裏ドラ現代芸術論
かねてより私は「芸術作品はスタンドアロンであれ」という旨の主張をしてきた。
スタンドアロンな作品ってなんぞや、となるが、要は「作品をぱっと見たときのその情報だけで楽しめる」作品である。いや逆から言った方がわかりやすいか。「作品の背後の情報――作者の人となりや、作品を作るに至ったきっかけや過程、発想元つまり元ネタ、あるいは作品やキャンバスの材質、素材、はたまたそれが作られた時代背景、エトセトラエトセトラ――を、理解しないと楽しめないような作品はクソだ」ということを主張していた。「芸術作品は作品外の情報から切り離されたスタンドアロンであれ」ということだ。今も基本的に考えは変わっていない。
しかし、実際として「作品のウラ話を知っている方がより楽しめる作品」はあるし、あるいは私自身の好きな作品やアーティストでも、その作品の背後情報や、その作家の人となりを知っているからこそ、余計に素晴らしく見える、なんて作品や作家は沢山いる。この辺の矛盾――とはいかなくても、その辺の整合性を、なんとかはっきりさせたいな、とは考えていた。
そうぼんやりと考えたりしなかったりして数年。私は最近新しい趣味として、麻雀を始めた。そして麻雀用語を覚えていくうちに一つの概念に出会った。裏ドラである。 裏ドラをかなり雑に説明すると「自分で狙うことはできないボーナスポイント」である。懸賞役、と言われるものの一つだ。麻雀を知らない人にどっから説明するかはかなりめんどくさ……難しいのだが、裏ドラに話を絞ると、「リーチ」を宣言したうえで、目星のものを引き当てて「アガった」時に、それまで隠されていた「裏ドラ」を初めてめくることができ、自分がアガった手のなかにその指定された裏ドラが含まれていると、追加でボーナス点が入る、というものだ。だから狙って裏ドラを手札に組み込むことはできないし、そもそも条件を満たさないと裏ドラをめくることもできない。 そして、「裏ドラ」も「表ドラ」も共通だが、ドラを手札に組み込んでいるだけでは「アガる」ことはできない。チョンボになる。麻雀で「アガる」ためにはそもそも「役」が必要だ。それこそ「リーチを宣言する」ことも役の一つであり、これを宣言しないとアガれない、点数がそもそも貰えない場合もある。そしてボーナスポイントをもらうためには、その役を作って、つまり「そもそも得点をつけたうえで」、アガる必要がある。逆からいえば「ドラ」とは純然たるボーナスポイントで、そもそも点数をもらえる場面において、さらに高得点をもらうためのチャンス、なのだ。
この「ドラ」というボーナスポイント、「それだけでは得点にならないのだが、もし得点を付けてアガることが出来たときにはより高得点をもらえる」という概念。これは私の提唱する「芸術作品は作品外の情報から切り離されたスタンドアロンであれ」という主張と、「芸術家の人となり等といった作品外の情報を知っているとより作品を楽しめる」という事実や現実に、似ているのではないか、ある種の相似を見出せるのではないか、と思いついたのだ。というわけでこの「裏ドラ現代芸術試論」を、例を挙げながら検証していきたいと思う。
例えば、私の好きな作家であるJ.M.W.ターナーの作品、『平和、水葬』を見てみよう(https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-peace-burial-at-sea-n00528)。茫漠たる海の真ん中に、真っ黒に塗られた帆船が漂っており、その船の中ほどには明かりが、いや炎が煙を上げて煌めいている。 この絵には裏情報が非常に多い。そもそもこの絵は、ターナーの友人の画家、サー・デイヴィッド・ウィルキーが船上で没し水葬された場面を描いたもので、ターナーは追悼としてこの絵を描いたのだ。暗い海面をよく見ると、船と同じ黒色で小さな海鳥が飛んでいるのを発見できるが、これは鴨、mallard であり、Joseph "Mallord" William Turner のもじり、すなわち作家ターナーが鴨として絵画上の葬儀に入り込み立ち会っているものだと言われている。また、この作品は『戦争、流刑者とカサ貝』という絵との対作品であり、恐怖さえ感じる赤い暖色系のそれと並べて展示することを前提に、『平和、水葬』は非常に対比的な寒色系の配色で描かれ、お互いがお互いの色彩をより鮮やかにより引き立てるような色遣いがなされている。その穏やかな寒色の真ん中に配置される真っ黒な船は、言わずもがなターナーの深い悲しみをあらわしている。 数年前、上野でターナー展があったとき、私はこの作品の実物とようやく対面することができた。私はターナーの大ファンなので、上記の情報を全部知ってる。上に書いた通り、この『平和、水葬』と『戦争、流刑者とカサ貝』もきちんと並べて展示されており、二対で完成する鮮やかな色彩の対比も完璧に感じ取ることが出来た。……しかし、そんなことはどうでもよくなるほど、この絵は圧倒的に美しかった。PCの画像や図録の印刷とは比べ物にならない、息をのむほどの美しさがその作品にあった。上で垂れ流した裏情報、「裏ドラ」など、この絵がそもそも持っている美しさの前では何の意味もない……。あるいはそんな思考さえも掻き消えてしまうほど、この絵の圧倒的な完成度の前に、私は我を忘れてしまったのだ。
