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朝日新聞・星野智彦氏の寄稿について
■寄稿・星野智幸さん 作家 このエッセーは、朝日新聞の編集委員から、安倍晋三元首相が亡くなって2年というテーマでインタビューの依頼を受けたことから始まった。2013年に私がこの欄に寄稿した「『宗教国家…
はじめに、星野智幸氏の著作はこれまで読んだことがないことを断っておく。
文学というものの果たしうる機能として、人々それぞれの生きる拠り所となり、現実の社会に、生身のひとりの人間として戻っていくための力になるもの、というように考えている。
現実の社会に立ち戻るためには、そこにいる生身の他者と対話して共存するための努力が必要だが、それを担保するのが「私を現す言葉」であり、文学はそういう「言葉」を「提案」ないしは「提起」、もしくは「提供」する役割があるのではないかと。
(この一文で私が使う「文学」という言葉の意味は、一般的にイメージされる分類を超えて、主に「物語」を提供する作品と考えており、小説だけでなく、漫画や映画、音楽等の画像・映像・音響によって表現された作品までを含む、かなり広義の意味を持つものと定義している。)
どの作品が「人生の支え」や「生きる拠り所」となるかは、作品に触れた人に依るもので、それこそ人の数だけ「拠り所」となりうる作品がある。
朝日新聞8月27日付の星野氏の寄稿を読んでまず思ったのは、現代社会における「私を現す言葉」の長きにわたる「不在」と、その果てに、星野氏に見えている「風景」に対する絶望感である。それは「文学」は、果たして市井の人々の「私を現す言葉」の構築に資することができたのか、という、自身を含む「文学」への問いであり、それに対していま言える答えが「否」であろうと氏が考えている、いうことである。
ニーメラーさんのいるところ。
この数年、何度となくWebでニーメラーの警句を見かけた。それの多くは表現規制問題の主張の中であったけれど、それだけでなく様々な政治や社会に対する思惑の下に引用されているのを多く見かけた。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義ではなかったから 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
今や私にとってある種の食傷すら伴ったこれは、それでも大変に印象的で引用したくなる魅力を備えている。この文章自身が鮮烈な物語であるからだ。 最後の一文で「誰一人残っていなかった」と締めくくられる物語としての鮮やかさ(そう、「鮮やか」さである)たるや。 ニーメラーの警句はそれ自体が一つの「物語」として完成されていて、ゆえに人に訴えかける力がとても強い。そして人は「物語」に弱い。ご多聞にもれず私も同様である。
さて。 私がこの警句の引用にある種の食傷を覚えたのは、見かける頻度だけでなく引用者の語り口にも理由がある。 発話者が人々にこの警句を持って何かを訴えようとする時、ニーメラーの立場での内省を含んだ訴えかけを殆ど見なかった。 「私は攻撃されている」 「あなた達は自分とは関係ないことだと思っているだろうけれど、今私たちを攻撃している何某かを放っておくとこうなるぞ」 多くの場合、そういう主張のための引用だった。
それが悪いというわけじゃない。実際に人に関心を払われないまま困難な境遇に追いやられることもある。そういうときに声を上げなくちゃいけないこともある。そして、そうやって声を上げて人々に社会のあり方を喚起する必要がある。 だけど、なんていうかね。 これを引用しながら訴えてる人も、何かを見過ごしてきたりしてたんだと思う。私自身、この警句を初めて読んだ時に想像したのは北朝鮮情勢をめぐる中での朝鮮学校の扱いだった。レイシスト達が押し寄せるコリアタウンの情景でもあった。そういう「もとより自分に関わりのあること」だった。 でも同時に、私があまり意識を向けてこず、自分に関わりがないと思って見過ごしてきたものだってきっとあるはずなのだ。 私はこの警句の中で「共産主義者」であり「社会民主主義者」であり「労働組合員」でありながら、同時にニーメラーさんでもある。 その内省が欠け落ちた警句の引用は、たとえ本来の主張に理のあるものだったとしても、私は読んでいてどこかしら疎ましさを覚えていたし、今も覚えている。私の想像や意識が向いてないところで、そのまま私に切り捨てられてしまった存在の影を感じながら。
