Tumblrを始めてから10周年を迎えました 🥳
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@ko-mochi
Tumblrを始めてから10周年を迎えました 🥳
この社会、年齢性別にかかわらず「聞き分けのいい子」は高い評価を与えられる。ワガママや不平不満を言わず、言われたことにきちんと頷きよく守るいい子。けど、大人しくひとの言うことをよくよく聞いて、それで結果自分が尊重されたりいい目にあったりしたことが、いったいぜんたいどれほどあるだろうか。「聞き分けのいい子」に高い評価を与える、そいつは誰だ。そいつは私より「偉い」のか。なんで私の人生に私以外の奴がカットインしてくるんだ。私の人生の船長は私である。他人に舵を握らせたり指揮権を与えたりしてなるものか。
王谷晶『どうせカラダが目当てでしょ』(loc. 68/174)(honto)
無意味という言葉にもマイナスなイメージがつきまとうけれど、無意味って自由だ。理由の説明も言い訳もいらない。だって意味がないんだから。
王谷晶『どうせカラダが目当てでしょ』(loc. 16/174)(honto)
私たちは、自分たちのこの境遇を、なにかの罰だと、誰かのせいだと、うっかり思ってしまうことがある。しかし言うまでもなく、自分がこの自分に生まれてしまったということは、何の罰でも、誰のせいでもない。それはただ無意味な偶然である。
岸政彦『断片的なものの社会学』(loc. 159-160/176)(honto)
しかし、神ではない私たちは、それぞれ、狭く不完全な自分という檻に閉じこめられた、断片的な存在でしかない。 そして、私たちは小さな断片だからこそ、自分が思う正しさを述べる「権利」がある。それはどこか、「祈り」にも似ている。その正しさが届くかどうかは自分で決めることができない。私たちにできるのは、瓶のなかに紙切れをいれ、封をして海に流すことだけだ。それがどこの誰に届くか、そもそも誰にも届かないのかを自分ではどうすることもできない。
岸政彦『断片的なものの社会学』(loc. 151-152/176)(honto)
そして、痛みに耐えているとき、人は孤独である。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、私たちが感じている激しい痛みを脳から取り出して手渡しすることはできない。私たちの脳のなかにやってきて、それが感じている痛みを一緒になって感じてくれる人は、どこにもいないのである。 私たちは、他の誰かと肌を合わせてセックスしているときでも、相手の快感を感じることはできない。抱き合っているときでさえ、私たちは、ただそれぞれの感覚を感じているだけである。
岸政彦『断片的なものの社会学』(loc. 102/176)(honto)
誕生日をお祝いする、ということの意味が、ながいことわからなかったが、やっと最近になって理解できるようになった。ずっと、どうして「ただその日に生まれただけ」で、おめでとうを言ったり言われたりしないといけないのか、判然としなかったのだけれども、その日だけは私たちは、何も成し遂げてなくても、祝福されることができる。誕生日は、一年にいちど、かならず全員に回ってくる。何もしないでその日を迎えただけなのに、それでもおめでとうと言ってもらえる。誕生日とは、そういうことだったのである。
岸政彦『断片的なものの社会学』(loc. 77/176)(honto)
私には子どもができない。重度の無精子症だからだ。 あるとき連れあいが、病院から検査結果を、泣きじゃくりながら持って帰ってきたとき、私はその話を聞きながらぼんやりと、「おれ安全だったんや、結婚する前にもっと遊べばよかった」と思っていた。 いや、そうではなく、もっと正確にいうと、「これは『おれ安全だったんや、結婚する前にもっと遊べばよかった』というネタにできるな」ということを考えていたのだ。私は咄嗟に、この話をどうすれば笑いを取れるネタにできるかを考えていた。 私は咄嗟に、無意識に、瞬間的に、その話をネタにすることで、どうにかそのことに耐えることができた。もちろん、それから何年か経つが、そのことと「折り合い」をつけることはいまだにできない。ただ、私たちは、人生のなかでどうしても折り合いのつかないことを、笑ってやりすごすことができる。必ずしもひとに言わないまでも、自分のなかで自分のことを笑うことで、私たちは自分というこのどうしようもないものとなんとか付き合っていける。
岸政彦『断片的なものの社会学』(loc. 70/176)(honto)
