銀の栞、2作目完成。
ジョルジュ・ローデンバックの詩集「白い青春」をテーマに作りました。
5つの章「幼い日のこと」「初恋」「田舎の夕暮」「辛い日々」「藝術の憂鬱」を仏語で彫りました。

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@suzu1arbre
銀の栞、2作目完成。
ジョルジュ・ローデンバックの詩集「白い青春」をテーマに作りました。
5つの章「幼い日のこと」「初恋」「田舎の夕暮」「辛い日々」「藝術の憂鬱」を仏語で彫りました。
3作目の銀の栞、完成しました。
エミリ・ディキンスンの297番の詩をビュラン彫で刻みました。
石倉和香子さん訳の詩集と共に撮影。
a slice of wong kar-wai’s world
《三島由紀夫と音楽》
『小説家の休暇』の日記にて、三島由紀夫は音楽が理解できないどころか、恐怖をおぼえるものだと述べている。 ここでの音楽とは鑑賞的態度を聴き手に要求するものであり、主にクラシック音楽をさすものと思われる。「レコードの一枚も蓄音機の一台も持たない」三島は「音楽会へ行っても音楽を享受すること」ができず「意味内容のないことの不安に耐えられない」のだという。三島は「音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで戯れているもの」として、音楽に興ずる人々を「怖ろしい戯れを生活の愉楽」にする「豪胆さに驚かずにはいられない」のだという。そして音楽を敵視し、「こんな危険なものは、生活に接触させてはならないのだ」とまで断言する。 皮肉にも三島は、音楽を嫌悪したからこそ、その理由として「音楽」の本質を理路整然と的確にとらえることができた。それには驚くほかない。「音という形のないものを厳格な規律のもとに統制したもの」が音楽であるといい、幽霊のような音を制圧し暗黒と格闘したのが作曲家であると指摘しているように。 音楽を愉しむことのできない三島は、一説によると自分には無意識はないと言っていたそうである。(実際に無意識のない状態など狂気の沙汰だが、あくまでも野放図で不明瞭な無意識を理知の力でもって制御したいという三島の願望から発せられたものかに思える。)さて音楽に対する恐怖が意味内容のないことへの不安であるとすれば、言葉で意識できない曖昧模糊として制御できない形のない闇である無意識への不安と相通ずる。音楽と無意識は言葉を介さぬところで密接につながるものであり、何かしらの相関関係にあるように思える。潜在的に作用し「理智と官能との渾然たる境地」へと導く音楽というものは、おそらく三島にとって茫漠として意味のない「音」のつらなりとして無意識のごとく怖ろしく思え、だからこそ三島は無意識に作用し理性を惑わすものとして音楽を敵視したのではなかろうか。三島の無意識を分析したい衝動を禁じえない。とすると、三島が怖れているのは音楽そのものではなく無意識の力に敗北する精神とその世界ではなかろうか。 では、言葉のほうは人間が意識的に自在に操れる理性の産物と過信してよいものだろうか。音ではなく言葉を駆使する作家三島は、その言葉が恣意的な記号の体系であることを理論を介さずとも知悉していたであろう。 「ことば」とは哺乳類の一種たる赤児が言語の体系へと参入することで、ヒトとなるわけだが、これを適確に扱うのは困難である。むしろ言語の体系に操られている部分も少なくなかろう。しかし作家となるとこの厄介な「ことば」を明晰な頭脳と知性によりペンを用いて魅惑的な作品を創造することができる。仮にこれを「ことば」を制した作家の勝利としよう。だが読者にとってその作品が不明瞭で心乱し恐怖させるものがないといいきれようか。三島にとっての音楽同様に。 形なき音の暗黒と対峙した作曲家とその受け手たる聴衆を、三島は以下のようにとらえている。 「作曲家の精神が、もし(音という形のないものに)敗北していると仮定する。その瞬間に音楽は有毒な怖ろしいものになり、毒ガスのような致死の効果をもたらす。