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Detective Conan Volume 16
Included cases:
File 151-153: Band of Fire Case (end)
File 154-155: School Mystery Case
File 156-159: Kaito Kid and the Black Star
File 160: Potter Murder Case (beginning)
Bonus material:
Detective Picture Book: Mitsuhiko Asami
Keyhole:
Kaito Kid
Favorite case: Kaito Kid and the Black Star
Least favorite case: School Mystery Case
Rating:
9/10 school buildings
Kaito Kid is there. There are all in all good cases, except for the School Mystery Case. This one’s just dumb.
#Repost @djpaulkom • • • What Do U Call A Man That Music In His High School Days Was Doper Than Most New Shit Out These Days???🤔 The K.O.M. "King Of Music" 😉🍻 #M4L #KOM #volume16 #djpaulvolume16 #ICantGetShit
This is the last journal work I will do at this house. This corner is where I started, truly started, to feel I could call myself an Artist. It will always hold a special place in my heart. And I can't wait to set up shop at our new place. #artistmama #art #artist #work #artjournal #moleskine #volume16 #aspentrees #practice #artjournaljunkie
Oh the tears #tegamibachi #tegami #manga #volume16 #hiroyukiasada
volume#16|Seeing Like a Society Interview with James C. Scott
(ジェームス・C・)スコットは、ハイ・モダニズム的な人類発展計画について最も深い批評を行う者のひとりである。彼は、社会の認識のしやすさや標準化、と彼が呼ぶものを導く国家建設のプロセスが、啓蒙や自由というよりもコントロールと支配を助長するだろうと踏んでいる。スコットはマレーシアの森林における小村落共同体の研究から自身の学者生活をスタートさせた。彼はその熱帯雨林を去るとき、国民国家がどのように社会を組織するのかに関する重大な観察記録を大量に持ち帰った。彼の記念碑的著作『Seeing like a state(1998)』は、社会発展のための政府による計画がいかにうまくいかないかについて、基本的かつ入念な批評を行うための基礎となった。タンザニアの強制的な村落、プルシアの科学的な森林管理、ハイ・モダニズムなブラジリア、USSRにおける産業農業計画や近代の様々な「ミレニアム開発目標」などなど。スコットによれば、これらはすべて致命的であることが明らかになった合理的なユートピアの青写真である。 エリック・ゲーリットセン 社会は設計し得ない、という結論にはどのようにたどりついたのでしょう? ジェームス・C・スコット 東南アジアをリサーチするなかでその発展計画の決定的な過失と直面しました。うまくいっていた地域コミュニティもがっちりと意図された発展目標の帰結として破壊されたも同然であり、そこでこうした過ちのより深い原因を理解しようと努めました。そして思い到ったことは、社会にとって野心的な計画をなすためには、そして社会を変化させそこに介入するためには、国家はそのときある程度操作され得る社会をつくらなければならない、ということです。つまりアイデンティティを持った市民をつくらなければならないということ。記録され得る名前を持ち、土地測量の記録に合致する住所を持った市民を。どうやら私は、初期近代ヨーロッパにおいて国家をつくるという取り組みには介入可能である前に理解可能な、認識可能な社会をつくることがあった、という事実にとりつかれてしまったようです。そしてこんなことにも気づきました。社会を認識できるものにするプロセスのなかで、社会は社会をラディカルに変化させる、ということに。初期近代国家が統治する社会を変化させる方法は、現在世界銀行が第三国を変化させる方法と近いものがあります。 本の中で私が挙げた例は科学的森林管理に関するものです。これは森林を変形させるひとつの形式であり、森林に関するそれ以外のことがらを無視してしまうことで、成果を生み出しもする。ところが結局それは森林再生という自然なプロセスを侵害するような森林を生み出すことになってしまったわけです。それは絶望的なまでの過ちですが、いままでこれは科学的森林管理の世界基準とはなっていなかった。