「物語」を誰がどのように語るか。そしてどういう形で語りなおすのか。そこに無頓着なまま「語り」がなされること自体が、私には疎ましい。 この警句を引用する語り手の中で、ニーメラーさんはどこに立っているのだろう。 「俺を助けなければ、おまえもニーメラーのようになってしまうぞ」 というのならそれは警句でありつつ、呪いだよなぁと少し思う。
※ ※ ※
急に話は飛ぶけれども。 ここ数年、ずっと疑問に思っていたことがある。
ネトウヨ、レイシストの中で「物語」はどう咀嚼されてるんだろう、って。 例えば、二次元の美少女アイコンを使ってひどい差別的なTweetを投げてくる人は、その美少女キャラがどういう物語のどういうキャラクターなのか考えて発言をしているのかな、って。
そりゃー山野車輪のひどい漫画であるとか、どこぞのレイシスト団体の嫌韓本であるとか、そういうのを読んで溜飲を下げたりもしてるのだろうけれど、でも普通に本とか漫画とか映画とか音楽とか、アニメや2ちゃんまとめの「いい話」とかにも絶対触れてるだろうと思うんだよね。 (2ちゃんの某スレで一緒にゲームの話で盛り上がった中にも、ネトウヨさんがきっといたと私は思うんだよ。そうやってお互いに笑いあったりクソゲーを嘆きあったり労わりあったり、本の内容について議論もしたと思うんだ)
現在、人が親しんでいる物語の中で、差別主義者が善として描かれることなんてのはとても少ない。差別者にも様々な過去や事情があり、みたいな展開もあるにしろ、「差別行為」そのものを善として描くことは稀だ。差別を肯定し楽しむ胸糞悪い悪趣味な話があり、また、悪逆を悪逆として魅力的に描いた話もあるとはいえ、それはそれで背徳的に楽しむケースが主だろう。そういう話「だけ」を摂取する人というのも少なかろう。ましてや「善なる話」として読んだりはしていないと思う。 きっと、当たり前のように少年少女の青春を慈しみ、人情話に涙して、悪を悪と認識し、自己犠牲を賛美して、人間の尊厳の回復を言祝いでるんじゃないかって、私は想像してる。 物語の中にひどい差別主義者が出てきたのなら、「こいつ最悪」って受け止めるんじゃないかって、想像している。
で、そこで自分の物言いや行いを振り返ったりしないんだろうか、って。 私はずっと不思議だった。 自分のしていることを、自分が心動かされた物語に引きつけてみた時にどういう位置づけになるか、考えたりしないのかな、と。 私はずっと不思議だった。
極端な話をすると、レイシストは「デビルマン」を読み通せるのかな、って思ってた。牧村家のあの展開を、自分の行いを考えながら読み通せるのかなって思ってた。 私は人間の読解力をそのくらいの基準で見積もっていた。信用していたと言ってもいい。
今はそこらへんが瓦解している。2013年から14年というのは、私の中で人間の読解力というものに対する信頼が決定的に崩れ落ちた時期だったとも言える。
多分、レイシストはデビルマンを読み通せるだろう。 牧村家に起きた惨劇を惨劇として受け止めるだろう。 そして、きっと「普通の日本人に向かって差別ニダ!と押し寄せる在日及び反日」であるとか、「自衛隊員の家族を脅かす極左たち」の醜さのように受け止めながら「こいつら最悪」と読むのではないかなぁと今の私は想像している。
私がデビルマンの牧村家に起こる惨劇を見て真っ先に想像したのはユダヤ人に対する迫害や関東大震災での朝鮮人虐殺であった。世界のあちこちで起きている人種間の憎悪や、それに基づく惨劇であった。で、個別のそういう事例を思い浮かべるのと共に、これは「人間の普遍的な愚かさと悪」の表現であるということも受け止めていた。 「人が自分とは違う誰かを迫害すること」。 その恐ろしさやおぞましさについての表現であると。 それぞれに思い浮かべる個別の事例が何であれ(いかにそれが極端な例であったり馬鹿げた間違いであろうとも)、あの表現はおまえにもそのおぞましさがありはしないかと突きつけにくる表現なのだ。
