問題の焦点は自我への常習的執着の否定(人無我)であり、独立して存在する世界やその世界に対する心の瞬間的関係への信頼は問いの焦点とはならなかった。龍樹はこの三項関係の各項(主・客・関係に対応する名辞)が独立して存在することを否定する。「事物は共依存的に発生する、つまり完全に無根拠なのである」。『根本中頌』では主体と客体、事物と属性、原因と結果という主題に関し、非共依存的な存在という考え方を悉く退ける。 衆因緣生法 我說即是無 亦為是假名 亦是中道義 未曾有一法 不從因緣生 是故一切法 無不是空者 [依存性(縁起)を我々は空性であるというのである。その空性は仮の名づけであり、それは中道と同じことである。 依存しないで生じたものなぞ何もないのであるから、空でないものなぞ何もない] 問いかける主体の心と心の客体は論理学・言語学上のものではなく、三昧・覚(mindfulness / awareness)を通しての「経験への秩序立った検証」による発見である。龍樹はアビダルマを退けてはいない。彼の分析全体は、アビダルマのカテゴリーに基づきつつ、それを徹底しているのである(人無我→人法無我)。もし心が、世界から離れて、世界「について」知っている何かであるとするならば、我々はもはや心を持たないのである。我々はまた世界をも持たない(中道、人無我・法無我)。隠されているものは何もない(顕)のだから、知ることもない。空を知ることは志向的行為ではない。智慧は表象主義の根を撥無する。
『仏教と科学――認知科学者の仏教理解を手がかりに――』(司馬春英著、佛教文化学会紀要、2003年2003巻12号 p.l1-l21, 2003)pp.14-15 第2章 認知科学と仏教 第1節 認知科学における仏教への関心 第4項 イナクション(行為的産出)と中観派





