「おとな哲学」
開催日時: 2026年4月24日(金)
企画・場所: 茅スタジオ
ファシリテータ: 割田美由紀
この問いに、すぐ答えられる人は意外と少ないかもしれません。
「皮膚までが私?」
「過去の積み重ねが私?」
「環境が違えば、別の私になっていた?」
「そもそも、本当に『私』なんてあるの?」
ひとつの問いから始まった対話は、そもそも、「私」というのはあるのか・ないのか、という、より根源的な問いへ向かっていきました。
以下は、その日の対話をほぼそのまま書き起こした採録です。
ひさしぶりの熱血レポート、とっても面白いのでぜひ読んでみてください。
A「自分がどこまで、この部分が私で、この部分は取り繕ってるよねっていうのを、みんなはどこかで線引きしてるのかなって思うんですけど。そのラインによって、変な話、責任の所在地みたいなものが決まってくるなと思ってて。
自分としては、自分の行動だし、自分が選択した結果だけど、『でもこれって俺のせいなのか』みたいなことがたまにあるんですよ。でも、『これは確実に自分が悪かったな』とか。その辺を結構考えてると出てきたっていうか。
どの部分までラインを引くかっていう。全部自分の範囲にしちゃうと、生きていけないっていうか、辛すぎる。人生は。
だから、そういう線引きはあるかなって僕は思いました。」
A「理想的には、自分の範囲をもっと広げたいなって思うけど、草木とか宇宙とか含めて自分だって言いたい気持ちはあるんだけど、でもやっぱりどうしてもこの皮膚のラインがすごく出ちゃう。だから皮膚のライン。
すごくそこはどうしても意識に入っちゃうから、そこになっちゃう時が多いなって思います。」
A「私は結構、このタイトルを見た時に何も浮かばなかったのはなんでなんだろうと思った時に、”私”が何なのかがちょっとよくわかってないんです。いまだに私、本当にわかんなくて。『本当の自分』みたいな言葉だったりとか、『居心地がいいな』みたいな感覚はあって、感覚でしかなくて。私っていうのが、心地いいか心地よくないかみたいな、赤ちゃんみたいな感じなんですけど。だから私ってなんだろう、なんだろうってずっと思って。みんなが言ってる『私』は何なんだろうとか、自分が思ってる『私』って何なんだろうとか。だから結構、快・不快でしかないんですよね。」
Q「その時の『範囲』というのは、どのくらいなんですか?」
A「ふわふわなので、範囲っていうのはどういう……。」
A「私は皮膚だって思ったけど、その大きさというかさ。どのぐらいの範囲を感じるの。
その快・不快を感じるのって、線というかさ、あるのかな。」
A「なんか線がある感覚もなくて。正直、線がある感覚がないんですよ。
だから辛いのかなって思ってる節はあるんですけど。
この前テレビを見てて、生命の定義みたいなところで、自他境界があるっていう話が出てきて。
生命的には、肉体的にはもちろん境界があるんだけど、心の自他境界は本当にあやふやなんじゃないかなって思ってるところがあるっていうか。
他人も分からなければ、自分も分からないみたいな感じがあって。
哲学対話とかめちゃめちゃ参加してきたのに、参加すれば参加するほど分からなくて。
私は普遍的な共通してることがある程度あるって信じてるタイプなので。信じてたタイプっていうか、信じたいのかな。
どれだけ違っても、性善説じゃないんですけど、ちょっと信じたいので。
あんまり分からない。自分のことも分かんなければ、他人のこともよく分からない。
違いとかも、言葉にして一個一個挙げてったらすごいのかもしれないけど、環境が違えばそういうものかなって。
よく分かんないですけど、そんな感じです。」
Q「それは例えば、10メートル先も自分だと感じることがありますか?」
A「そもそも『自分』って思ってる感覚がないっていう感じだな。
みんなが何をそんなに『自分』って言ってるのかがよく分かんないんですよ。
当面のものは結構あるんです。気持ち。その、気持ち的には。
『自分ってなんだろう』って考える作業は、ずっと哲学対話とかをしていく中でしてきたけど、結局何なのか分かんない、みたいな感覚です。」
A「『自分の価値観に気づく』とか、『自分がこういう人間だっていうのをノートに書くと分かってくるよ』みたいなことを言ってるアーティストがいたりしたので、やろうとするんですけど。
それって他人と比べた相対的なものでしかないなって思っちゃうと、もうなんか筆が取れないというか。
何をもってその感情を抱いてるのって思っちゃうっていうか。
変わるし、どうせ、って思っちゃうと。
私は『定義する意味ってあるのかな』って、結構ずっと思っちゃう。」
A「人といて、『この人と違うな』とかはあるんですけど、それが唯一無二の自分だとは思わない。
例えば、嫌なことをされたなって思っても、大体ほかの人も嫌だと思ってるから、別に私が嫌だっていうことじゃないんじゃないかなって。
普遍的に結構嫌なことなんじゃないかなって。」
A「例えば、人と意見が違う瞬間とか、対立まではいかないけど、ちょっと違いを感じる瞬間はあるじゃないですか。
そういう時に、『うっ』って思ったりとか。
逆に、『いや、私の意見の方が今回は正しいよね』っていうふうに、綱引きみたいなことは普段はあんまりしない。」
A「めちゃめちゃしてたんですけど、ある時期まで。
でも疲れちゃって、綱を引かなくなりました。
その場で綱は引かなくなってる、最近。」
Q:「〇〇さんは、『私はどこまで私なのか』という以前に、『そもそも私とは何なのか』ということを考えているように聞こえました。『私とは何か』について考えたことがある方はいらっしゃいますか。」
A「じゃあ、私。『私とは』って結構、思春期とかに考えるじゃないですか。中学生ぐらいの時って、『一体何なんだ』みたいに悶々として。結局、その延長線上にずっとある気もするんですけど。『本当の自分を出していきたい』とか思ってた時期もあるし、『今の俺は本当の俺じゃない』とか。例えば、学校に行ってる時の俺は違う俺で、家に帰って好きなことをしてる俺が本当の俺なんだ、とか。そういうことをいろいろ考えるじゃないですか。その中でいろいろ思ってきたんですけど。」
A「フロイトが、自我と超自我とイド、みたいな話をしていますよね。
自分というものを考える時に、自我が『私』とされていて、その上に監督するような超自我があって、欲求としてイドがある。
そういう考え方もあるじゃないですか。」
A「フロイトが、自我と超自我とイドという考え方をしていますよね。
自我が『私』とされていて、その上に監督するような超自我があって、欲求としてイドがある。
その欲求とか、上から自分を監督されている状態とか、そのせめぎ合いの中で折衷案を出してくるところが自我だと思ってるんですけど。この欲求の部分まで自分に含めちゃうと、しんどいなっていうのは最近考えてて。どう言ったら分かりやすいかいろいろ考えたんですけど。」
