『別府』(著・芹沢高志)を読む
—別府と大分の市境に位置する高崎山が、立てた女の右膝に見え、私は靄に包まれた別府港の柔らかな内奥に向かってまっすぐに進んでいった。—(抜粋引用)
本をひらくと、大阪南港からフェリーで別府に向かうシーンからストーリーは始まる。てっきり別府を舞台にした芸術祭、「混浴温泉世界」のディレクターである著者の奮闘記か記録集か、「芸術祭とは何か」といった批評本かと思って読み始めたので、紀行文のような導入に思わぬ肩透かしを食らいながらも愉快な気分になる。というのは年末に片道7時間の船旅をしたので。
本書ではディレクターとしての考えやアーティストとのやりとりも語られてはいるのだが、実存するのかしないのか、読み手にとって存在が曖昧な人物との会話があったり(もしかしたらいるのかな)、小説というか、むしろ幻想文学を読んでいる気分になる本だ。別府での忘れ難い人々との邂逅、偶然と必然のダンス、映画のような白日夢など関心の赴くままに筆は進んでゆき、読み手は摩訶不思議な『別府』という本の異界ににゅるりと吸い込まれる。
印象深いシーンはいくつもあるが、なかでも亡き祖父母との思い出が切なくも美しく綴られている。「日本橋に行きたいからついて来て」と著者が祖母とふたり出かけた場面がある。真上に首都高速道路が走る日本橋を黙って見ていた着物姿の祖母の背後から感じた深い哀しみ。
—「人の心と風景は相互に作用しあって深く結びつき、切っても切れず、一体となっている場合もある。あるときは風景を傷つけることが、誰かの心を傷つけることになることを、私たちは覚えておく必要があるだろう。— (抜粋引用)
そして、冥府へ旅立つ間際に祖父の身体から吹き上げる輝く光の粉を見た場面はとても幻惑的な記憶として語られている。
読み進む途中、いろいろな匂いを感じることもあった。鉄輪温泉の湯煙、ウスギモクセイの花、薬草、2本目のワイン、雨、硫黄 …。同じ体験をしているかの如く自分の嗅覚が文章と同期する。
ときおり文中で引用される著名な科学者や哲学者などの言葉が象徴的で、『別府』ワールドを補完しているのだが、読後に繰り返し思い出すのはなぜかこの一文なのだ。
—「去っていくバスと女は追いかけるな」映画『春の日は過ぎてゆく』のなかでの祖母の忠告。(抜粋引用)
「出港した船と逃げた男は戻ってこない」(sabopon)
夢と現実の境目が白い湯気に呑み込まれ判然としない『別府』の世界に、心ゆくまでさまようのが、湯に浸かる快感に匹敵するほど心地よい。
https://www.abip3publishing.org
『別府』芹沢高志 著 デザイン:尾中俊介(Calamari Inc.) 表紙写真:草本利枝 1,600円+税 2020年11月20日 発行