主観で申し訳ないが、私の言いたいことは伝わっただろうか? 作品の裏情報は結局裏情報でしかない。勿論それらがあれば作品をより深く味わうことはできる、キャプションや注釈で補足されることもあるだろう。しかしそんなことを忘れさせる、とまではいかなくても、それらの情報がなくても名作は名作なのだ。裏情報を知らなくても名作は楽しめる、裏情報はボーナスポイントでしかないし、ボーナス点など無くても名作はそれだけで勝負できるのだ。
例えば草間彌生の作品群。キャンバスを、会場を埋め、無限に膨張し続ける水玉模様や光や突起物。これらの作品の元になったのは彼女の幼少期のトラウマや精神病やそれらからくる幻覚である、ということを、どれほどの人が知っているのか。勿論彼女のファンならば多かれ少なかれ知っているかもしれない。だが、彼女の水玉模様の絵画やオブジェは、彼女の手を離れて膨張し続け、フランスはリールの駅前や、日本でも新潟県まつだい駅前には彼女のオブジェ作品がでかでかと置かれてあったり、あるいはユニクロとコラボ製品が作られたり(http://sprzny.uniqlo.com/jp/products/kusama/)、もはや草間彌生という名前さえも知らない人にも、彼女の水玉模様が受け入れられている事実があるだろう。これは「草間彌生の水玉模様は彼女の見ていた幻覚から由来している」という事実や「この作品を作ったのは草間彌生という人です」という情報さえ最悪知らなくても、それらを受容させられるだけのポテンシャルを作品が持っているからではないだろうか。作家の名前さえ伏せられようともスタンドアロンで成立する強度、ポップさがあるからこそ、彼女のオブジェは駅前にそびえ立ち、服やバッグやスマホケースの柄として浸食できたのだ、と考えることはできないだろうか。
絵画や芸術だけじゃない、音楽だってそういうときがあるだろう。私の大好きなバンド、the pillows、彼らの代表曲『ハイブリッドレインボウ』の歌詞。「きっとまだ、限界なんてこんなもんじゃない」「ここは途中なんだって信じたい」……。普通に聞けば、リスナーを鼓舞する応援ソングに聞こえるだろう。しかしピロウズファンは知っている、この曲は彼らピロウズ本人たちが、音楽業界の仕組みに絶望し、売り上げも伸び悩んでいたとき、それでも自分たちの音楽を信じて進むために作った、彼ら自身のための曲なのだと。自分たち本人のための曲を誰もの曲に聞こえるようにする主語の転換がうまいのがピロウズなのだが(Funny Bunnyとかスケアクロウとかそういう曲は多い)、一粒で二度おいしいというか、初めはそういう情報がなくても聞ける、しかし彼らのバックボーンを知るとより楽しめる、さらにはこの曲がRadiohead等洋楽オルタナへのオマージュということがわかると尚面白く聞こえる、そしてもちろんこれらの裏情報を知らなくてもこの曲は名曲である、というスタンドアロンとボーナスポイントがうまく絡み合い共存併存しているのがピロウズだ。メロディと歌詞とサウンドだけで、スタンドアロンで勝負できる、もしかしたら「この曲は自分のために作られた曲だ」とぶっ刺さる人もいるかもしれない、しかしその奥、裏ドラをめくると、彼ら自身の足跡がこの曲に刻み込まれ柱になっていることがわかるのだ。
ああそうだ、こう例えれば早かっただろうか。あるバンドが新譜のアルバムを出したとする。そうしたら、リリース記念で音楽雑誌やニュースサイトで、新譜に関するインタビューを受けることがあるだろう。これを読むのは誰か? そのアルバムを聞いた人、あるいはこれから聞く人、そのバンドの元からのファン、この三択しかない。なるほどそのインタビューや(セルフ)ライナーノーツを読めば、新譜がどういうものか、どういう思いが込められているのか、どういうものから影響を受けたのか、そういった裏情報を得て、よりその新譜を楽しむことができるだろう。だが逆に、それを読まないと理解できない新譜なんかリリースするだろうか? あなただってそうだろう、音楽を買って、それを最初に再生するその瞬間。前情報なんて何もないし、無論、前情報を仕入れる必要も全くない。ただ再生される音楽を、再生されるまま楽しめばいい。そのアルバムは完成品としてリリースされているのだから、その音だけを楽しめばいいし、その音だけで楽しめる、勝負できる作品になっているはずなのだ。むしろ、余程のファンしか読まない、大抵の人は知るはずもない裏情報を読んで、ようやく楽しめる音楽アルバムなんて、要するに失敗作ではないだろうか?