音はあふれ出し、聴衆の精神を、形のない闇で、十重二十重にかこんでしまう。聴衆は自らそれと知らずに、深淵につきおとされる。…」 仮に「作曲家」を「作家」、「音楽」を「文学」、「音」を「言葉」、「聴衆」を「読者」と言い換えてみてはどうだろう。いずれにしても「致死の効果」とは大袈裟すぎるが、作曲家にしても作家にしても、享受者がその創造者の精神の力を無条件に賛美し信頼し、その作品に耽溺するのは危険かもしれない。 しかしながら常に言葉で思考する作家にとって茫漠たる深淵のまえで、よるべなき不安を覚えるのは理解できなくもない。作家も言葉の迷宮で、無意識を制するがごとき困難さ同様、把握しきれない脳の機能たる想像力を駆使しそれを言語化し、捻出して作品を生むのだろうから。 「音楽に対する私の要請は、官能的な豚に私をしてくれ、ということに尽きる」と三島は言う。丸山明宏のシャンソンを好んだ三島は、純粋にそれを音楽として愉しむというよりも、歌詞と丸山独自の劇的な表現をのほうに惹かれていたのであろう。 だが例えば数字に強い子供は暗算する際、頭の中にそろばんが浮かぶように、絶対音感のようなものを有し音楽的才能に長け、耳の肥えた人間には、譜面のような音の連なりが明瞭な形をなして聴こえるのかもしれない。 この三島の日記は若くから秀でた文才ゆえに、音楽にはつんぼだったかのような運命の皮肉と多くの示唆に富むものである。
Meiko Kaji Double Feature!
「ストリートランボー」
快晴のある日外に出かけ、ウインドーショッピングをしながら散歩する。この街は東京でも閑静でいながら最先端のアートだらけで刺激的だ。雑貨屋やカフェ巡りをするのもよく、思いがけず好みの店を見つけたときの感動は、迷い猫にマタタビのごとき興奮をおぼえる。 流行最先端のものがひしめくなか、偶然骨董アンティークの蚤の市が開かれているところに出くわす。オールドアメリカンの犬の形をした爪切りや、イギリスのヴィクトリア朝の使用済みカードやシール、アクセサリー…といったものが並ぶ。中でもヨーロッパの一世紀も昔のレースの付け襟はそれを使用した人や作った人へと想像力をかきたてられる。ボヴァリー夫人のエンマのごとく、それをつけている美しい貴婦人もしくは少女を思い浮かべたり、レース職人の母と同じく綴ったセリーヌのごとき作り手の丹念さに感嘆したりする。古物の来歴の物語を想像するのが好きなのだ。そして店主にこれは何かと尋ねると、気さくに誇らしげに商品の魅力をいきいきと語りだし、私もつい商品のことをあれこれ話してしまう。さて、とびきり奇妙な目をぱちくりさせて寝起きする赤ん坊の人形を置く店主は露天商のランボーだった。フランスの古い本やカードに紛れたランボーの写真を売り物かと尋ねたことより会話は始まった。彼=Rの趣味で勝手にパソコンで作ったもので、売り物ではないという。 私「詩の好きな友人へプレゼントにでもと思ったのですが残念です」 R「ランボーの好んだアブサンを飲むグラスならありますが…」 私「アブサンはさすがに飲めないでしょうけど素敵なグラスですね。ランボーのカードなら欲しいのに…」 R「なるほどね。詩について詳しくはないですが、ランボーが好きで飾ってるだけですよ」 私「ランボーがお好きならゴダールの『気狂いピエロ』は観ましたか?」 R「だいぶ昔に観ただけですが…」 私「あれに『地獄の季節』の最後の永遠の「見つかった?何が…」が使われてます」 R「ああそれは気付かなかった!僕は『太陽と月に背いて』の映画からなんとなくランボーが好きになったんです」 私「その映画意外とよくできていて「谷間に眠る者」の引用なんかありますよね」 店主の気さくさに触れ、ふと気付くと私がランボーやフランス詩のことを語り、むこうも興味津々といった様子で、自分の持っている日本で最も古いランボー詩集の翻訳の味わいについて語るではないか。正直かなり変な客だっただろう。でも一期一会の縁だから、活かさねばもったいないというのが私の考えだ。 店主のように趣味で詩を嗜む姿勢と、仕事で詩の勉強をする研究者の姿勢も、どちらも敬服はするものの、私は店主のような独学者が好きである。