私が冗談半分に「寄せ鍋理論」と名付けている理論がある。たとえば、ひとりの友人に、いまから私と話をしましょう、そのための時間をください、と言ったら、不安になって警戒されるだろう。でも、いまからおいしい鍋を食べませんか、と言えば、ああいいですね、行きましょう、ということになるだろう。 人と話をしたいなと思ったら、話をしましょうとお願いせずに、何か別のことを誘ったほうがよいのだ。考えてみれば奇妙なことである。けっきょく何が目的で鍋を囲むかというと、お互い話をするためである。だったら話だけすればよいではないか。 しかし、人は、お互いの存在をむき出しにすることが、ほんとうに苦手だ。私たちは、相手の目を見たくないし、自分の目も見られたくない。 私たちは、お互いの目を見ずにすますために、私たちの間に小さな鍋を置いて、そこを見るのである。鍋が間にあるから、私たちは鍋だけを見ていればよく、お互いの目を見ずにすんでいる。鍋がなかったら、お互いに目を見るしかなくなってしまうだろう。私たちはお互いの目を見てしまうと、もう喋ることができなくなって、沈黙するしかない。そしては怯えや緊張は、沈黙から生まれるのだ。
岸政彦『断片的なものの社会学』(loc. 36/176)(honto)
最後に、「同性愛が先天的であるのなら、それは本人が選べないことなのだから差別してはいけない」という考え方を検討してみましょう。この考え方は、本人が選んだことについては差別しても問題ないという解釈をあわせもつ危険性を孕んでいます。
一橋大学社会学部佐藤文香ゼミ生一同『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた―あなたがあなたらしくいられるための29問』(p54)
なぜ夫婦間にこのような認識のギャップが生まれるのでしょう。家事・育児・介護などのケア活動のなかには、みえにくい「お膳立て」が含まれているという指摘がなされています(平山 2017)。たとえば、夫が妻に頼まれた食材を買い、調理して、子どもに食事を与えたとします。その裏には、子どもの好み、健康状態、栄養バランスの他、翌日以降の食事、予算などさまざまに考慮して献立を考える、という妻の「お膳立て」があるのです。食事を与えることに限らず、家事・育児のなかにはみえない「お膳立て」が無数にあります。これを見逃しているがゆえに、夫が「自分は家事・育児をやっている」と思っているほどには、妻は評価していない、という事態になるのだと考えられるでしょう。
一橋大学社会学部佐藤文香ゼミ生一同『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた―あなたがあなたらしくいられるための29問』(p31)
他者の存在が、気配が、日常に輝きや、ときとして軋轢を生じさせる。この世界のうつくしさの根本は、やはり「多様であること」「自分の意のままにはならぬこと」にこそあるのだと、改めて思ったのだった。
三浦しをん『好きになってしまいました。』(loc. 52/291)(honto)
ごうごうと膨れ上がる怒りに呑み込まれていた。悠がママの言うことをきかないから、ママが「悪いママ」になるんだよ。
樋口美沙緒『ママはきみを殺したかもしれない』(loc. 41/232)(honto)
「日本人てどうしてこう、食卓ドラマ好きなんですかね」 「みんな疲れてるからかなあ。でも私も、食卓ドラマ嫌いじゃないから、気持ちは分かります」 それって先生も疲れてるってことじゃないですか、と逢坂さんにつっこまれ、二人してまた笑う。
樋口美沙緒『ママはきみを殺したかもしれない』(loc. 20/232)(honto)
このような意味での「死」を知っているのは人間だけです。永遠には生きられない、人生一回きりだ、いずれ必ず終わりを迎える……。このようなことを、動物は知りません。動物は死の観念をもっていないのです。 「え、ほんとうにそうなの?」と思う人もいるかもしれません。たしかに動物はライオンに追いかけられれば逃げるでしょう。しかしそれは死ぬのが嫌だからではなく噛まれるのが嫌だからです。つまり「いま・ここ」での危害を恐れているのです。
西研『しあわせの哲学』(loc. 30/114)(honto)
基本的にチンパンジーなどの類人猿は、「いま・ここ」を生きる存在です。「いま・ここ」で苦痛がないかぎり、まわりの人があれこれかまってくれることを「うれしい」と感じ、同時に「驚かせてやろら」といらいたずら心も出てくるのです。 一方、人間はそうはいきません。いまの瞬間には痛みや苦しみがなかったとしても、人は必ず「これから」について考えます。もちろん、人はいつも「これから」について考えているわけではなく、夢中になって「いま・ここ」の何かに集申していることもあります。しかし、人は基本的には「これから」、つまり未来のことを気にかけながら生きています。そして過去を振り返ることもします。このように人は、過去・現在・未来、つまり時を生きる存在なのです。 これが、人間とチンパンジーの大きな違いだと言えます。
西研『しあわせの哲学』(loc. 13/114)(honto)
問題を指摘するだけの瞬発力がないなら、そのような状況で、せめて笑わないことが、私にできる最低限の小さな抵抗だと思ったのだ。
キムジヘ:著/尹怡景:訳『差別はたいてい悪意のない人がする―見えない排除に気づくための10章』(loc. 122/306)(honto)