモと呼ばれたモモスは歓迎するようにニコリと笑って見せた。
『よろ、しく?』
仕方が無いので一応挨拶をした僕はひとり思考を巡らせる。
カミサマのことだ。彼らに何かしらの手助けをすることを求められているはずだ。
きっとこのリヴリーたちは何かしらに困っているか、もしくは女の子の方に何か困り事があるに違いない。
幸いにして家出として迎えられたので、ここから探っていけばいい。
しかしその考えを裏切るかのように、しばらくの時を過ごしてもここでは何も起こらなかったのだった。
『いや、本当に何も起こらなすぎでしょ。』
『どしたの?また考えごと?』
「ワタちゃんはいつも難しそうな顔してるもんね。」
家出としてやってきてから既に1週間。
平和が何かと問われればこの島での時間と答えてもいいくらいに何事も無く過ごしてしまっていた。
モモスもホムも女の子に毎日可愛がられており、当然例の危険なイベントに参加することもなく丁寧な世話とお洒落をしてもらっていた。
島の方も定期的に模様替えされており、ここで長い時間過ごすことになっても飽きるということは無いだろうと居候である僕ですら感じていた。
モモスもおっとりとした性格なようで、突然やってきた僕に対しても警戒心を持たずのんびりと接してくるので、僕の方もいつの間にか気を緩めて親しみすら覚えていたし、ホムの方も女の子そっくりの優しい雰囲気であり、僕の様子を女の子に教えたり、食事の好みを理解してくれたりと、かいがいしく世話をしてくれるのだった。
そんな平和な時が流れる島の生活でいくらか毒気の抜けた僕は、それでも当初の使命のことは忘れていなかった。忘れていなかったが故、この状況にどこまでも納得がいかなかった。
『君たち、ほんとは何か隠してない?』
『ええー?ん-、何かあったかなぁ。お散歩はみんなで行ってるし、おやつの時だってちゃんと起こしてるよ?』
『いや、そういうのじゃなくて……。』
「私も特に思いつかないなぁ。あ、ユイのガチャ運がとっても悪いって話はしたっけ?」
『ガチャ……?いや、多分そういうのでもないかな……。』
彼らと過ごしていれば隠し事が無いなんてことは明白だった。
それでもここに来させられたからには何かあるはずだった。そうでなければ僕がいる意味が無い。
そしてその何かを解決しないことには帰ることはできない。その考えが僕を焦らせていた。
『ユイって子。あの子は?』
「あれ?みんなお喋りしてるの?」
そんな話をしていると、ユイ本人が登場した。
ちょうど学校から帰ってきたらしい。鞄を下ろすといつも真っ先に僕たちの世話をしてくれるのだった。
「うん。ワタちゃんがみんな何か隠し事してるんじゃないかって心配なんだってさ。」
『ちょ、ちょっと。』
「えー!どうして?」
「そういえばワタちゃん、なんでそんなことを?」
『いや、あの。』
『なにか嫌なことあった?』
『そうじゃなくて!』
三方から問い詰められた僕は思わず声を荒げる。
しかし彼らは真面目な顔をして僕の次の言葉を待つばかりだった。
静まり返る部屋。
僕は途端ばつが悪くなったが、こうなっては仕方がないので言葉を続けるしかなかった。
『その、変だなって。ここは僕が行ったことのあるどこよりも平和で。
僕の手助けなんか全然要らなそうで……。みんな、穏やかで楽しそうで。
それが変なんだ。』
「変、なのかな?」
ホムのユウは困った顔をして言った。
僕はこくりと頷く。
『皆、誰もが何かを抱えているはずで。一人じゃ解決が難しい困り事のために僕はいるから。
でも、みんなには必要なさそうで。だから……。』
俯く僕に、みんなはしばらく様子を伺うように黙り込んでいた。
しばらくして、口を開いたのはユイだった。ユウ越しに僕の言葉を理解したらしかった。
「ワタちゃんの言いたいこと全部は分かってないかもしれないけど……。
私も、ユウちゃんもモモちゃんも、きっと一人じゃない、からかな?」
僕は思わず顔を上げる。そこには優しい表情で眉を下げたユイと、心配そうに僕を見つめるユウとモモの姿があった。
「私が学校とかでいないとき、ここにはユウちゃんとモモちゃんがいるでしょ?