あるいは、裏ドラを自ら投げ捨てる例だってある。アルバート・ムーアという芸術家を知っているだろうか? 彼は「唯美主義」という、「美しければなんでもええやろ」という芸術主義のなかで、古代ギリシア人(の格好をした人)にバイオリンやバドミントンのラケットを持たせたり、西洋人に東洋風の格好をさせ東洋の小物を持たせたりした。時代考証をぶん投げたのである。時代考証という筋が通っていれば、きちんと調べて描いたのだろうみたいなボーナスポイントが付いたりしたかもしれない。だが彼は「美しいだろ、だったらその辺の間違いなんてどうでもええやん」と開き直ったわけだ。その唯美主義の作品が現代まで残っているという事実そのものが、ボーナスポイントを投げ捨てても、作品そのものの美しさだけで勝負し、それだけでスタンドアロンで存在できるという証左にならないだろうか。
いや、あるいはその「美しければ多少の間違いなど些末な問題である」という唯美主義的思想そのもの、その強さこそが裏ドラだろうか。芸術のための芸術を目指す唯美主義思想、それに裏打ちされた作品群。あるいは「なんで古代人がバイオリンやラケットを持ってるねん」という疑問を持った人が、アルバート・ムーアという人物の人となりを探ろうとするかもしれない、そしてそこで彼を貫く唯美主義思想を掘り当てるだろう。
結局のところ、裏ドラとは作家の思想の強さ、意志の強さであり、それは作品の表にも滲み出てくるものなのかもしれない。いや、そこまで強い意志だからこそ、鑑賞者は裏ドラをめくりたくなるものなのだ。こんなことを思ったことはないだろうか? 「なんて素晴らしい作品なんだ、”一体何を食べれば、こんなものを作り出せるのだろう”」と……。芸術作品だって、それ単体で勝負できるくらいの、スタンドアロンで成立する強度を持っているからこそ、その裏まで知りたいと思わせられる引力が発生するのだ。これは、自力で手を作り必要なものを揃えてリーチを宣言し、その上でアガってようやく裏をめくれる、麻雀と似てはいないだろうか。 若干皮肉に思えるかもしれない、結局裏ドラ裏情報なしでスタンドアロンで成立する作品を作るためには、その裏打ちや土台や背骨として確固たる意志が無ければならない、すなわち裏ドラが背骨を支えているからこそ独力でスタンドしているのだ。(勿論、メッセージなんて特にない、ただうまくなりたい、を繰り返して、恐るべき完成度まで到達した外骨格みたいな作品や作家もいるが……)。だが同じく皮肉なことに、裏をめくりたくさせるには、やはり作品そのものにその引力が無ければならない、すなわち裏まで読み取りたくなるほどの美しさが無ければならず、すなわちその時点でスタンドアロンで成立する強度、裏ドラ抜きで勝負できる強力な手を持っているからこそ裏をめくれるのだ。
その辺を勘違いした現代ア~チスト気取りが、毎晩メシと酒と錠剤の画像をアップして、質問チャンスとかいってマシュマロを開設していたりする。バカ野郎順序が逆なんだよ。「何食ったら、これを作れるんだ?」というのが思考の順番で、これを食べてるので私はこれを作っていますじゃねえんだ。晩飯じゃなくて作品を作れ、アンタになんか興味はない。 私は遠い昔、『「アーティストの人間性のクソさと作る音楽の良し悪しに関係はあるか」もとい「アーティストの人間性がゴミクソだったときいかに作ってる音楽が良くても聞けるか」問題は、すっごい身も蓋もないこと言いますが、情報を知る順番の問題だと思います。』とTwitterに書いたことがある。裏ドラ理論でいくとどうだろう、「先に裏ドラをめくってから、どこに裏ドラがあるか答え合わせをするように作品を鑑賞する」みたいなことになるのだろうか? そういうのもあるのかもしれないが、私は賛同しかねる。だいたい裏ドラありきでようやく勝負できる程度の作品が、裏無しで戦える強力な作品に勝てる道理があるのだろうか? それなのに裏をのせることばかり腐心して肝心の手役作りが疎かになっている、承認欲求に敗北したア~チスト気取りばかり目立ってしまう。明槓で裏ドラは増えねえよルールを覚えろバカタレ。
芸術作品はスタンドアロンで成立すべきだ。裏ドラをめくるのは作者じゃない、批評家の仕事だ。批評家に仕事をさせたくなるような強度の作品を作るのが作家の仕事だ。アガらないことには裏をめくれないし、一番早くアガった人間だけが点数をもらえるのが麻雀なのだ。