私は牧村家の人間であるし、デビルマンである不動明でありながら、同時に、彼らを迫害し無惨な最期に向かわせた群衆の要素も持っていて、それを恐れねばならない。あれはそういう表現だと。 忌々しい相対化遊びではなく、「自分のこと」であり「誰かのこと」でもあるその表現を、それぞれに誠実に受け止めるべきものなのだと。
私がずっと考えていたのはそこだ。 思い浮かべた個別の事例の更に先で、普遍的な「人間」に対する眼差しを獲得することができるはずだと、私はそう思っていたし、結構無邪気に人間の読解力というものを信じていた。
2013年から14年にかけて、そこが思い切り崩壊した。
レイシストは自分たちを牧村家や不動明に置きながら、デビルマンを読むだろう。自らの行いを顧みはしないだろう。
物語には限界があると目の当たりにして、私は地に膝を突いてしまった。自分を支えていたとても大事な屋台骨がバキッと折れてしまった。 語る側と読み解く側の、相互の信頼なんてものが思い切り裏切られる様を目にしてしまった。 「物語」への信頼というか信仰がへし折れたのである。
だけどやはり私は「物語」を杖として歩いてきた人間なので、改めて「物語」を掴んで立ち上がりたい。 そう思ってる。そして途方に暮れている。
あなたが語るとき、ニーメラーさんはどこにいますか。
※追記
あー。 私自身の属性については18禁も含む乙女ゲーマーだし、背徳的な物語もそれはそれで親しんでいるし、表現規制の問題については基本的にずっと反対の姿勢でおります。そこらへんのポルノであるとか切断処理されやすいオタクコンテンツを規制しろとか軽んじていいとは思っていないし、自分と縁遠いものとも捉えておりませんです。 つーか私自身オタなので多少のレイヤーの違いはあれ当事者だと思っています。 同時に私は、政治思想的な理由で自粛や制限を受けてきたり、社会運動として声を上げてきた表現や主張についても諸々記憶していて、そういうものに縁遠かったオタさんの冷淡さも忘れてはいません(だからといってそれを理由に冷淡になるつもりもないですが)。
色んなものが入り組んでる中で、なんか決定的にしんどかったのが上記の事柄だったのであり、「これで全部」というわけではないです。というか自分の属性やら何やらをフルオープンにしてここで一度に全部フォローしきるのは色々無理。今回はこのくらいで勘弁してやってください。
それでも人はやっぱり矛先を向けられた時に「自分が真っ先に吊るされる」危惧を抱いてしまうのだと思うし、周囲の冷淡さに失望したり絶望したりするのは仕方がないことだと思う。 ただ私は、自分がオタクであることと同時に在日朝鮮人であることも「向けられた矛先」を実感する要素になっているので、そこらへんをどうしても見渡しながら話さざるをえない。 そういうものの狭間にある今の感情がこの文章ですよ、とは伝えておきたいです、はい。 世には様々に危惧と恐れがあるから、私の中の「ニーメラーさん」には頑張って立ち上がってもらって、できる限りは拾っていきたいと思っています。
※さらにもうちょっと追記
そう言えばだいぶ前に漫画家の坂田靖子さんが、映画「ライラの冒険」の続編がキリスト教団体の抗議に合って製作中止になってしまったとき、「わはははは!ファンタジーが現実を恐れさせ、現実に勝ってしまったぞ!」というようなことをある意味皮肉たっぷりに書いてらっしゃったけれども、あれは「物語」の力を現実があぁいう形で認めてしまった、ということだよなぁ、と昨晩布団に潜り込みながら考えた。
物語を(尊重はしないけど)恐れる人の方が、物語を恐れない人より自分と近い地平にいる気はする。決して相容れないだろうけれど。
Are you certain that God exists?
