精神の商品化不適格宣言 Ne-valideco de spirito por esti komercajho
始めに、私は全くアマチュアなので、ここで書く内容に専門的な保証は求めないでほしい。 マルクス経済学を少しかじってみると、商品が資本主義の重要な要素と分かる。というのも、人間の労働力も含めて、現代ではあらゆるものが商品化されてしまったので、市場なしでは生きていけなくなったからだ。だから、脱商品化というムーブメントもあったりして、しきりと議論されているところである。しかし、本当にあらゆるものが商品化されたのだろうか、という疑問は残る。私が特に気になったのは、精神が商品化されるか、ということだ。 精神といっても色々ある。哲学・思想から宗教的精神、文学的感情の高まり、欲望などなど、挙げればきりがない。ここで特に問題にしたいのは、理想的人間像についての精神だ。というのも、世間ではしきりと資本主義的な理想的人間の姿を追い求めているし、コマーシャルでもアイドルでも映画スターでも、ひっきりなしに出てくるからである。疑いようもなく、理想的人間像についての精神は資本主義にとって大事だが、そういった精神は商品化されうるのだろうか。 結論を言えば、私は精神は商品化するのに不適格だと思っている。また、積極的に不適格であることを宣言すべきだとも思っている。
まず、資本主義における理想的人間像の特徴を示したい。 資本主義社会の理想的人間像は入れ子状になっている。なぜなら、人間とその土台となる生活秩序は、生産され消費される対象であると同時に、生産・消費する主体でもあるからだ。理想の対象に関して言うと、理想的人間の目指すものは、人間の一般的生活のある特定部分の完全な構成なのであるが、彼自身の日々の暮らしの基本構成すべてが、そうした諸々の理想的人間の努力によって形成されている、という入れ子だ。形態としては、「理想的人間」はコミュニティとして調和しており、生産・消費・再生産を滞りなく行っている。
次が本題だ。こういう理想的人間像の具体例を心に思い浮かべて、人はその精神を商品化し、市場に並べることができるだろうか。 まず労働市場に関して言うと、市場の競争に打ち勝つためには「そこに並ぶ他の誰でもなく私自身が理想的人間だ」と示さなければいけない。しかし、そこには二つのジレンマがある。資本主義の理想的人間像は入れ子状なのでコミュニティを作るが、コミュニティを作っても、それが「どの人物が理想的であるか」を示す手段とはなりえない。第二に、理想的でない人間は理想的関係の内部に居ない、と想定できるが、それを繰り返すことで「他の人すべてが理想的でない=自らが理想的」と示そうとしても、そもそもコミュニティを形成できない点で逆に自らは理想的でない、と示してしまうことになる。 次に一般市場に関して言うと、生活の一部分を構成する商品が「理想的人間によって作られた」ものだと主張しても、それは商品の価値と何も関係しない。なぜなら、理想的人間の入れ子状態は、彼の生活についてあるので、彼が一方的に作ったものだけでは何も代表できていないからだ。また、逆にその商品を選ぶ消費者が、賢い、だから理想的だと示しても、やはり同じことで、消費者がどのように労働力を提供しているかに関して何も指定できないので、やはり意味がない。
以上で示したように、資本主義における理想的人間についての精神は商品化できない。 それはなぜだろうか。少し理論的に考えて、商品と精神を区分してみたい。まず、商品は対象としての人間と、主体としての人間の結節点であり、それらを乗り越える特異点である。ある人は食品(商品)を買うが、同時に自ら働くことで稼ぐ労働者(商品)でもある。他方で、理想を追い求める精神は、入れ子状の人間像のなかに何らかの価値を見出し、そこに向かうのである。それは境界を乗り越える特異点ではなくて、特異点をも包括的に捉える心的傾向である。
やはり、結論としては精神は商品化できないのである。すると問題が起きてくる。世間の色々な表現に惑わされず、商品という概念と、理想を追い求める精神とを区分できるか否か、である。CMや就活で頻繁に繰り返されるキャッチフレーズに踊らされることなく生きていけるものだろうか。そこで精神の商品化不適合宣言が必要だと思われる。積極的に精神が商品化できないと宣言してしまうのである。理由については、以上の議論をつづめて以下のように言える。
〈精神は、商品となるためには欠点があり、商品にするには大きすぎる。〉
以上考えてきたことのために、例えば〈資本主義を将来的に乗り越える〉というような歴史的意識は不要である。あえていうと、資本主義における「無知の知」のような姿勢として考えているのだが、いかがだろうか。すなわち、労働力市場における態度決定について、また商品生産や商品選択の場面について、精神の商品化不適格宣言は統制的に働く。そして、私が思うに、それは理想的人間像を標榜する色々な商品の、おかしみをさらけ出していく。奇妙な商品については冗談や皮肉こそ相応しいと思うからだ。