A「例えばダイエットをするってなった時に。
ダイエットしたいっていうのは、自我としてあるわけじゃないですか。
でもどこかで、『ダイエットしなくちゃいけない』っていう命令があるわけですよね。
世間的に良しとされてる細さとか。
『こういう体型じゃなきゃいけない』みたいな考えは、超自我に入るなと思ってて。
でも、『今日は疲れたし、ご飯めっちゃ食べたい』とか、『関係ない、何でも食べたい』っていうのがイドとしてあるじゃないですか。このせめぎ合いまで全部自分にしちゃうと、しんどいというか。
自分が目指してる体型はこのくらいなんだよな、って思っているのが本来の自分なのに、『痩せなきゃいけない』とか、『めちゃくちゃ食べたい』とか、そこまで自分として捉えてたなって思ってて。
それで結構、精神的にしんどかった面はあるので。
やっぱり線引きなんだなって。僕は結構、自分がある方なのかもしれないですね。」
A「そう考えると分かる。言いたいことは分かる。
ただ、(ホワイトボードに)どう書けばいいんだろうって思ってて。」
A「欲求まで、自分本来の自分として捉えちゃうとしんどい。」
A「超自我もそうですし、イドも、もう俺はちょっと自分のものじゃない感覚があります。
俺が別に求めてるものじゃない。
『これが欲しい』とか、『ああなりたい、こうなりたい』とか、本当はそこまで求めてない。
なのに求める欲求が出てくる。でも、これ俺のじゃない。
食欲も、最低限の食欲はありますけど、例えばそんなにお腹空いてないのに甘いもの食べたいなとか、間食したいなとか。それは俺の求めてるものじゃないから。俺の預かり知れないもの。『知らねえよ』って思うんですよね。
でも欲求として湧いてきちゃってるから、『これ俺のじゃないよ』っていう。
難しいな。なんて言ったらいいんですかね。」
A「自我の範囲をちゃんと掴んでおく。それが私、なんです。俺はね。」
Q「『そもそも私とは何か』ということで言えば、そこが〇〇さんの答えなんですね。」
A「私もある。私の定義は、”私”はただ過去の集積。それ一点です。
それ以外、何もないです。元からあるとは思ってないタイプです。」
A「元とかゼロって思ってるタイプですよね。
ただ過去の集積でしかないと思っているタイプ。」
A「シチュエーションとか、置かれた環境で結構変わってしまうのを感じるので。
福岡伸一さんの『動的平衡』っていう考え方がすごいしっくりきたんです。
霧みたいな感じ。霧なんだけど、その霧がちょっとだけ濃い部分が私、みたいな感じで。
遠くから見ると霧にしか見えない。だから、他と同じっていう感覚はすごくあります。
置かれたところですごい変わるんだろうなって思います。」
Q「ここまで聞いていると、みなさん境目は曖昧なんですね。」
A「でも、皮膚のラインは自分だと思いやすいなとは思います。」
A「そうなんだ。でも、これを聞いてると、みんな境界は一応曖昧なんだなって思うんですけど。」
A「『分人』ってあるじゃないですか。
場面によって自分がどんどん変わっていくっていう考え方。
そうやって変化していくものでもありますよね。」
Q「『私とは何か』という話を少しためておくとして、ほかにはありますか。」
A「でも、性質みたいなものはある感じがする。癖みたいな。捉え方の癖とか、感じ方の癖とか。フィルターみたいな感じ。癖というより、フィルターかな。フィルターはある感じがする。」
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Q「なるほど。
曖昧ではあるけれど、『私』をそういうふうに捉えているということですね。
では、『私はシチュエーションによって変わる』ということですか。」
A「『濃度』みたいなのは確かにある。
私の濃度。
自分の濃度が濃い場面と、薄い場面は、グラデーションであるような気はします。
こういう場だと、自分濃度は結構濃くなるじゃないですか。
でも会社とか仕事にいる時は、自分濃度が結構薄い。
たまに濃い人もいますけど。
でも、それもこっちから見て濃いと思ってるだけで、その人からしたら、『別に自分濃度を濃くしてるつもりないんだけど』っていうこともあるかもしれないし。
そこは分からないですけど。
でも、モードみたいなものはある気がしますね。」
Q「ちなみに、この曖昧さの中で、自分の濃度は濃い方がいいと思いますか。」
A「良いとか悪いとかじゃないんですけど。
そもそも『私』って、どこまで私なのか。
形作られていて、形がはっきりしている方がいいと思いますか。
私は年を取ってきて、前は私の形が強い方がいいと思ってたんですけど。
自分の形に飽きたっていうか。
どんどん形がないところに行きたいと思っている。
形が分かりやすいところにいるのが、結構飽きたっていうか、つまんない。
『またこの形か』ってなるので。
私はどこまで私かって言った時に、私の形がちょっとうっすら見えてきて。
その私をどっちかというと濃くするよりも、私がバキバキに砕け散るようなところに、たまに行く方が楽しい。
ずっとそこにいるのは大変だけど、楽しいと思います。」
A「ちょっと話ずれちゃうんですけど。
私、最近『無』でいられることが一番の喜びなんじゃないかなって思うんです。
作業とか集中してる時とか、誰かといる時でも、余計なことを考えなくていい時とか。
無でいられる時が、割と私だなって思う。
『私だ』っていう感情もないんですけど。
でも、それが一番楽なんですよね。
あと、さっき〇〇さんが『昔はそう思ってたけど、今はそんなに思ってない』って話をしていて。
私もすごくそうだな、自分もそうだったなって思って。」
Q「ここまでのお話を聞いていると、『私』があるかないか、というところにも話がつながってきそうですね。」
A「他人の方が私をよく知ってるなって思うことが多いんですよ。
私は自分の闇ばっかり見つめる癖があるなって自覚した時があって。
嫌なところばっかり見つめちゃう。
でも、それって周りから見たら、もちろん内側の感情と外側から見えるものは違うにしても、人と関わる時の自分も、自分が気づいてないだけで外から見えている。
だったら、それも私ってしたい。
私が強すぎてうまくいかなかったこともあったなって今は思うし、でもかといって、私はもうちょっとあった方がいいなって思う時もある。でも、それが難しい環境もあるなと思いつつ。」
A「今の環境では、生きていけちゃってるから。
主体性みたいなものがすごく求められる時代なのは分かるんだけど、ちょっと辛いっす、って思うかも。」
A「私は、『私はない』って思ってるタイプなんです。
すごい一時期考えた結果、結論としては『私はない』。
でも、みんな、そもそも『私』ってあるんですか。」
A「でも、『私』があった方がいいとされてますよね。
『お前、自分ねえな』って、めっちゃ悪口じゃないですか。