そのような洞察に私は興味を惹かれ、ブラジリアというカッチリと意図された計画の失敗や、機能していない村落へと700万人が移住させられるタンザニアの強制的村落化へ当てはめて考えてみようと努めました。そしてついに私はソビエト農業の産業化や集団農場化という政策に目をつけました。ハイ・モダニズム計画と私が呼んでいるものの批評をなんとかやり切ったわけです。つまり、科学技術がエリートを育てるという信念に根ざす19世紀的イデオロギーは、社会計画の責任を負っている。どうやって親は子を風呂にいれるべきか。どうやって食や住宅のデザインを準備するべきか。ハイ・モダニストらに言わせれば、自分たちはこうしたことを知っているのだ、と。ハイ・モダニストらのこうした不遜さは、あらゆる社会的問題に対する単一の奇怪な答えを信じさせ、その解決策を民衆に押し付け、こうした構図こそが目的なんだと民衆は納得させられてしまうわけです。 EG あなたが 1998年に『Seeing Like a State』を出版されて以降、世界は急激に変わったように感じます。標準化を通して「認識可能な」社会をつくることはもはやグローバルなスケールで実行されています。私たちはまた別の、より高いレベルの国家建設を目にしているのでしょうか? 世界国家のようなものを? JCS ある意味ではね。世界銀行は第三国の発展プロセスをコントロールしようとし、そうすることによって根本的にこれらの社会を変化させています。これは私たちが初期近代西洋に見たものと近い。WTO(世界貿易機関)、IMF(国際通貨基金)、そして世界銀行は、北大西洋的な自由資本主義や自由民主主義という制度を世界の他地域にも植え付けようとしています。中央銀行の発展、私的所有権の創造、知的財産権の保護、利益の返還、そして「土地台帳への登録」と私が呼んでいるものや、標準化されていない統計値の過度の強調を見てみると分かるでしょう。彼らはこの発展に対して非常に的確な言葉を使っている。調和、です。 これはすべてプロパガンダの重要な一部です。つまり制度が互いにマッチし、対応しているかということを確認しているということ。私にとって興味深いことはこういうことです。つまり、こうした制度は世紀転換期の北大西洋的資本主義に特有の、ちょっと変わった、その土地固有の制度だということ。それらは現在、巨大な多国籍の制度に押し付けられ、世界基準として第三国へ戻っていきます。そうしたプロジェクトの理屈はこんな具合でしょうか。オランダからのビジネスマンはアサンシオンでもキンサシャでもどちらでも飛行機を降りられる。そして彼はそこに全く勝手知ったる制度や構造の世界を見つける、と。それらがなじみ深いものであるのは、その制度や構造がこのビジネスマンが来た世界から来たものだからです。それは自らをユニバーサルなものとして表しますが、土地固有のものでしかないということを決して忘れてはいけません。そして、それら制度や構造はその固有の歴史の文化的集積のすべてを担っているということも。 こうした傾向はグローバルビレッジへの後戻りできない道を暗示しているかもしれません。まさにこの線に沿って私は本を書きましたが、幸運なことに現実はより複雑でした。例えば、世界銀行の地域発展プログラムは、結局そのスキームが自らの要求にまったく適っていないことに気づいた何千もの地域農業者たちによる反計画によって犯されてしまいました。彼らはそれを解体し、自らの期待に適うようその大きなスキームをねじ曲げてしまった。その条件の困難さに彼らが抵抗できるような方途などなかったにも関わらず、第三国における実際的なプロジェクトが元々のデザインとまるで別もの、ということがしばしばあります。嘆かわしい話ですが、その逸脱のほとんどは、特定の政府が自身の権力を高めようとしたり、それを地方に投影しようとする努力の帰結なのです。
この点に関する他の妥当な発展は、金融資本やコミュニケーションのボリュームとペースの莫大な増加です。これらのテクニックによって、これまで不可能だった微妙なコントロールが可能となりました。でもそれは集合的な過ちを瞬間的に蔓延させもします。アメリカのサブプライムモルトゲージ危機がどれほど早く世界中に無限分岐したのかを私たちは目撃したところです。制御不能になった物事のスピードやボリュームは、それが新たな形のコントロール主体となるその速さと同等であるように思います。 EG さて、では都市へと話題を移していきます。計画者や人々が実際に都市へ変化をもたらせるような大都市の設計やどの程度それを設計するのかに関して、あなたはどのような見解を持っていますか? JCS アメリカ全土で都市リニューアルのために出される一人あたりの政府補助金額が最も高い、ニューヘブンやコネチカットといった都市で教える機会があるのですが、彼の地ではそんな計画が都市が破壊されてしまうまで行われています。都市計画の20年間に、彼らは大きな移動を二、三回している。ニューヘブンは政府による都市計画がうまくいかなかったテストケースだと言ってもいいでしょう。ヴィクトリア期のことわざに「三回の引っ越しはすなわち死」というものがあります。人々が根ざし、友をつくり、日課をこなす近隣からひとたび彼らを引きはがしてしまえば、たとえそれが良き近隣でなかったとしてもその移動には多大なる社会的コストがかかる。人々を動かしたはいいが、場所に全く根を降ろさないという反応だってあるでしょう。それくらい痛みは大きく、再度腰を上げようなんて思えなくなってしまう。ジェーン・ジェイコブスはこの主題に関して1961年に『アメリカ大都市の死と生』という優れた本を書きました。彼女はうまくいっているコミュニティの原則のようなものに取り組んだわけです。