Birthday edits for our Uzui fictive! Happy Birthday Uzui <3 (pt2) -Mod Cyber
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memo983
モノを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」で考えてみると,サーフェイスの部分にソフトウェアが接着されたということになるだろうか.サーフェイスにソフトウェが接着されてインターフェイスになって,サーフェイス-バルク-サーフェイスというフレームが,インターフェイスに一括りにされて,向こう側の主体とのやりとりをする場になった.ソフトウェアによってハードウェア=サーフェイス-バルク-サーフェイスが無効化されたのかもしれない.サーフェイスがインターフェイスになったときに,モノにどのような変化が起きたのか.サーフェイスにソフトウェアが接着されて,インターフェイスになり,インターフェイスは「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだ.
そして,現在,モノを包み込んだインターフェイスを引き離す動きがある.そうすると再び「サーフェイス-バルク-サーフェイス」が現れるが,それはインターフェイスを経由した「サーフェイス-バルク-サーフェイス」であって,インターフェイスだけが別の平面に移植された「サーフェイス-バルク-サーフェイス」になっている.他者とのコミュニケーションを引き離されながらも,それは別のインターフェイスを介して,機能する.exUIはどこか奇妙な感じがする.
exUIに行く前に,「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだインターフェイス=ソフトウェアのことを考える必要があるし,その状態でインターフェイスを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」として考えてみる必要がある.インターフェイスをこちらと向こうとの界面ではなく,インターフェイスを構成しているのは文字通りの一枚の限りなく薄いサーフェイスであり,それは,その薄さ出会っても「サーフェイス-バルク-サーフェイス」という,表と裏をその間を持つモノとして考える必要がある.それは,モノを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」と分解して考えることであり,インターフェイスというソフトウェアと「サーフェイス-バルク-サーフェイス」との接着の仕方を考えることにつながってくると思われる.
memo970
モノからインターフェイスがなくなるということはどういうことなのだろうか.もともとはモノに「インターフェイス」はなくて,必然的な形態がそこにあるだけであった.けれど,コンピュータによって,ハードウェアとソフトウェアとが分離して,そこにインターフェイスが生まれた.いや,「ボタン」が生まれたときにインターフェイスが生まれたとしたほうがいいのかもしれない.サーフェイスが機能と直結しなくなったときに,インターフェイスが生まれたということかもししれない.
インターフェイスはサーフェイスに張り付いていた.exUIはサーフェイスからインターフェイスを剥ぎ取り,もともとあったボタンも剥ぎ取る.ピアノから鍵盤を引き離してしまうものだろうか.ピアノはまた違う問題かもしれない.いや,音が出る四角い箱があって,スマートフォンにインターフェイスとしてピアノの鍵盤が表示されて,それをタッチする,箱からピアノの音が聞こえてくるとき,四角い箱が「ピアノ」となる.このように考えると,exUIはハードウェアからインターフェイスを引き離すだけではなくて,スマートフォンというハードウェアとソフトウェアとが一体化したモノから,ハードウェアを引き離したものとも言えるのではないだろうか.
スマートフォンが一枚の板としてハードウェアとソフトウェアとを一体化したモノとしてのインターフェイスを提供していた.exUIはスマートフォンからハードウェアを引き離し,モノのハードウェアに引き渡す.そのとき,モノはインターフェイスをスマートフォンに引き渡す.モノはサーフェイスを持つようになり,スマートフォンはインターフェイスを持ち続ける.このとき,スマートフォン自体はほとんど変わりないが,サーフェイス化したモノは,これまでの機能と直結した形から切り離される.この機能と形との切り離しは,スマートフォンがフラットデザインになったときに起こったことだといえる.そのときに「メタファー」がスマートフォンから消えたとすると,exUIを付与されたモノもまた「メタファー」で語られるなるようなあたらしさを示すことになるだろう.このように考えてみるとexUIというのは,モノのフラットデザイン化であり,それはアフォーダンスを示さないサーフェイスをつくるということなのではないだろうか.
memo969
exUIはモノからインターフェイスを剥ぎ取って,サーフェイスにする.今の語感だと「サーフェイスにしてしまう」という感じかもしれない.何もない表面にしてしまって,もう一つの表面であるスマートフォンにインターフェイスを表示する.「インターフェイス」が移植される.モノからイメージへとインターフェイスが移行される.電話の受話器がアプリのアイコンとなるように,モノがアプリになる流れがここにある.インターフェイス=イメージ側によってモノの定義が変わる.イメージが「支持体」となって,モノを規定するともいえる.物理世界にあるものを重視する感じだと,インターフェイスがスマートフォンになっても,結局,物理世界に干渉するのはモノだということなって,モノこそが支持体となるだろうけれど,そこにはイメージを介して,もう一つの別のサーフェイスを通さないとアクセスできないとなれば,そこは別のサーフェイスこそが機能を規定するという意味で大きな役割を持っているし,これまでのモノとイメージ,サーフェイスとインターフェイスという関係を変えてしまっている感覚がある.「イメージがモノの支持体となる」と書いたときに感じたうまく想像することができない感覚が,exUIにはある.