自分探しっていう言葉もあるし、自分探しの旅とかも昔から言われる。
だから、『私』ってあった方がいいものなんでしょうね。
なんでなのかは分からないですけど。」
Q「では逆に、『私』はあった方がいいと思いますか。」
A「私は、ない方がいいと思ってるタイプです。
『私』とかあっても、ろくなことがないと思っているので。
『私』があるから余計なことをいろいろ思うというか。」
A「教育では、すごくそう言われますよね。
学校教育とかで、『個性を伸ばそう』とか、『あなたはどんな人?』とか。
九年間とか十二年間ぐらいの間、(学校で)ずっと言われ続ける。
今の教育の形としては、そうなるんだろうなって思います。」
A「私は、時と場によるかなって思ってます。
おしゃべりをする時は、ある程度、自分の感情を相手に伝えられると、相手も話しやすいから、『私』があった方が会話は続く。意見を述べなきゃいけない場でも、『私』はあった方がいいのかなって思います。
昔はすごく『私』に固執してたんですけど、環境が変わったからかな。
一人で生きていかなきゃいけないと思ってた時はそうだったんですけど、最近は近くにいる人に寄っていっちゃう。
近くにいる人が、あんまり『私』とか考えずに、仕事とか趣味とかに没頭して生きてるのを見てると。
そういう連続であった方が楽なんじゃないかって最近思うようになってきて。
だから私にとっては、快・不快が自分なんです。
没頭できることは人によって違うと思うんですけど。」
A「意見も結局、過去の集積だから。
その人が見てこなかったものは喋れない。
私はここ三年くらいで全然変わったし。
哲学対話に出始めた頃は、もう少し喋れてた時もあったけど、最近は全然喋れなくなっちゃって。
確かなことが、よく分からなくなってきてる。
それがいいことなのか悪いことなのかは分からないですけど。」
A「僕は今の話を聞いてて、『自分はあるな』って思いました。
今のお話も、心の底からそう思ってるんだろうなっていうのが伝わってきたし。
僕も昔は、自我が強いなって思ってたし、人にも言われてきたんです。
でも最近、『いや、そんなことないな』って思うようになって。
それっぽいことを、自分で言ってるだけなんじゃないかって。
本を読んだり、映画を見たりして、『いいな』と思ったことを、どんどん取り入れちゃうタイプなんです。
『それ間違ってるよね』とか、『おかしくない?』ってあんまり思わなくて。
人の意見とか価値観も、『いいな』と思ったら、すぐ自分の中にインストールできちゃう。
そういう意味では、自分は自分がないんじゃないかって最近思うんですよ。」
A「自分がないっていうよりは……。
なんて言うんだろう。
でも、結構ポンポンインストールできちゃうから。
最近また、『俺ってなんだろう』って立ち返ってきました。
中学生の時に考えてたことが、ぐるっと回って。
三十年生きてきたけど、現段階で俺って何なんだろうって。
結構タイムリーに立ち返ってきてる感じですね。」
A「フィルターみたいなものはあるなって思います。
でも、うまく言えないね。」
A「『私』がだいぶ薄い人っていう感じなのかな。
四十年くらい生きてきて、さっき言ってたインストールというか、経験値が増えてきたから。
昔は経験値が少なくて、ゼロか一かくらいしか判断材料がなかった。
だから境界がはっきりしていて、『私がある』って思ってただけなんじゃないかと思っていて。
年を取れば取るほど、自分の中の堆積物というか、判断材料が増えていく。
ゼロか一かじゃないものが増えていくから。
過去の集積が増すほど、境目がかなり曖昧になっていくのは普通なんじゃないかなと思います。」
A「年を取るって、そういうことなんじゃないかなって思ってるんだけど。」
A「世の中で『私』とされてるものって、多分、他人との違いなんだと思うんです。
さっきと同じことを言っちゃうんですけど、要はそういうことなのかなって今思って。
『普通って何?』みたいな話もあると思うんですけど。」
Q「みなさん、『私』が曖昧で、なんなら『私』がない、あるいは埋まっているようなお話が続いています。
逆に、『私』があった方がいいというのは、どういう場面なんでしょうか。」
A「私は、ぼんやりとあった方がいいなとは思ってます。」
A「私は、全部社会的なことで思います。
仕事とか、社会とつながる時だけ、『私』があった方がいい。
A「私の場合は仕事ですね。
絵とか写真で仕事をしてるから、『私』がある程度あった方がいい。」
A「『私事ですが』って前置きすることあるじゃないですか。
あれって全部プライベートなことであることを、一応『私』として区別してますよね。
社会的には、一般的に『仕事に私を持ち込まないでね』っていう共通認識がありますよね。」
A「そっちの方が効率がいいというか、社会が安定して回っていくには、歯車になることが推奨されてるじゃないですか。
一般的には。でも、そんなことないとも思うし。みんな結局、自分のやりたいことや、やりたくないことを仕事に持ち込んでる気がする。『あの人嫌いだから別の部署がいい』とか。結局みんなやるから。」
A「好みは、やっぱり『私』と言っていいんじゃないですか。好き嫌い。」
Q「今は、『私はどこまで私なのか』という問いから、『そもそも私とは何か』、『私はあった方がいいのか、ない方がいいのか』という話になっています。」
A「そしたら、だいぶ『私は薄い』という人が多いですね。」
A「考えれば考えるほど、薄くなっていくものだと思います。『私』って。」
A「私はもう、『ない』って設定した方が楽になるので、『ない』って設定します。」
Q「では、そこで100%『ない』ということですか。」
A「でも、自分で設定して消せるものでもない気がします。」
A「『ない』から、消えもしないんだよ。
だって、消えるってことは、あるってことだから。」
A「でも、多分『消せない』って思いがあるってことは、『あった方がいい』って思ってるんだと思う。
私もそっち派なんですよ。
消えた方が楽だなって思いつつ、『ある』ってことは。
私っていうか、それこそ過去の経験なんじゃないかと思ってて。
無条件で受け入れてもらってたのが良かったのかな。
小学校五、六年くらいまでは、あんまり考えなくても生きてこられた記憶があって。
その頃はすごく楽だった。
でも、大人になったってことなのかな。
周りが見えるようになって。
超プライベートな話なんですけど。」
A「自分と違う人たちと関わることとか、役割とか仕事とかになった時に。
私全開でいられる場って、そんなにない。
もちろん、それを仕事にしてる人もいるかもしれないけど、そうじゃない役割もいっぱいあるから。
『私』を出したり、込めたりすることがあるなと思ってて。」
A「大人の定義みたいなものを、本で読んだことがあって。
『ワン・オブ・ゼムとオンリー・ワンを両立できる人が大人だ』って書いてあったんです。