都市計画家によってつくられたコミュニティではなく、安全で豊かな、そこで人々が暮らしたいと思うような、時の経過の中でつくられうまく回っている近隣に目を向けた。そしてジェイコブスは「非=スラム化」というコンセプトを紹介します。すなわち、ある地域を均し徹底的に建て直すというハイ・モダニスト的な「スラムクリアランス」ではなく、彼女は近隣の「非=スラム化」能力というものを考えていました。そこで彼女はこう言うわけです。もし人々が自らが暮らしたいと願い、そこなら安定した職が得られると思えて、自らのふるさととしてよりよくなっていくと信じられるような地域に住むことを許されたら、その近隣は「非=スラム」そのものである、と。不幸にも、ほとんどのコミュニティはゆっくりとした再建のための十分な時間がありません。そもそもいかなる都市計画者もうまくいくような近隣をつくることなどできなかった。一度たりともね。ひとりの都市計画家に期待できる最大のことは、うまくいっている近隣の働きをアイデンティファイすることと、それを保存することくらいです。それを払いのけて壊してしまうのではなくてね。 EG 社会設計に対するあなたの批判は自由市場の口実だとされており、あなたは自称アナーキストです。このことについて説明してもらえますか? JCS 『Seeing Like a State』を、フリードリヒ・ハイエクやマイケル・オークショットといった人々について語るための言葉にだけ反応して、右翼的な本だと見なす人もいます。が、そういう難癖に対して私はこう答えます。巨大な資本主義企業が、国民国家がまさにそうであったように、いかに標準化へと頼っているのかについて書を著しましょうか、と。マクドナルドのマネジメントやコントロールのツールを見てみるとよくわかるでしょう。国民国家との唯一の違いは、標準化を利益という形でペイするものにしなければないくらいのことです。 他方で、アナーキズムというカテゴリで私を縛り付けたいと考える人もいます。私はヒエラルキーなき相互依存だとか、極めて複合的で集合的な調整をいかなる国家の関与もなく長期的に達成するだとか、そういうアナーキストの考えにひどく感銘を受けているアナーキストです。東南アジア全土に農業用地をつくる、ということを例にとってみましょう。私はかつて生徒に「スコットのアナーキー健康法」なるものを説明したことがあるのですが、個人的にはその法則に頼って生きています。人生にはいくつかのポイントで大きな法律違反しないといけないときだってあるでしょう。すべては状況次第です。だからその瞬間のために丈夫でいなければなりません。そういうわけで私は毎日あるいは二日に一回くらい法律違反に専念するわけです。 EG あなたは現在、国家はなぜ「おとなしくない人」に寛容でないのかをリサーチしています。これは社会設計の限界に対するリサーチとして、どの程度斬新なものと見られるでしょうか? JCS 国家はオルタナティヴな生を選んだ人々との関係をまったく想定していないかに見えます。当の人々がベルベル人だろうが、ベドウィン族だろうが、ジプシーあるいはホームレスだろうが、彼らは最も古い国家プロジェクトすなわち定住化を妨害するわけです。 そんなに前のことじゃないんですが、私の学生に足を折ってしまった者がおり、彼はその治療の時間を使ってニューメキシコはアルバカーキでホームレスパーソンとして生活することを決めました。二週間、彼はゴミ収集箱から物を集める年長のホームレスパーソンの後を追っていました。そしてその学生は、都市の狩猟者=収集者としての生にまったく感銘を受けてしまったわけです。ホームレスの男はストリートで淋しげなアルコール生活を送っているような人ではなかった。むしろ都市についてびっくりするほど多くのことを学ぶことができる、信じられないほどのサバイバルスキルに溢れた人だったのです。 もしうまくいくような社会設計に興味があるのならばこう思うのではないでしょうか。このアプローチを真剣に考えてみてもいいな、と。都市にいる貧しい人、ホームレスの人に対する都市的なサービスを任されたとしたら、まずはこうしたことをはじめたらどうでしょう? 数週間でもストリートで生活してみては。そして自らの部署で働くすべての人に対してもそれをけしかけてみては。 EG あなたはリサーチもすればもの書きもする・・・羊も飼っている。何を学びましたか? JCS 羊は愚かさと服従のメタファーとして使われます。やれと言われたことをやり、群れて動き、いかなる個性も持たない人、そういう人を「羊になった」と言ったりする。でも動いている野生の羊を見たことのある人なら、羊は生来おそろしく個性的であることを知っています。人類は8000年羊を飼い、教えやすい個体ばかりをずっと選択してきた。今になってそれを達成した私たちは、ずうずうしくも羊をコケにして、彼らを私たちのようにしてしまった! 私たちは自らにふさわしい羊を得たわけです!
楽園を計画する (エージェン・オースターマン)
「重要な建築的介入を始めるために必要な条件は、その実践に関わる一団(政府、地方自治体、個人投資家、ディベロッパー、建設会社、プランナー、デザイナー、そして建築家)との協議によってプロジェクトを規定することである。」「建築的介入と変容」に関する最近の国際会議におけるこの前置きは、今日における諸過程を考える「包括的な」方法に典型的なものである。プランやポリシーはもはや少数の専門家によって規定されたり実施されたりするものではない。それらはすべてのステークホルダー(利害関係者:現在的にポピュラーなもうひとつの概念だ)とともに発展させられる。すべての?たいていは介入の主体と被害者となる使用者/消費者/居住者は、ここから著しく抜け落ちている......