気付くとこんな本音を私は打ち明けていた。 「むこうの文学の翻訳に触れることでより日本語の表現の奥深さや繊細さに気付きましたよ」 これに店主Rも深く共感したらしく、また日本語の妙について語りだすので私も興じて語る始末。別の客の来店でお開きとなったが、こんな話が街中でできるとは思わなかった。出会いの恩寵に感謝する一日であった。 さて、ここでロマンティックに運命を感じてしまってはエンマそのものになりかねまいが、世の男女は不思議な邂逅によろめいてしまうものだろうか。私は自分の歩んできた道の確かさと、影響された無数の群像の出会いの神秘的合作ととらえる。
マーラーのアダージェットと映画「ベニスに死す」
私は多感な高校生のころ、ビデオで観たヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」を観て以来、その映像とマーラーの音楽とが分かちがたく結ばれてしまった。もちろんこの映画は今観ても傑作であるし、ミラノ貴族(スカラ座に出入りし、音楽と演劇の英才教育を受けた)ヴィスコンティ監督でしか表現できない圧倒的な映像美にうちのめされる。特に海辺のシーンはプルーストを愛読していた監督ならではの、花咲く乙女のいる貴族の優雅な余暇を想起させる。原作のトーマス・マンが美少年に魅せられた体験を、グスタフという名の作曲家に置き換えて(マーラーに近いアッシェンバッハという人物)、芸術により人工的に創造する美は、生まれながらに圧倒的な美を有する少年に凌駕されてしまうことの苦悶と悦楽を描いた作品である。これはマンとマーラーの二人の天才に挑んだ、ヴィスコンティ監督の独自の映画の美学に基づいた表現である。だが私はアダージェットを霞がかり水のたゆたうヴェネツィアの映像に重ね合わせてしまう。もっともこれは純粋にクラシックを楽しめない私には、ちょうどいいくらいである。
さて私は重厚な「ベニスに死す」を観た後、偶然父が借りていたケン・ラッセル監督の映画を母と一緒に気楽に眺めていた。すると母は「マーラーじゃないの」と言うではないか。ケン・ラッセル監督の「マーラー」はシュールな映像にマーラーの史実と作品を重ね合わせたミュージッククリップといった感じだった。 こうして私は何の因果かマーラーという作曲家自体も好むようになった。苦悩のなかの浄福、蔦の絡まるような自然、19世紀末のアール・ヌーヴォーの退廃美を感じる。
「ベニスに死す」の見所 Ⅰ娘と妻の写真に口づけしてから、ロビーで美しいポーランド貴族のタジオ少年に出会うシーン Ⅱタジオ少年とすれ違い一人コンドラに乗るアッシェンバッハ(心なしか楽しげな様子) Ⅲポールをつたいながら回って歩く少年 Ⅳエリーゼのためにを弾く少年から娼婦との回想シーン Ⅴ一言も言葉を交わしていなかったアッシェンバッハが唯一少年と触れるところ(疫病に冒されるので立ち去るよう進言) Ⅵ回想で娘の棺が運ばれるシーンから、床屋で死に化粧のようにめかしこむアッシェンバッハ、ベニスの運河にたたずむとタジオ少年親子に出会う(初々しく恋するように密かに目で追い後をつけるアッシェンバッハ、自身の惨めさを滑稽に思い笑いだすアッシェンバッハ→過去の演奏会で罵声をあびる回想シーン)
Ⅶラスト(陽光に煌くタジオ少年を眺めながら、衰弱し脂汗によって、化粧がくずれ醜悪な姿で…)
ストーリーはその名のごとく「ベニスに死す」である。老いて衰弱した作曲家(アッシェンバッハ)がベニスを訪れ、その道中出会うポーランド貴族のタジオ少年に魅了される。二人の間には会話はなく、思わせぶりな少年の視線に翻弄される。まるで恋する乙女さながらのおっさん。映像はアッシェンバッハがベニスに滞在する様子とモノローグと過去の回想、デモーニッシュであるべきとする友人(モデルはシェーンベルク)の音楽家との芸術談義、海辺に佇み、ベニスの街を彷徨するアッシェンバッハと美少年一家が主である。アッシェンバッハは帰国しようとするが、船は出ておらず、水の都ヴェネツィアでアッシェンバッハは疫病に冒され死臭に淀む水にひたひたと死に囲繞されていく。 若さ/老い、美/醜、健康/病 、心地よいロビーの室内音楽と物乞いたちの愉快な演奏/芸術としての苦悩に満ちた音楽の創造…様々な二項対立は少年と老作曲家の二人の隔たりを象徴するかのようである。会話の少ない中で、老作曲家のモノローグと表情がより雄弁であり、アダージェットの使い方の巧みさに驚かされる。