そんな高度なこと、みんなできるんだって思ったことがあって。
私はどっちかに寄っちゃうことが多い。
すごくオンリーワンの自分を出したい時もあるし、ワン・オブ・ゼムでずっといたい時もある。
難しいなって思いました。とりとめもないですね。」
Q「一応いいですか。
そもそも『私』って何者なんでしょうか。
みなさんが思っている『私』も、それぞれ違うのかもしれません。
○○さんがおっしゃった『私はないと思っている』というのは、どういう意味なんでしょうか。」
A「さっき言ったように、過去の集積だから。
これからも集積していくし、どんどん変わっていく。
だから『私』っていう決まったものはない、っていう意味。」
Q「え、『ない』ってどういうことなんだろう。
まだみんな、その『私がない』っていう意味を分かってない気がするので、もう少し聞きたいです。」
A「前に哲学対話で『私はない』って言った時に、いろいろ言われたんですけど、私は『そうなんだ』って思うだけなんですよ。
その代わり、いろんな意見がポンポン入ってきて、またシュッと出ていく。そんな感じ。」
Q「つまり、『私はこう思う』『私はこうだ』みたいなものは、別にないということですか。」
A「『私はこうです』っていうのは、自分が今までこういう経験をしてきて、こっちの方が生きやすかったな、っていうことみたいなもの。感情とはちょっと違う。」
Q「じゃあ、自分自身がこういう経験をしてきたからこう思う、というより、統計としての感覚なんですね。」
A「そう。しかも、その統計に影響するのって、自分の内側よりも社会とか天候とかの方が大きいと思う。私は天候の影響ってすごく大きいと思ってて。国によって『ラテンの人は明るい』とか、『ロシアの人は我慢強い』とか言うじゃないですか。性格も天候の影響をすごく受けてると思う。そういうものを細かく分析していくと、結局、天気とか時代とか、そういう集積に過ぎないんじゃないかなって。自分の中に秘めた種みたいなものは、全然持ってないと思ってる。」
Q「なるほど。
それが○○さんの言う『私はない』という意味なんですね。
そうすると、みなさんが言っている『私はあった方がいい』というのとは、違う意味なのかもしれませんね。」
A「でも、本当にこれは俺の考えなんですけど、
やっぱり『私』ってある気がしますね。」
A「(正反対の意見が出たことに対して)素晴らしいね。」
Q「では一回、その前提で聞いてみます。
『アイデンティティ』って言いますよね。
『これがあるから自分だ』『これがなくなったら自分じゃない』というもの。みなさん、そういうものはありますか。」
A「いっぱいありました。
でも全部崩れたりした結果、それも面白いなって思うようになって。
だからやっぱりフィルターなんだと思う。
『自分はこれだ』って思ってたものも全部崩れたけど、それでも生きてるし、いろんな影響を受けながら生きてる。
でも、最後に残る癖みたいなものはあるなと思ってる。」
A「私を定義するとしたら、それかな。フィルターみたいなもの。」
A「でも結構変わるから。
学校で言われる『個性がある』『私がある』とは全然違う。
学校で言われるのって、変わらない固有のものがあるってことじゃないですか。でも『私』はもっとあやふやなものだと思ってる。
崩れたら崩れたで、その時に残る癖みたいなもの。
壊れると見えてくる感じ。だから『私がある』っていう話とは、ちょっと次元が違う気がする。」
Q「つまり、『私がある』ということではないんですね。」
A「ないに近い感覚。でも癖みたいなもの、性質みたいなものはある。」
Q「では、『私がある』というのは、変わらない何か確固たるものがある、という意味なんでしょうか。
それともう一つ。『これこそ自分のアイデンティティだ』『これがなくなったら自分じゃなくなる』というものがあれば聞いてみたいです。」
A「今日は『ない派』として話すのが楽しいな。
私は本当に『ない』と思ってる。
例えば仕事って、特殊なことをしてるから『個性がある』って思われがちだけど、それって身体的特徴とか時代とかが、たまたま合致してるだけ。私は個性を信じてないので。本当に、ない。」
A「なんでなんだろう。『ある』って思う人と同じくらい、私は『絶対ない』って思う。」
A「そうですね。僕は、自我の範囲を『ここまでは自分』って認識しておくことかなって思ってます。例えば、今ここを叩いて痛いって思ったとしても、それは俺じゃない。痛覚だから。
身体は俺のものだけど、それと俺はちょっと違う。」
A「そうかもしれません。この身体に生まれたのは自分が選んだわけじゃない。だから、この身体も、自分の預かり知らないもの。環境も教育も同じです。自分で選んだわけじゃない。だから、その結果として悲しかったり苦しかったりする時、『なんで自分が選んでないことで悲しまなきゃいけないんだろう』って思うことがあります。」
Q「まさに『私はどこまで私なのか』ということですね。
距離で言うと、どれくらいなんでしょうか。」
A「難しいですね。
でも、目の前の人が嫌な思いをしてると、自分も嫌な気持ちになることが多い。だから結構広い方かもしれない。
自他境界は淡いのかもしれません。」
A「人とも仲良くなりやすい方だし。
違う国で起きていることにも、結構心が動く。
だから、自分が想像できる範囲まで、なのかもしれない。」
A「いや、それはおこがましい気がする。そこまで私にしちゃうと危ない。」
A「でも、それって暴力性をはらんでると思うんです。
本当は相手はそんなに嫌だと思ってないかもしれない。
なのに、自分がそう感じたから相手もそうだと思ってしまう。
『分かり合える』っていう前提には、そういう危うさがあります。」
A「『自分がされて嫌なことは人にするな』ってありますよね。
でも、それって裏返すと、『自分がされて嬉しいことは人も嬉しい』になっちゃう。
だから危ない。」
A「力を持ってる人がそれをやると、ケアも暴力になる。
パターナリズムってありますよね。
相手のためを思ってやってることが、相手からすると断れなくなる。
だから、自他境界はある程度必要なんだと思います。」
A「でも、おせっかいも必要なんですよね。
境界を引きすぎると、全部自己責任になっちゃう。
だから、そのバランスがすごく難しい。」
Q「なるほど。
『私はどこまで私なのか』という問いに答えはありませんが、人によってその距離感が違う。
その違いによって、良いこともあれば難しさもある。
そして、おせっかいというのは、他者の領域に踏み込むことでもある。
そういうことも含めて、『私はどこまで私なのか』という問いなのかもしれませんね。」
Q「一度戻ってもいいですか。
さっきのアイデンティティの話なんですけど、『これがあるから自分です』と思えるものはありますか。」
A「やっぱり身体感覚かな。
皮膚とか五感とか。
