#TVOD Essay27 「セッちゃん」のこと/comeca
「セッちゃん」は、イラストレーター・映像作家の大島智子による、初めての長編まんが作品である。「誰とでも寝る女の子」である「セッちゃん」と、「誰にも興味を持てない男の子」である「あっくん」の物語。
大島はかつて、自身の作品の主題を、日本国憲法の条文を読んで決めた、と語っている。
大島:そう。続いてるのは……クラスメートがいいって言ってくれたからかな? それからずっと絵柄は変わらないんですけど、サブカルっぽいテーマのイラストを描いていて、しばらく経ってから今のような日常的なテーマを描くようになりました。
泉:何かきっかけがあったんですか?
大島:大学生のとき、日本国憲法の第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるのを知り、「この言葉すごい!」と思って、絵のテーマにしようと決めたんです。健康で文化的な生活って、つまりは普通の日常だなって。
「泉まくら×大島智子 共作を通じて、生きる自信を膨らませた二人」https://www.cinra.net/interview/201504-izumimakura
「健康で文化的な最低限度の生活」としての普通の日常。セッちゃんもあっくんも、そういう日常の中を生きている/いた。その日常の中でセッちゃんは、「セックスは、『ごめーん』とか『ありがとー』とか必要なくていいな」「セックスは、私と同じく、汗が出て、よだれが出て、声の出る人間が、いると思えるからいいな」と思いながら、中学生のときから誰とでもセックスをしていたし、あっくんは高校のクラスメイトの黒須さんの死体を見つけてしまっても、「おれは大丈夫。おれはこっち側。友達と笑って、テストは20番以内キープして、彼女つくって、おれはそういうことができる。あのぐちゃぐちゃの物体はただの死体」と感傷を封じ込めていた。
セッちゃんはコミュニケーションをまともに介在させない「ただのセックス」を繰り返しながら、あっくんはコミュニケーションをとることが不可能な「ただの死体」を遠ざけながら、それぞれの日常を生きていたのだ。セッちゃんは日常の中で浅薄なコミュニケーションをとることをあらかじめ拒絶しているし、あっくんは日常の中で浅薄なコミュニケーションに留まるしかないという諦観をあらかじめ持っている。
いつまでも続いていきそうだったそういう「平坦な日常」(ウィリアム・ギブスンのこの言葉を引用した「リバーズ・エッジ」などの、岡崎京子の諸作品の意図的な参照が本作品には散見される)に、亀裂が入る。学生運動の中からテロ行為に走る過激派が現れ、社会を動揺させる(ただ、このストーリー展開における政治や社会運動に対する描写の単純さはどうかと思う。浅野いにを「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」でも同じようなことを思ったけど)。セッちゃんやあっくんの身の回りの人々も、「すぐに生き方を変える」。キスもセックスもしなくなって、「いつものくだらないカラオケのストーリー」や「真夜中の自撮り」もやめて、「デモに参加したり論文とか書き始める」。鯖缶を食べ終えたあと、猫のように友だちとセックスをしようとするセッちゃんは、「こんな時にそんなことしないでしょ!?」と拒絶されてしまう。
「日常生活を批判する」過激派の学生たちは、動物園も電車もシェアハウスもアパレルショップも爆破していく。「健康で文化的な最低限度の生活」としての日常の風景は、どんどん壊れていく。「だれかだれか だれでもいいから 前みたいにいっしょにいて」と思っているセッちゃんと、「でもおれたちは、ずっとこっち側で、大丈夫なはずじゃん」と思っているあっくんは、周りの人々から取り残されていく。
「『ごめーん』とか『ありがとー』とか」、そういうコミュニケーションをとらなければいけない世界は、「友達と笑って、テストは20番以内キープして、彼女つくって」生きていかなければいけない世界になり得る。「めんどくさい」不可能性だらけの世界。そういう世界を無理やりにでも遠ざけていたセッちゃんと、そういう世界に諦めと共に留まろうとしていたあっくんは、日常の風景が壊れていく状況の中で、いつの間にか一緒に過ごし始める。二人で意味もなく座り込みをしたり、二人で難解な台詞回しのよく分からない昔のフランス映画を観たり、あっくんの部屋で二人で漫画を読んだり喋ったり。でも、セックスはしない。二人は「そういうんじゃなかった」から、「なんか落ち着く」から、「なんとなく一緒にいる」。それぞれ異なる形で世界に取り組もうとしていた二人は、「普通の日常」が壊れていったからこそ「もうなにがこっち側なのか分かんないし、今までのこっち側もなんだったのか分かんない」状態になって、一緒に過ごすことができるようになる。
二人はたぶんお互い生まれて初めて、コミュニケーションを拒絶することも、コミュニケーションに諦観を持つこともない形で、「なんとなく」他者と共に過ごすことができたのだと思う。だからセッちゃんは、あっくんとつくったカレーを二人で一緒に食べたとき、「だれかとするよりおいしい」「セックスよりも体に染み渡ってとってもおかしかった」と感じたのだ。「日常」が壊されていくなか、自分たち自身の「日常」をつくりだしていくことで、「日常」ひいては世界の中にある不可能性ではなく可能性に、セッちゃんとあっくんはいつの間にか触れていたんじゃないかと思う。