私にも、たとえ外で嫌なことがあってもふたりがいてくれる。」
にこっと笑うユイ。同意するようにうんうんと力強く頷くユウとモモ。
僕が、そうじゃなくて、と言おうとしたところでユイは言葉を続けた。
「それに、ワタちゃんも今は一緒でしょ?だからワタちゃんもひとりじゃなくなったから、きっと大丈夫だよ!」
僕は目を見開いた。
『僕も?』
「そうだよ!みんな一緒!だからしょんぼりしなくていいんだよ?」
『しょんぼり……?僕が?』
「うん、なんかしょんぼりしてた。……違った?」
『……。』
「えーと、よし!こういう時はおやつにしよ!」
『わーい!おやつ!ほら、ワタちゃんも!』
『う、うん。』
その後僕たちはユイにとっておきのおやつを振舞ってもらうことになったが、僕はユイに言われたことをずっと考えていた。
手作りのリヴリー用クッキーを頬張るモモの笑顔と、それをにこやかに見守るユウ、一緒に自分のおやつを食べるユイの楽しそうな顔を眺めながら、僕は自分が何か思い違いをしているのかもしれないとふと思った。
カミサマのやることだ、こちらが想像もつかないことをやってくるのも不思議じゃない。
『うん、分からないことは仕方ない。』
『なにがー?』
「まだ難しい顔してる。」
「ふふ、でもちょっと元気になったみたい。」
『……お騒がせしました。』
こうして僕はある意味で開き直ることにしたのだった。
分からないことは仕方ない。どうせカミサマの気まぐれに違いないのだから、その時が来るまで僕はここで過ごすだけだ。
そうして過ごした1週間は本当に楽しいものだった。
そして僕はある意味で初めて、誰かと過ごすことに懸命になっていた。
自分が居候であるということを忘れるくらい、三人は同じ家族として過ごしてくれた。
同じご飯を食べ、一緒に散歩へ出かけ、島では川の字になって眠り、ユイに撫でてもらうのにはまだ慣れなかったけれどその温かさが嬉しかった。
明るいことばかりではなかった。ユウとモモが喧嘩することもあったし、ユイが泣きながら家に帰ってくることもあった。
けれど僕は積極的に喧嘩に割って入っていて、そのせいで巻き込まれたりもしたし
ユイと直接話ができずもどかしくなり、どうしたら彼女を元気づけられるかと考える夜は眠れないこともあった。
けれどもそこに、居候としての義務、なんてものはなかった。ただ僕がそうしたいからという理由だけがあった。
そうして結果的にふたりの仲直りに立ち会って心から安堵したり、僕の必死さが伝わるのかユイは笑顔で僕を持ち上げて撫でてくれたり、
大小様々な出来事の全てが楽しく、そして僕に気付きを与えたのだった。
自分が本当はどうなりたかったということを。
そんなある日の昼下がり。
昼寝中のユウとモモ。島の近くでユイは読書をしていた。
穏やかな空気の中で僕もうとうととしていたところ、
「もういいでしょ。帰っておいで。」
そんな声がふと聞こえた。次の瞬間、僕の体はワープホールの中に転がり込んでいた。
『えっ!』
僕の声が聞こえたのか、ワープホールの向こうでユイが本から顔を上げるのが見えた気がした。
「ワタちゃん?」
しかしユイの見つめる島には、もうワタメの姿は無かった。
「おかえりー。」
呆然として座り込んでいる僕を見下ろしているのはカミサマだった。
僕は突然また常世に戻されたらしい。目の前にはもうあの三人との島は無く、懐かしくすらある白い景色が広がっていた。
「どうだった?卒業研修は。」
『卒……?』
状況を呑み込めていない僕に、面倒くさそうに溜息をつくカミサマ。
「そ。まさか遊びに出かけてたつもりじゃないだろうね?」
『それはないですけど……。』
結局最後まで使命のことを忘れていたわけではなかった。
しかしあの島ではついに事件が起こることは無かったのだ。
「そうだよねぇ。確かにきみはあの島で良い立ち回りをしていたと思うよ。
でもそれはきみの言うところの“仕事”じゃあなかったもんね。」
僕は返事ができなかった。
現世に行かされる時、僕は常に仕事をするつもりで出向いていた。
そうすることで常世に帰ることができたし、故にそれがカミサマからの使いだと思っていたからだった。
しかし今回は違う。
「何度か言っているけれど、私はきみに“仕事”なんて押し付けたことはなかったけどね?