五感が及ぶ範囲を『私』として設定してる。
アイデンティティがないと思ってるだけなので。」
Q「そもそもアイデンティティって、どういうものなんでしたっけ。」
A「『私とは』っていう話の『私』でいいんじゃない。」
A「私がそれを感じたのは若い時でした。
外国で生活した時に、『私は日本人なんだ』って客観的に感じたんです。
日本人としてのアイデンティティがあるんだなって。
日本にいたら絶対感じなかった。
すごく外から自分が見えた。」
A「それは、自分を世界の中の一人として客観的に見た感覚でした。
でも、それは若い頃の話で、今は同じようには感じない。
『自分ってこうなのかな、ああなのかな』っていう感覚も、今はあまりなくて。
○○さんと同じで、過去の集積だから『私はない』という感覚に近い。
だから何者にでもなり得るとも思うし、『これがあるから私』っていうものも特にない。」
A「でも、さっきふと思ったのが役者さんなんです。
役になりきるじゃないですか。
あれって自分なんですかね。
何者にでもなれるんじゃないかなって思って。」
A「普段でも、別に役者じゃなくてもできますよね。『今日はお母さんを演じる』とか。」
A「場所によっても違いますよね。
ここでは哲学対話をしてるけど、別の場所へ行けばまた違う自分になる。
別に『哲学を考えてます』なんて言わないし。
○○さんとは少し違うかもしれないけど、『へえ、そうなんだ』って聞いてる自分もいるし。
何者にでもなれるのかなって思ったり。
答えはないけど、そんなことを思いました。」
A「私は『自分はない』って設定なんだけど、じゃあ別の場所で全然違うキャラを演じられるかというと、できない。
本当にできない。」
A「だから、それは○○さんにしかできないことでしょ。私は、それが○○さんなんじゃないかなって思う。」
A「『ない』と『ある』って両立するのかな。
私はすごく『ない』って信じてるのに、同時に『ある』とも言えるのかな。」
A「他者の中に自分があるなら、成立するんじゃないですか。」
Q「『他者の中に自分がある』というのは、具体的にはどういうことですか。」
A「前に仲のいい人から『自分のこと分かってないよね』って言われたことがあって。
私はセルフイメージがすごく低い人間なんです。
でも、一回ワークをやったことがあるんです。
自分を好きでいてくれる人たちの中にいる自分を想像する、というワーク。
そうすると、友達と話してる時の自分を思い浮かべて、ちょっと自分のことを好きになれる感覚があった。」
A「だから、自分の中にある自分よりも、他人が見ている自分の方が、案外的確なのかもしれないって思う。」
A「中学生くらいの頃は、自分は周りと違うって思ってた。
その頃の方が『私がある』って思ってたんです。
でも、自己開示を続けていくと、『それ、みんなあるあるだよ』っていうことがたくさんあった。
SNSでも似たような人はいくらでもいる。
だから、オンリーワンの私というより、
他人から見える自分と、過去の経験と、身体と、環境との化学反応。
そういう集合体なんじゃないかって思うようになりました。」
A「そう考えると、『私』って自分で選択していいものなのかなって思ったんです。
『これが私だ』って、自分で決めていいのかなって。」
Q「だから、『私はない』って言っているんですね。」
A「でも、僕には『私はない』と思っている、その私があるように見えるんですよ。」
A「『私はない』って言ってる、その人がいるじゃないですか。」
A「『私はない』って言ってること自体が、その人らしさじゃないかって思う。」
A「だから、さっき自分で『濃度』って言いましたけど、その濃さの話なのかなと思います。
一旦『私』というものがあって、その上にいろんな服を着せ替えるように、場面ごとに選んでいる感覚です。」
A「だから、『私』は選択できるものであってほしい。
そう願っているのかもしれません。」
A「与えられているものって、自分ではどうにもできないものが多すぎる。
だから、『これが私なんだ』と定義するのは、自分自身でいいんじゃないかと思うんです。
自分で決めたい。」
Q「一度戻ってもいいですか。先ほどのアイデンティティの話に戻ります。『これがあるから自分だ』と思えるもの、つまりアイデンティティだと思えるものはありますか?」
A「身体感覚です。皮膚や五感が及ぶ範囲を、とりあえず私は『私』として設定しています。アイデンティティがあるというより、そこを私として区切っている感じです。」
A「『私とは何か』という話でいう『私』そのものなんじゃないでしょうか。」
A「私がそれを強く感じたのは若い頃、海外で暮らした時でした。その時初めて『私は日本人なんだ』というアイデンティティを外側から実感しました。日本にいたら気づかなかった感覚です。
ただ、その頃は『自分ってこういう人間なんだ』という感覚がありましたが、今はあまりありません。私も『過去の集積でしかない』という考えに近くて、『私』という固定したものはないように感じています。
だから何者にでもなり得ると思うし、『これがあるから私』というものもありません。
一方で、役者さんのことを考えることがあります。役になりきることがありますよね。あれは自分なのか、それとも役なのか。私たちも役者ではなくても、場面によって役割を演じることがあります。だから、人は何者にでもなれるのかもしれない、とも思います。場所によっても違います。今ここでは哲学対話をしている私ですが、別の場所ではまた違う私がいます。どちらも演じているわけではなく、その場に応じて自然にそうなっています。だから、人は何者にでもなれるのかもしれない。でも答えはまだありません。」
A「私は『私』はないと思っていますが、だからといって別のキャラクターを演じられるかというと、それはできません。結局いつも同じ自分になってしまいます。」
A「でも、その『演じられないこと』自体が、〇〇さんらしさなんじゃないでしょうか。」
A「なるほど。『私がない』と思っていることと、『私がある』ことは両立するんでしょうか。私はすごく強く『私はない』と信じているのに、それでも『ある』と言われるのが不思議です。」
A「他者の中に自分がある、ということなら両立するのかもしれません。」
Q「『他者の中に自分がある』というのは、どういうことですか。」
A「以前、親しい友人から『自分のことをあまり分かってないよね』と言われたことがあります。
私は自己評価が低い方なんですが、自分を好いてくれている人たちが見ている私を想像すると、自分を少し肯定的に見られることがあります。だから、自分の中にある『私』よりも、他人が見ている『私』の方が、本当の私をよく捉えているのではないかと思うことがあります。中学生の頃は、自分は周りと違うと思っていたので、『私』が強くあると思っていました。でも結婚して自己開示を続ける中で、『それ、みんなあるあるだよ』と言われることが増えて、SNSでも似たような人がたくさんいることを知りました。そう考えると、『オンリーワンの私』というより、他人から見える自分や、過去の経験、身体、環境との化学反応、その全部の集合体が私なのかなと思うようになりました。だから、『私』って自分で選べるものなのかな、と今は思っています。」
