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@champsuperieur
(最近の日記より)
世界は本当に多様な現れの舞踏会であるし、留まることなく異質なものへと変状していく存在のメロディーであるし、そして孤独な存在者たちが全くの偶然の内にゆくりなく邂逅しては別れゆく逢坂の関である。生きているかぎり出会われる具体的で驚異に満ちたもの一つ一つの現前の力とゆらぎ、世界に満ち満ちている分からなさと偶然性、そしてあらゆる同一性に先立つ差異、変化、創造。世界と諸対象の瑞々しさを写し出すそれ自体瑞々しい概念を作り出し、その概念をもって世界のゆらぎをまた一つ開いていくような実践、そんな哲学を自分は求めている。 自然科学的世界観に対する違和感をどう言葉にするかは暫くのあいだ自分の問いの一つだったが、気づけばいつの間にかこのテーマを考えることは少なくなった。科学とは、世界の一つのアスペクト、あるいは前提的な世界観の中で、絶えざる検証を通して現実に体系的な理解と操作可能性を与えようとするあくまで人間的な試みである。それは、確定と予測と操作という諸理念の優位の下に成立している、ある種の理性の歴史を背負った一つの生の態度であって、あくまで重ね合わせ、渡り歩いていくことのできる諸態度の一つにすぎないだろう。自然科学的世界観が他の世界観の排除を己の使命とするときに、自分の科学への反発が始まる。だがそれは科学それ自体では全くない。科学的探求を世界の絶対的同一性、あるいはある種の超越の開陳と混同するのは、俗な科学理解にすぎない。そこに見え隠れする同一性への欲求こそが、あくまで自分の対決相手だったのだ。 では何が問題なのか。世界の見渡し得なさ、ゆらぎと開かれ、流転と寄る辺なさを捉えること。一つの存在論に収束しない世界の現れを掴むこと。恐らくメタ存在論的な試みが必要になるだろう。実際、一つの世界観を構築する前に人間に与えられているものは何か。存在以前的な現象の戯れ、感覚と想像力と記憶の渾然一体となったファンタスマゴリー。自己や他者、世界という現象と共に立ち上がるこれらのきらめきに見入ること、それは世界の一義性にも先立つ存在の喧騒に耳を傾けることだろう。ならば一つの現象学が必要なのだろうか。だが一体現象学は本当に実在を捉えるのか。目の前の玉虫色の諸事物のそれでもなおリアルな存在、その手触りをさえ現象から構築しなければならないほどに、人は経験から遠ざかっているのか。存在をまさに掴んだ生の只中から哲学を開始することはできないのか。
昔から、夕暮れ時の空を見上げるのが好きだ。西の空に日が沈み、東の空から夜がやって来るまでのわずかな時間。地上からは見えなくなった太陽がその最後の光を天高く投げかけ、雲たちをオレンジやピンクに染め上げる。やがて、低い位置にある雲が色を失っていく。太陽の光はますます高くへと上っていき、より高いところにある雲をますます赤く燃え立たせる。そしてそれらの雲もまた次第に光を失い、重くて悲しげなグレーの不定形な重さとなって、夜の空へと溶けこんでいく。小さな飛行機が空に引いたオレンジ色の線が見えなくなったら、いよいよ夜の始まりだ。 なぜこれほど夕暮れの空が好きなのだろう。変化していく色合いの儚さ、にも拘らずのんびりと漂ったままの雲のユーモラスさ、次第に紺に近づいていく青と次第に深紅となるオレンジのコントラスト... どう言葉を並べ立てても、結局のところ空に惹かれるという単純な事実に至ることはできない。現実は常に言葉や理論より複雑だが、それは現実がいつも圧倒的に単純だからだろう。雲の動きを予想したり、もうすぐ雨が降りそうだいうことを雲の表情から読み取ったりはできても、結局なぜ人生でこれだけ何度も見上げてきた夕暮れの空がいつも変わらずきれいなのかは何も分からない。表面的なことは、最も説明しがたい。
Verts divers いろいろな緑色
「旅によって生ずるある孤絶感は人生の意味を反省させる。人生は畢竟、一つの未知から他の未知への旅であるからだ」(鈴木大拙)
自分と目の前の他者に誠実であること。
自分の生きたいように生き、自分に恥じぬように生き、自分らしく生きること。しかし、自分もまた一人の他者であると理解すること。何者でもない自分を忘れないこと。 相手の目を見ること。自分の生きたことのない、生きられた現実を思い描くよう努力すること。他者の感性と行動を生み出す様々な文脈と記憶を知ること。分からないことは分からないと言うこと。暴力を嫌悪すること。目を瞑らずに、動き回り、旅を続けること。 人生の孤独を理解すると共に、自分が一緒にいたい人と過ごせる時間を大切にすること。悪口を言わず、感謝を忘れず、時には思い切り笑うこと。それでも、嫌なことは嫌だと言うこと。自分と相手とその時その場所とに内在する異質さに対して心を開くこと。影響を与え、影響を受けることを過度に恐れないこと。絶えず変化する世界に魅入り続けること。
« …C’est le retour, c’est aussi l’apaisement du rêve, de là une teinte de gravité légère, de mélancolie tempérée, d’ivresse ensommeillée… » (G. Moreau) 帰途、それはまた夢の鎮まり 仄かな重々しさと 穏やかなわびしさと 眠気を帯びた陶酔の色合い 明日日本に帰ります。
精神とはまさに記憶なのであって、古い友だちと交わす一言には、その人と過ごしてきた年月の重み、諸瞬間が一点に凝縮された深みが宿っている。数々の帰らざる日々、あの遠い瞬間、だからこそ永遠である、特異的なできごとたち。あの時こうしていたらどうなっていたのだろう、そんな条件法の問いをひっくるめて、過去というものは存在しているのであり、現実性と可能性とはそう簡単に分けられるものではない。ある異なる現実を繰り返し想像し、それと対話し、そこからふと何か本当のことを悟る自分がいる、そんな仮定的な記憶。過去は、それが宿していた、実現しなかった別の過去へとつながる様々な力線をはらんだものとしてずっとそこにある。むしろ、様々な瞬間へとつながる多様な力線の凝縮こそが、ある瞬間を特権的なものにする。そして、誰かと交わす一言において回帰する過去とは、そんな諸瞬間、諸傾向、諸力線、継起する永遠なのである。 »Es schwingt, mit andern Worten, in der Vorstellung des Glücks unveräußerlich die der Erlösung mit.« 「言い換えれば、幸福の観念のうちには救済の観念が譲り渡せぬ権利として共振しているのである」(W. Benjamin)