「『ごめーん』とか『ありがとー』とか必要」な世界を拒絶したり、「友達と笑って、テストは20番以内キープして、彼女つくって」生きていく世界に諦観を持ったりできる存在とはつまり、「子ども」である。セッちゃんとあっくんは、「少女漫画にかぶれてる」「悪意の無い計算高さが浅はか」な、あっくんの彼女のまみさんをバカにするけれど、二人ともどこかで、そういう「浅はか」なまみさんの方が大人になれる可能性とその意志を持っていることに、本当は気付いている。自分たちの方が本当は「バカ」で「子ども」であることに、二人とも気付いている。だからセッちゃんは「誰かわたしを運んでくれないかなあ 誰かわたしをどこかに」と、自分で自分の主体を引き受けることを恐れているし、あっくんは「おれがこっち側でいるために、だいじょうぶでいるために、その計算が必要なんだよ」と、自分の主体を誰かに預けることばかり考えている。この社会における「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が、日本国憲法第25条によって保障されていることを、「子ども」たちは気にかけない。「普通の日常」は自明のものではなく、そうやって歴史的かつ社会的に構成されているものであること。大人たちが自らの主体としての責任を引き受け、その社会的な構成の維持にコミットしなければ、「ずっとこっち側で、大丈夫なはず」であるわけがないこと。「浅薄なコミュニケーション」をとる人々や世界をバカにし、拒絶し、諦観を持っているだけでは、「日常生活を批判する」過激派の学生たちと何も変わらないこと。
セッちゃんもあっくんも、そういうことに、いつまでもずっと「子ども」ではいられないことに、本当は気付いていたんだと思う。
でもたぶんセッちゃんは少しだけ、主体を引き受けようとした。自分では「なにかを選んだりすることができない」セッちゃんが、唯一誰かにしてあげたいと思ったこと。中間テストで一番をとったらクラスメイトに殴られて、歯が折れてしまった妹のうたちゃんに、差し歯を買ってあげること。そのためにバイトして、でも母親が(まったく悪気無く)先に差し歯を買ってあげてしまって。セッちゃんはそういう自分を「バカだ」「間違えた」とごまかそうとしたけれど、あっくんが「バカじゃない」と言ってくれて、うたちゃんもそういうセッちゃんの行動を喜んでくれて。
そして、誰かに運んでもらうことばかり考えていたセッちゃんは、「セッちゃんさあ、オレと付き合わない?」とあっくんに言われたときも、ちょうど食べていたアイスが「はずれ」だったから「付き合わないよお!」と言ったセッちゃんは、フィンランドに行ってしまったあっくんに、誰かに運んでもらうのではなく、「色々すっ飛ばして」自分自身の力で会いに行ったのだ。愛用の熊のポーチにコンドームを入れて。「なんとなく一緒にいる」ときには一度もセックスをしなかったのに。セッちゃんは、自分自身の力であっくんに会いに行くときに、自分自身の選択でコンドームを持っていったのだ。
ただ、そうしてセッちゃんが少しだけ主体を引き受けようとした瞬間に、物語は終わる。「真相は分からずじまい」の外国のテロに巻き込まれて、セッちゃんはあっけなく死ぬ。あっくんは「セッちゃん自身がもう限界で、世界がきっかけを作って待っていたのかもしれない」と言うけれど、セッちゃんは本当に「もう限界」だったのだろうか?セッちゃんのいない世界に取り残されたあっくんや私たちが、勝手にそう思い込もうとしているだけだったりはしないだろうか?
「真相」なんてそれこそ「分からずじまい」である。そんなものは存在しない。私たちはただ物語を読むことしかできない。ただぼくは、セッちゃんが生き得たひとつの可能性について考えたい。セッちゃんのいない世界で感傷に浸り続けることを選択したくない。
確かに、うたちゃんが言うように、セッちゃんのお父さんがNPOで語る講演なんかにセッちゃんの「本当」なんて無いだろう。でもそれでは果たして、あっくんのログイン画面のなかだけに、社会を拒絶した小さなコミュニケーションの中だけに、セッちゃんの「本当」が本当にあるのだろうか?
「真相」も「正解」も存在しない。ただ、セッちゃんが少しだけ引き受けようとした主体性が、一体どこに向かう可能性があったのかを考えたい。うたちゃんもあっくんも大島智子も、「こんな世界はセッちゃんには似合わない」と思っているのかもしれないけど、本当にそうなんだろうかとぼくは思う。少しだけ「主体」を引き受けようとしたセッちゃんの方が実は、いつまでも「子ども」みたいな私たちより少しだけ早く、この世界で、「日常」で、大人になるきっかけを掴んでいたんじゃないのだろうか?
そういうことを考えるのを繰り返していたら、いつの間にか私たちはたぶん「子ども」ではなくなってしまうだろう。「セッちゃん」を読んでどうしようもなく感じる切なさも、忘れていってしまうだろう。
でも、それでいいのだと思う。