A「だから僕には、『私はない』と言っているその人自身が、もう一つの『私』として見えるんです。」
A「つまり、『私はない』と言っていること自体が、その人らしさなんですね。」
A「そう思ってしまいます。だから以前話した『濃度』の話につながるんですが、一旦『私』というものがあるとして、その上に場面ごとの服を着せ替えているような感覚です。だから私は、『私』は自分で選べるものであってほしいと思っています。与えられたものがあまりにも多すぎるからこそ、『ここが私だ』と決めるのは自分であってほしい。そう願っています。」
A「たとえ他人から違うと思われても、自分が『これが私だ』と思うなら、それでいいんじゃないでしょうか。それに、私は『私』がある方が面白いとも思うんです。」
A「その感覚もすごく分かります。『私がある』というのは、自分で自分を決めていいという自信なのかもしれません。
ただ私は、考えすぎたり、いろいろな経験をしすぎたりして、世界の前提そのものが何度も崩れてきました。環境も大きく変わってきたので、自分が何なのか分からなくなっている部分があります。
でも街で見かける人たちを見ていると、『これが自分だ』と決めて服を着たり表現したりしている人は、生き生きして見えます。
私は自信がない時ほど無難なものを選んでしまいます。だから表現が面白くなるのは、『私はこうだ』と思えている人なんじゃないかと思います。」
A「確かに、自分や他人を『こういう人だ』と決められる人は、話も面白いことが多いですね。
ただ私は、そこを突き詰めて考えすぎてしまうので、『本当にそうなのかな』と思ってしまいます。
でも、そうやって考え続けてしまうこと自体が、今の私のアイデンティティなのかもしれません。」
Q「今の話でいうと、自分が選んでいる服や食べ物、車なども、自分が選んでいるわけですよね。その選択は『私』なんでしょうか。それとも『私ではない』のでしょうか。」
A「過去の集積です。今まで見てきたものの積み重ねで『これがいい』と思って選んでいるだけです。だから今後また変わるかもしれません。」
A「なるほど。つまり、自分が元々そう思っていたわけではなく、経験の積み重ねによってそう感じるようになった、ということですね。」
A「私の美学のほとんどは、気候からできています。」
A「はい。天気や土地、空気、全部ひっくるめてです。虫や動物が環境で姿を変えるように、人間も肌の色だけでなく、中身も環境でできていると思っています。だから『中身だけ特別な何かがある』という感覚が、私にはありません。全部、環境と時代によってできていると思っています。」
A「それは本当にそうだと思います。僕も、ほとんどは環境によって形づくられていると思っています。だから突き詰めれば、『私なんてない』という結論になることも理解できます。でも、それでもどこかで『私はある』と思いたい自分がいます。99%は環境に左右されていても、残り1%くらいは自分で選べていると思いたい。その願いや祈りのようなものを、僕は『私』と呼んでいるんです。だから頭では『私なんてない』と理解していても、『あってほしい』と願うその気持ちを、私は自分自身だと思っています。」
A「そうです。『私はない』と分かっているけれど、『あると思っていたい』。その願い自体が私なんだと思います。」
A「まとまらないんですけど、さっき『物を選ぶ』という話が出たので思い出したことがあります。
河井寬次郎が『物を買うことは、自分を買ってくることだ』というようなことを言っていて、その言葉がすごく好きなんです。
もちろん、そうではない買い方もたくさんあるけれど、そのくらいの覚悟を持って物を選ぶということは、とても面白いなと思っています。ただ流行に流されて買うのではなく、『これは本当に素晴らしい』と思って選ぶ時は、自分自身を見つけたような感覚があります。だから私は、そういう買い方を大切にしたいと思っています。」
A「一方で、『自分がない』と感じる場面もあります。
例えば食券機のお店で、後ろに人が並ぶとすごく焦るんです。本当は食べたいものではなく、早く決めなきゃと思って適当に押してしまうことがあります。そういう時、『自分がないな』と思うんです。
人との会話でも、本当はそう思っていないのに相手に合わせてしまったり、口だけが動いているような感覚になることがあります。だから、自分がないからこそ、『自分はある』と思いたいのかもしれません。」
A「でも、そのエピソードを聞いていて思ったんですが、その時に選んでいるのも自分なんじゃないでしょうか。
食券機の話も、考え方を少し変えるだけで変わる気がします。
例えば、自分が先に並んでいるなら、その時間は自分に与えられている時間なんだと思えば、焦らず選べるかもしれません。
だから、自分がないという話とは少し違うのかな、と感じました。」
A「でも、それって自分勝手な人ほど焦らない、ということなんでしょうか。さっきの話を聞いていて、人のことまで考えてしまうから焦るのかなと思いました。共感する力が高いから起きることでもある気がします。だから、それは『自分がない』というより、優しさとも関係しているのかもしれません。本当に『自分がない』と言えるのかな、と私は思いました。」
A「つまり、決断が早かったり、自分の考えがはっきりしていたりする人が、『自分がある人』だというイメージがある、ということですよね。」
A「私は後ろに人がいてもあまり気になりません。イライラしている人がいても、『そうなんだ』くらいで、自分のペースで選びます。」
A「私は選ぶのが遅いので、最初から決めて行く時もありますが、お店に入ってからメニューを見て決めたい時もあります。
そういう時に後ろに人がいると焦ります。」
A「ありますよね。特に牛丼屋さんみたいな食券機だと、画面を切り替えたりして意外と複雑だったりします。」
Q「では、決断が早いことや、好みがはっきりしていることと、『自分がある』ということは、本当にイコールなんでしょうか。
私はそこは結びついていないような気がしています。」
A「今のお話は、みんなわかってるから。好みがはっきりしているとか、決断が早いイコール自分がある、っていうふうに見えるのはすごくわかるけど、そうじゃない、そこは結びついてないっていうのは確かに、って思う。」
A「私も結びついてないと思っています。
