声望の高まり 1934年9月、崔承喜は自らの名を冠した舞踊発表会を開催。この公演は川端康成や菊池寛など、当時の代表的な文人が鑑賞し、きわめて高い評価を受けた。川端はみずから崔承喜論を書き、彼女を「女流新進舞踊家中の日本一」と評している[1]。 こうした声望の高まりを背景に、1935年春、崔承喜は独立して東京の九段にふたたび崔承喜舞踊研究所を設立する。このころから今日出海監督の映画『半島の舞姫』に主演したほか、化粧品や衣類などさまざまな広告にも起用され、美貌の天才舞踏家としての大衆的な知名度も高まっていった[2]。 1937年12月から3年間にわたって、崔承喜は欧米・南米各地での巡演旅行を行う。講演回数は約150回におよび、パリではピカソやコクトーも彼女の舞いを鑑賞している[2]。ニューヨーク公演では1939年にアメリカン・バレエの舞台に出演、マーサ・グラハムとともにダンス・フェスティバルにも出演している[4][5]。 しかしアメリカ滞在中は、日本に協力的であるとして現地の反日同胞から批判、嫌がらせを受け、在米反日派による排日マーク販売を崔の仕業とする噂が日本で立つなど、難しい立場に立たされたともいう[6]。 日本に戻った崔承喜は、歌舞伎座などで凱旋公演を行う。1944年の帝劇公演では、戦争下の窮乏した時期にもかかわらず連日満員の盛況となったという。しかし朝鮮出身の舞踊家として軍部・警察からさまざまな監視・警戒を受けるようになった。創氏改名が法制化されたのちも "Sai Shoki" の名が国際的に定着しているとして改名の要求を退けつづけた[1]。1944年3月、中国の日本軍慰問のため、東京を離れる[2]。 北朝鮮へ 1945年、中国滞在中に出産のため入院していた病院で日本の敗戦を迎える[1]。その後、一度ソウルへ渡るが、共産主義に共鳴していた夫の強い意向で日本へは戻らず、翌1946年7月に北朝鮮へわたる。ここでも彼女は国際的な舞踊家として厚遇を受け舞踊研究所を主宰。のちに中国へも派遣され、パリで彼女の舞台を見たという周恩来の支援を受けて、北京の中央喜劇学院にも崔承喜の名前を冠する訓練班をたちあげて後進の育成、さらには京劇の近代化に大きな業績を残した[2]。このころ娘の安聖姫(アン・ソンヒ)も舞踊家となり、母とともに指導にあたっている[1]。1948年8月に最高人民会議の代議員に当選[7]。 しかし後に北朝鮮で高位にのぼっていた夫が失脚。崔承喜自身も1967年「ブルジョワおよび修正主義分子」と名指しされ[8]、娘とともに軟禁された[9]とする短報が出た後、消息不明となっている[1]。
崔承喜 - Wikipedia