memo968
Queさんの「apple」展のブログが書けた.サーフェイスとバルクとの関係から,iPhoneとiPadを考えてみること.それは,インターフェイスとサーフェイスとのあいだを行き来することである.サーフェイスがその奥のバルクへと連続的につながっていて,サーフェイスとバルクとをひとつのモノとして捉えること.それは,ソフトウェアとハードウェアとの関係に近いのかもしれない.だとすると,世界はソフトウェアをサーフェイスとするモノに溢れかえっていることになるだろう.
このように書いてくると,Paul Dourishが「The Stuff of Bits」で書いているエミュレーションの話が気になってくる.
エミュレーションは、同じロジックによって、仮想的に二重になります。一つのソフトウェアを使用して別のソフトウェアのアクションを生成することは、ソフトウェアをハードウェアからさらに根本的に分離し、既に仮想オブジェクトを操作するための完全な仮想環境を作り出します 。 ロケーションNo.1387 / 5110
仮装の上に,ハードとソフトとをもうひとつつくってしまうこと.エミュレーションはヴァーチャルとは異なる.ヴァーチャルの上にソフトウェア的にハードとソフトをつくってしまう.ハードもソフトになる.ソフトがハードを包み込んでいく.ハードの上にハードをソフト的につくって,ソフトを実行する.実行されたソフトはハードから分離される度合いが強くなっている.
このように書いてくると,渡邊恵太さんのexUIも気になってくる.ハードウェアからUIを取り除いてしまって,スマートフォンにUIを担わせてしまう.Dourishのエミュレーションの話とexUIは意外と近い関係なのかもしれない.だとすれば,「The Stuff of Bits」の第6章の「The materiarities of internet routing」は読まなければいけいない.流し読みではダメでし,しっかりと読まないと.恵太さんのexUIがインターネットを前提としたモノのあり方を示しているのだとすれば,それは,インターネットのマテリアリティと深く結びついたものになっているだろうから.
memo963
肝要なのは,全面化されたeコマースにおいては常に「物」(=商品)の「情報」がその“実質”に先行し,そのことで従来であれば自己完結的であるはずの「物」(=商品)が「情報」と“実質”とに乖離と“ブレ”を起こすことである.「物」は「情報」に遅れて遣ってくると言ってもよい.そして「物」(=商品)におけるこうした乖離,“遅延”を埋めるオペレーションこそが顧客の観点からのあるいは情報社会に固有な意味での〈流通〉に他ならない.
〈流通〉の社会哲学 アマゾン・ロジスティック革命の情報社会における意義,大黒岳彦 in 現代思想 2018.3月号 物流スタディーズ
大黒さんは物を「情報」と「実質」との分離させているけれど,『融けるデザイン』のように物を「情報」と「持続」とに分離させてもいいのかもしれない.どちらにしても,情報が先行していくというのは,イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクトで「イメージがモノの支持体になる」と書いたことにつながると思う.
ヴィアカントの「イメージ・オブジェクト」に代表されるポスト・インターネットではイメージが前面に出ていましたが、徐々にオブジェクトの状態が注目されるようになりました。そして、ポスト・インターネット以降とも言える現在は、シトレイアとトロエメルによる「UV Production House」やエキソニモの《キス、もしくは2台のモニタ》が示すようなイメージに主導されるかたちのあたらしいオブジェクトが現われてきています。それは、イメージの可変性をオブジェクトそのものに適応させて、イメージでオブジェクトを覆ってしまう試みなのです。
イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト
先行するイメージに覆われるようなかたちでオブジェクトを作成すること.物=オブジェクトの情報=表面は先行して作成される.それに合わせて,オブジェクトが持続するようにつくられる.イメージとオブジェクトとが分離している.イメージに合わせるかたちでオブジェクトをかたちづける.しかし,Amazonなどのeコマースで一度分離しているならば,イメージを分離したままのオブジェクトも存在として可能ではないないだろうか.乖離したブレを情報に担わせたままインターフェイス化したのがexUIではないだろうか.