私が他の人に対して『自分がある』って思う時は、誰かのことを守れてる時に、すごい自分がある人だなって思うかも。自分も含めて。その人の発言とかで、『この人、めっちゃ自分ある、かっこいい』って思う時が過去に何度かあって。そういう時のことを思い出すと、その人が自分のことを守れている時は、あんまりそう思わなかったんです。自分の感覚では。
他人のことを守るような発言をした時に、『すごい、この人、自分あるな』って思ったことがあって。その場にいない人の悪口を言わない子がいたりとか、一緒に言わないって子がいたりとか。集団だからみんな言ってるけど、自分だけは言わないよ、とか。
誰かのことを守れてるなって思う子は、自分があるなって私は逆説的だけど思うかも。流されないというか、影響されないってことですね。でも、なんでかわかんないですけど、自分のことをすごい守ろうとしてる人は、あんまりそう思わないんですよ。実は逆説的かも。他人のことを守れる人のことを、私は『自分がある』ってすごく思うかな。かっこいいなって思う。」
A「逆かも。自分のことを守ろうとする動きが強い人の方が、自分があるように感じてしまうから。
もしかしたら俺は、自分のことしか考えてない人を『自分がある人』として捉えてるかもしれないですね。」
Q「自分のことを守ろうとしている行動って、どういう行動ですか?」
A「保身じゃないですか。自分の立場とか立ち位置を守ろうとする。例えば、自分の責任なのに人のせいにして自分の立場を守ろうとするとか。そういう人って、なんかすごく自分がある感じがする。
「私」と「自我」はなんか違うのか。自我が強いっていうのは、私とは別な気がしますね。
そう考えると、確かに俺が食券機で焦ってしまうのは、それは『私』とはちょっと違うかもしれないですね。言われてみれば。
でも、失礼かもしれないですけど、めっちゃ関係なく待てる人って、なんか自我がすごい強いイメージがあるんですよね。
どんぐらい待たせようが、どういう状況であろうが、今は自分の時間として、ゆっくり好きなものを選ぶ。何人並んでようが関係なく選べるって、なんかすっごい自我が強い。
……我が強いのかな。
でも難しいな。もしかしたらすごく視野の狭い見方かもしれないです。それは。なんかイメージ的にそう思っちゃってたけど、そんなことないよなって今思ってます。自分軸で、自分のペースで時間を握れる人って、すごい自我のあるイメージがあって。逆に言うと、そこへの羨望が強いかもしれない。わがままになりたい。」
Q「今、〇〇さんは、他者を守る人が『自分がある人』という話をされました。
一方で、自分を守る人が『自分がある人』という考え方もあるとすると、例えば、すごくわがままで自分勝手で、『自分はこういう生き方だから』と言い切って、周りに『それはどうなんですかね』と言われても、『いや、これは自分の生き方です』と言う人がいるとします。その人は『自分がある人』なんでしょうか。それとも、自分というものを決め込んでいるだけなんでしょうか。」
A「決め込んでると思う。自分があるんですか、それって。
そういう人って、ある種あんまり考えてない気がする。『私はどこまで私なのか』とか考えたことないと思う。」
A「でも、考えてない人も『私』はあるんでしょうか。」
A「そこに考えてる人は『私』があるのか。考えてない人は『私』はないのか。」
A「俺もない派です、正直。
だから……なった、というか、ずっとそうでした。でも、どっかであってほしいと思ってた、っていうのがすごく正確で。
『これが私なんだ』『これを私とします』って選択するものなんじゃないかなって、ここまできて思ってます。」
A「出てきました。私はね、『私』っていうのがあってほしい。」
Q「もう一つ質問してもいいですか。
生まれた赤ちゃんっているじゃないですか。生まれたばかりの赤ちゃんには、『私』ってあるんでしょうか。
お腹すいたとか、もともと持っている欲求はあるんだろうけど、あの赤ちゃんが成長していく中で、『私』というものを感じるようになるのはいつなのか。そもそも『私』があるのかないのか。成長の中で得ていくものなんでしょうか。」
A「ちっちゃい時に、いいとこ連れてってもしょうがない、みたいなのって聞いたことあるんですけど、そういうのあるんですか。」
A「僕がなんとなく聞いてるのは、記憶があんまりない時にいいとこ連れてってももったいないから、小学生ぐらいになってからいいとこ連れてったり、いいものを食べさせたりする、みたいな。」
A「今言ってた旦那さんの話ね。
『私はない』っていう。でも、『私』っていうのがあってほしい、っていうふうになっています。私はないんだと思います。というか、選択できる。
今ちょっと全然違う投げかけなんだけど、生まれたばっかりの赤ちゃんって、『私』っていうのはない状態から生まれて、どういうふうに『私』とか自我とかが出てくるのかなっていう話があると思うんだけど。
そしたら今、『子どものうちにいいものは別に与えなくていいんじゃないか』みたいな、自我が出てきた小学生ぐらいになってから、っていう話を聞いたことがある。
で、一個エピソードがあって。
うちの息子がよく言ってたのは、自分の殻があって、この目の中、この目線、自分が見てるこの世界の目線を自覚したのをすごいはっきり覚えてるって。『ここから自分の目線が出てた』みたいな。
それが何歳かは忘れたけど、その目線を自覚した時から記憶があるって言うんですよ。2歳か3歳ぐらいだったかな。『ここから見えてる』って。それって、中身、それが本人ってことなのかなって、私も面白くて聞いてたんだけど。そういう感覚ってあるんだ、と思って。
だから意外と、今話戻ったけど、『いいものを与えなくていい』っていうのも、そうでもないのかもしれないな。」
A「その話を聞いた時に、そんなことないんじゃないって僕も思うんですよ。
それこそ赤ちゃんだから何も感じないだろうと思って、赤ちゃんの悪口を言っていいわけないと思うんですよね。赤ちゃんは何言ってるかわかんないし、嫌だっていう感覚も、おそらく生まれたてはないだろうから、わかんないはずなんですよ。
でも、赤ちゃんに対して『お前、猿みたいだな』とかって、多分言っちゃダメで、言わない方がいいんですよ。
ってことは、やっぱり赤ちゃんに『私』を与えてるじゃないですか。こっちが。『私』があるふりをしてるじゃないですか。
感じないからって、生物学的にはそうかもしれないけど、でもなんとなく『赤ちゃんにも私あるよね。だから大事にしようよ』っていう感覚がある気がしてて。
だからやっぱり『私』っていうものは選択できるし、与えることもできるし、そういうものなのかな、変化するのかなってすごい思うんですよね。ぬいぐるみも、生物とは違うあれですけど、踏みつけたりとか、あんまりしたくないとか、しない方がいいっていう感覚があるじゃないですか。それも、こっちがぬいぐるみに対して『私』を与えてるというか、付与していると思うので。
そういうものなのかな。なくても与えてあげなきゃいけない時もあるし、なんか、そういうことを今思いました。」