ケン・ラッセル監督「マーラー」アダージェットの引用 ポールをつたいながら回って歩く少年 ↓ https://www.youtube.com/watch?v=tenrikJwXSw
さて映画監督でもある作家デュラスは「映画のなかでほど音楽が虐げられたことはない」と言っていたようだが、私はヴィスコンティ監督を良きマーラーの解釈者であると思う。
Lilian Harvey - Das Gibt's Nur Einmal
The treachery of images (This is not a pipe), 1948
Rene Magritte
La Trahison des Images
〈イメージの裏切り〉
「マグリットは言語記号と造形的な要素を結びつける。しかし同相性(イゾトピー)という前提条件を確保せずにである。彼は類似がそこに安らかに基礎を置いている肯定的な言説という基礎を巧みに回避する。そして彼は目盛りなしの量と平面のない空間の不安定さの中で、純粋な類似性と肯定されない言表とを戯れさせる。〈これはパイプではない〉が、いわば、その処方箋を与えている操作である」
ミシェル・フーコー『これはパイプではない』
Rare, behind-the-scenes footage of Björn on the set of Death in Venice with Luchino Visconti
Death in Venice
【パタフィジークについて:A propos de Pataphysique】 ボリス・ヴィアン:Boris Vian
個人的な例を挙げますと、私がパタフィジークになったのは8歳か9歳の頃、ロベール・ド・フレールと、ド・カイヤベの劇作品で「美しき冒険」を読んでいたときでした。これはパタフィジークでない人間にとっては最も見つけやすい最適のものなのです。中でも、ヴィクトル・ブーシェの口から出た言葉である次の説明を、この対談のとりあえずの結論として挙げたいのですが、これによってみんなが非常に簡単に、手っ取り早くパタフィジークと言うものを理解できるのではないかと思います。それはこうです。「私は他人が考えないであろうかと思われることを考えることを自発的に修得する。」
The Three Fiancees - Jan Toorop
1893
ヤン・トーロプはその「三人の花嫁」の象徴図において〈女〉という神秘的な謎の造型をおこなった。トーロプはそこでこの謎を、献身、諦念、肉欲の三つの基本能力に擬人化した。キリスト教と異教の象徴観念がひとつに結びついて世界的な謎絵となる。中央の無垢の人間の花嫁のまわりには、対照的な相称形をかたちづくりながら、尼僧の姿をしたキリストの花嫁(左手)と人間の生贄を渇望しているサタンの花嫁(右手)が集っている。幽霊のような、ほとんど肉体をもたずに浮遊しているものたちの合唱隊―あきらかにジャヴァ芸術の表象から生まれている―が荘厳な身振りで重要な寓意図を捧げもっている。全体の〈根底〉はキリストの茨の冠を思わせる茨の唐草模様でできている。人間の花嫁が薔薇にかこまれているのにたいして、天上の花嫁の付女(びと)は手に百合の花をもっており、サタンの花嫁は、胸の下に、手に捧げもたれた何百という水甕のひとつから血を注ぎ込まれている水盤を下げている。十字架にかけられたキリストの両手に釘で固定された大きな鐘が、幽霊じみたものの流れるような髪にその音色をまじえて直線的な編み模様となり、これが合唱隊の隊員たちの口からでる香気のように後景で高まっていく祈りと一体となって、画面全体をおおっている。......