Map of Africa on the year 1880 AD, Before the European “Scramble for Africa”
Mapping the Gaza-Israel protest types (pro/contra/neutral) in Middle East, Europe, North America
Mapping the Gaza-Israel protest types (pro/contra/neutral) in Middle East, Europe, North America
The last time each European country was occupied.
by themapaholic
UN General Assembly Vote for Humanitarian Truce in Gaza
Gaza strip detailed
2016 vs 2020 US Presidential Election Vote Shift Percentage
by u/notspoon
“この項の最後に、私が、ひそかに師と仰ぐ憲法学者・小林直樹元東大教授の見解を掲げておこう。多くの憲法学者の支持を得ている見解である。 「憲法が緊急権規定をもたなかったのは、ある種の人々が考えるように、憲法の欠缺(リュッケン)でも欠陥でもなくて、旧体制の経験にかんがみてその遺物を払拭するという過去に対するネガティブな側面と、平和原則および民主主義に徹するというポジティブな意味を有するといわねばなるまい。立法者意思をも考慮してこのように総合的解釈すれば、緊急権に関する憲法の沈黙は、憲法の基本原則に憲法自ら忠実であろうとする規範的意味とともに、自由と平和を守るという高度に積極的な政治=社会的意義も認められるであろう。」(『国家緊急権』学陽書房)”
— 緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(19)日本国憲法は緊急事態条項を拒否し、排除した:深草 徹氏 | 晴耕雨読
お、おう… ( M氏 モリケン さんのツイート )
こういうところで暮らしたことなんて、
一度もないのですが…。
.
観ていると、
なんとなく懐かしく感じられてしまうから、
不思議ですね。
.
まるで、おとぎ話の中の風景みたい。
.
日本有数の豪雪地帯、
そのために、
急勾配の屋根を持つ、合掌造りの家を。
.
その風土を考えれば、
当たり前とも思えるような風景ですが。
.
どこへ行っても、似たような景色ばかりになりつつある、
今現在からみれば、
そんな当たり前のような話が、おとぎ話になってしまった、
ということになるのでしょうか。
.
自分から語る言葉は丁寧に。相手から受ける言葉には寛容に。これが、プロトコル。(Twitter / @結城浩)
— ブレイクスルーな言葉 (@breakthrough_jp) from Twitter: http://twitter.com/breakthrough_jp ————————————— Edited by 空心 web: http://cooshin.com / facebook: http://facebook.com/cooshin
“チャックという名の若い男が、農夫から100ドルで馬を買いました。 しかし翌日、農夫が馬を届けに現れると、 「すまんチャック、馬が死んでしまった」と言いました。 チャックは「じゃあ、支払った金を返してくれ」 すると農夫は「それは出来ない、もうあの金は使ってしまったんだ」 チャックは、「よし、わかった。じゃぁその死んだ馬をとにかくくれ」 農夫は不思議に思って尋ねました。 「それはかまわないが、死んだ馬をどうするのかね?」 チャックは言いました。 「その馬をくじの賞品にするんだよ」 農夫は「死んだ馬は賞品にはできないだろう」と言いましたが、 チャックは「いやできるさ、誰にも馬が死んでるとは言わないでくれよ」と言いました。 1ヶ月経って、農夫はチャックと会ったときに尋ねました。 「あの死んだ馬はどうなったかね?」 チャックは答えました。 「もちろん賞品にして、くじを1枚2ドルで売り、全部で500枚売れて、純利益は898ドルにもなったよ」 農夫は「クレームは出なかったのかい?」と尋ねました。 チャックは、「当たった男からだけクレームがきたが、彼には2ドル返したさ」 その後チャックは成長し、政治家になりましたとさ。”
— らばQ:死んだ馬を買って大儲けした男の話 (via jun69) (via konishiroku) (via do-nothing) (via proto-jp) (via nowri)
国道を地図からトレースして、番号順にアニメ化してみた。 二桁国道(〜58号)まで。
【6/26追記】13号線と47号線が入れ替わっていたのを修正