救済は神たる私の仕事なんだから。」
だからその使いをさせてたんでしょうが、と食い下がろうとしたところだったが僕はふと思った。
カミサマのいう救済とは何なのだろうかと。
「今回だって、私の仕事だったんだよ?きみの卒業研修として良い場所を見つけるのも苦労しているんだから。」
そう言ってカミサマは僕の顔を覗き込む。
「で、決まった?」
『は?』
突然の問い。当然僕は何を問われているのか分からず、カミサマの顔を見返すことしかできなかった。
「だから、転生先。いつまでもここにいるつもりだったの?」
そんないきなりの言葉に僕は混乱を極めた。
しかし一方で、先ほどまでの現世での出来事を考えると、この流れは必然だったのかもしれないと妙に納得する自分もいた。
何故ならあそこで過ごした日々を通して、ようやく自分のこの先のことを考えていたのだったから。
『……いつ?』
「今すぐ。それともまだここでやりたいことでもあるの?」
それを聞いて僕は小さく笑った。
『いいえ。丁度飽きたところでしたよ。』
「でしょう?で、どうするの。
時間、場所、存在。きみが望むところへ還してあげよう。きみごときの願いなら、神である私に叶えられないものはないよ。」
その言葉に、僕はそっと深呼吸をする。
そして意を決してついに答えた。
『僕は、元のところへ帰りたいです。
死ぬ前の、まだ兄貴が一人で決めてしまう前のあの家に。』
僕が本当はどうなりたかったのか。
あの冷え切った家を、同じく冷え切った目で見ていただけの僕。
あの家にいながら僕は当事者じゃなかった。何故なら全てを他人事のように遠ざけて、ただ過ぎ去るのを待っていただけだったからだ。
妹を義務で庇うのも、母の傍観を見下していたのも、父からの暴力に耐えるのも、兄の狂気に気付かない振りをしていたのも、
僕が僕自身を突き放し、あの家に関わらずにい続けていた為だった。
それは、最初からあの家にいなかったことと一緒だったのだと、今ならわかる。だから。
『僕は、僕の意思でもう一度あの家と向き合いたくなったんです。
それで何が変わるかは分からないけれど、僕は今度こそあそこにいた家族の一人として、もう一度やり直したいんです。』
僕の答えに、カミサマは無言でいた。
相変わらずベールで隠されたその顔がどんな表情をしているのは見えなかった。
しかしカミサマは出会った時と、ここを離れようとしている今とも、雰囲気は何も変わらないでいた。
「良いでしょう。」
しばらくの後、カミサマはぽつりと言った。
そしていつものようにワープホールを作り出して、僕の方を向いた。
「ここをくぐりなさい。そうすれば願い通りのところへ還れるよ。」
そう言うカミサマは、いつも僕をおつかいに放り出す時と同じ様子だった。
どれだけの時をここで過ごしてきたか分からない。それでも立ち去るときはこうも突然で、
それはここに訪れた時と同じだけの突然さであったと思うと、なんだかおかしくて笑ってしまいそうになった。
それでも僕に迷いは無かった。そしてワープホールに向かい、足をかける前にカミサマの方へ向き直った。
『今まで、お世話になりました。』
それに対し、カミサマはやはり無表情のような無機質なような声で返事をする。
「さようなら、ツグト。もう帰り道は無いからね。」
『はい……!』
そして僕はワープホールをくぐる。それと同時に手足の感覚がリヴリーのそれではなく、元の人間のものになっていくのが分かった。
振り返るともう入り口は塞がっており、常世の景色もカミサマの姿も見えなくなっていた。
どこまでも広がる暗闇。しかし遠くの方に光の点があるのが見えた。
僕はそこに向かって駆け出していく。
あの場所へ辿り着くまで、最後まで振り返ることは無かった。