ハンス・H・ホーフシュテッター著
種村季弘訳
『象徴主義と世紀末芸術』
Balcony — M.C. Escher
「紙の上に幾本かの線をひいて、これは家であるといってみたところで馬鹿馬鹿しいと考えたので、私はこの作品(バルコニー)を描いてみた。事実、われわれはどっしりした堅牢な建物とその上にふりそそぐ陽光によって感得される奥行きを、フィクションに過ぎぬとの印象を抱いているものだ。手にする紙は平らな面以外の何者でもない。自己に対するユーモアの感情にかられて、この平らな紙面の見事な統一を破ろうと、逆に筆を走らせるなら、たぶんそこにはいちじるしい誇張がひきおこせるだろう。とはいうものの、この結果も紙は永遠に平らなままであるという点では変わりはしない。結果はゼロだ。」
マウリッツ・コルネリス・エッシャー
Dante Gabriel Rossetti
“Venus Verticordia” ,1868
〈魔性のヴィーナス〉 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
訳 河村錠一郎
ヴィーナスは林檎を差し出そうとして、
心のどこかで、ためらっている。
考えているのだ、男の心のなかにじっと
眼を据えて。恐らく、こう思っているのだ、
「まあ、いまの彼は平静だわ―でも、
可哀そうに!林檎を口にしたら、その甘い
味も一瞬で、たちまち矢が心臓に突き刺さり、
永遠にさまよい続けることになるのだわ」。
ヴィーナスの眼差しは、ほんのしばらく、穏やかで
はみかみがち―だが、魔性の実を与えるやたちまち
炎と化す―フリギアの少年を見たときのように。
と、ヴィーナスの鳥が張り詰めた音色で悲哀を予告し
遥かなヴィーナスの海が貝の呻きを上げる。
そして、女神の黒い森をトロイの閃光が貫く。
“Prosperine”
Dante Gabriel Rossetti, 1874
〈プロセルピナ〉 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
訳 河村錠一郎
この壁に冷えた慰めを投げかける光は
彼方からくる―私の宮殿の扉に射すのは
ほんの一瞬だけ―ほんの一瞬、それだけ。
エンナの花の野も彼方―ここには、恐ろしく
忌まわしい実があるだけ―一日味わえば永遠に囚われの身。
あの空も遥かに遠い―私を凍えさせる
この灰色の冥府から。そして、これから続く夜は、
かつての昼の世界から、遥かに、遥かに遠いものだろう。
いまの私は、私ではない―かつての私は遠い。そして私は
心の中で、この見知らぬ世界を駆け回る―一つの兆しも
聞き落とすまいと。常に、心は誰かを恋い求めている―
その人の声に私の内なる耳が絶えず聞き耳を立てているのだ―
「可哀そうに、あわれなプロセルピナ!」
*詩「プロセルピナ」と絵「プロセルピナ」*
ローマ神話でいうプロセルピナ(ギリシャ神話ではペルセポネ)はシチリアのエンナの野で花を摘んでいるときに冥界の王プルトンにさらわれ、花嫁にされた。彼女の母セレスのゼウスへの嘆願によって1年のうちの半分、春と夏だけ地上に帰れることになったが、禁じられた実ザクロを食し、永遠に冥界に閉じ込められることになった。ロセッティが愛するモリス夫人ジェーンをプロセルピナに喩えていることは明らかだ。ジェーンを最も美しく描いた作品として有名。
Dante Gabriel Rossetti “Lady Lilith”, 1868
〈レディ・リリス(肉体の美) 〉 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 訳 河村錠一郎
人は語る、アダムの最初の妻リリス
(イヴを贈られる前にアダムが愛した魔女)
その甘い口先が蛇よりも前に彼をだまし、
彼女の魔力をもった髪が此の世の最初の黄金だったと。
地球は年老いたが、彼女はいぜんとして若い。
うっとりと自分に見とれ
織りなす輝かしい蜘蛛の巣に男を引きつけ
心も身体も生命も虜にしてしまう。
薔薇と芥子がリリスの花
芳香を放ち、そっと口づけし、しっとりと添え寝して
罠にかけんとする男は見つかったのか、
見よ!あの若者の眼はリリスの眼に燃え立ち
リリスの魔法が彼を貫き、その真っ直な首をたわめ、
その心を一本の黄金の髪で縛り首にする。
Gala Mitchell as Jane Morris in Dante’s Inferno (1967); dir. Ken Russell