Q「人に『私』を与えている、という感覚はありますか?」
A「与えてるっていう感覚……。『与える』っていう表現もちょっと難しいですけど。」
A「でも、赤ちゃんを大事にするっていう話は、赤ちゃんってどこから自我が生まれてるかわかんないから、大事にしとこう、みたいな感じ。だって、3歳で記憶がある子もいるし、三島由紀夫も、生まれた時のたらいの縁が見えてたって言ってるじゃん。
そういうやつも、たまにはいるかもと思うと、『こいつ、もう芽生えてるかもしれないから、とりあえず』っていう。だから『与える』というより、『見出す』っていう表現の方がいいかもしれない。一応、人として大事にしとこう、みたいな感じ。」
A「与えるというか、見出す。こっちが勝手に見出す。」
A「赤ちゃんについてちょっと話が、自我とか『私』につながるか今ちょっと曖昧だけど、赤ちゃんについてわかってることがあって。生まれたばっかりの赤ちゃんは、お母さんに抱っこされたり、おっぱいを飲んだりとか、そうやってケアされる。それによって、その赤ちゃんの、自我ではないけど、それが育つんですって。
だから、すぐ施設に預けられた赤ちゃんが、お母さんじゃない人たち、その他者に入れ替わり立ち替わりケアされるのと、一人の人がずっとケアするのとでは、全く違うものが育つというか、育たない部分ができるっていうのを聞いて。
そうなると、『私』につながるかわからないけど、生まれた赤ちゃんが『私』になっていく過程で、そういったものが影響するんだとしたら、『私』ってあるのかなって。育つものがあるんだったら、さっき言った与えるものがあって、育つものがあって、それは『私』なのか、『私』じゃないのか。赤ちゃんから育っていく人として、今の自分たちがある。その大元のところから。ちょっと……伝わったかな?」
A「ぬいぐるみが『私』だっていうのが面白かった。ぬいぐるみまでなんだ、と思って。」
A「子どもの頃、結構そういう教育を受けたかもしれないですね。本踏んじゃダメとか。
それは『私』だからなのかはちょっと別かもしれないですけど、そういう感じは感覚的にあるかもしれないですね。
でも、友達とかは平気で本を踏んづけてたし、アリの巣とかも、同級生は見つけてほじくり返したり踏んだりするのを遊びにしてたけど、俺は本当にそれができなかった。なんか、それが関係してるような気もしなくもない。」
A「でも、それは共感なんですかね。わかんないですけど。」
A「だから、どこまで私なのかってことですよね。範囲が広いのかな。」
A「痛いっていうか、もう嫌だよ、嫌だって思う。嫌な思いをしてる人がそばにいてほしくないなって思いますね。
でもね、それはその人が嫌と思ってるかはわかんないから、難しいなって。」
A「〇〇さんもさ、〇〇さんの人形が踏まれたら、踏まれてるって思うの?」
A「でも五感の……じゃあ、その五感の範囲が違うのかもしれない。」
A「投影するってことも、だから自分の範囲ってことか。」
A「同じような感覚の人、私聞いたことがあって。物に対しても『かわいそう』って言ってるかな。
例えば『誰々が豚みたいだね』って言うと、『いや、それ豚がかわいそう』って思う感覚。
同じですか。」
A「『豚みたいだね』って、すごい貶した言い方で言った時に、『いやいや、それは豚に失礼でしょ』っていう感覚で思う。」
A「そういう感覚かなと思って。その人とちょっと似た感じかなって。」
Q「その時、その人のことはかわいそうじゃないんですか?」
A「でも、かわいそうなんですよね。その人もかわいそうだし、豚もかわいそう。悪意をぶつけられているということがかわいそう。『豚』って言ってること自体、もう悪意じゃないですか。でも、それは豚にも向かってるし、その人にも向かってるし。
最悪だなって思う。地獄じゃんって思っちゃう。」
A「さっき〇〇さんが言ったみたいに、『そんな世界で生きてて、お前かわいそう』みたいなことは思うな。こんなにかわいいのに、かわいいって思えないんだ。かわいそう、って感じで。
ぬいぐるみ、、、今日、近所のおばあちゃんから着物いっぱいもらって。その中に昔の狐の襟巻きがあったの。ゴリゴリ狐の顔ついた襟巻き。つぶらなガラスの目がついた狐の顔が。すっごい可愛かったけど、生々しいので、かわいそうだなと思って。『お前、こんな箱の中に何十年もいて』って。家にあった雪だるまのぬいぐるみと一緒に、こう並べて、『家にいない間に喋ってていいぞ』って。なんか、その、擬人化はしてる。それは別に、そういう世界観になった方が自分は楽しいなと思ってるから、そうしてる。」
Q「本当にそうである、ということじゃないんですか?」
A「本当にそうかもしれないし。私たちが感知しないだけで、あるかもしれないじゃん。」
A「スピリチュアルじゃないけどさ、全部さ、わかんないので。」
A「私、〇〇さんが感知してるのかなってぐらい思ってたからさ。その世界を。そのぬいぐるみの世界の魂を感知してるのかな、くらいに結構思ってたから。」
A「そうなんだけど、ひょっとしたらさ、この狐の中にも狐がいる。」
A「ほらほら。こうやって、確かに自分の物の思い方って、全然自分が思ってるのと違うってことだよね。」
Q「ちょっといいですか。話がちょっと変わるっていうか、トイ・ストーリーが本当にそれっておっしゃったじゃないですか。
本当にトイ・ストーリーですよね。見出すってことじゃないですか、おもちゃに命を。僕、トイ・ストーリーすごい好きなんですよ。」
A「トイ・ストーリーすごい好き。3かな。3が最高傑作って言われてて。」
A「今4まで出てて、5もこれからやるみたいなんですけど。
一応4まで出てるんですよ。3が最高傑作って言われてるのは、ウッディとバズが……えっと、いろいろあるんですけど、その、敵キャラみたいなのがいて、その思惑に絡め取られて分裂しそうになるんだけど、最終的にみんな一致団結して、家族としてまた物語は続いていくよ、みたいな感じで。本当にすごく綺麗な終わり方をするんですよ。
本当に最高傑作って言われてるんですよ、トイ・ストーリーの中で。
けど、4は、なんつうのかな、駄作って言ったらあれですけど、死ぬほど叩かれてるんですよ。ファンから。
『4はなんなら記憶から消したい』『3でトイ・ストーリーは終わってる』って、ファンは言うんですよ。
なぜかっていうと、4ってウッディとバズが最後……ネタバレしちゃって大丈夫ですか。」
A「最後、決裂っていうか、もう別れちゃうんですね。違う道を歩んで終わるんですよ。それにファンはめちゃくちゃブチギレてて。『ウッディとバズって絶対一緒だから』『ウッディとバズは家族で、ずっとそれを1、2、3で乗り越えながら、紆余曲折ありながら、3で結局そこにたどり着いてるんだから、なんで4で別れさすの』って。
で、俺は世にも珍しくトイ・ストーリーを4から見てるんですよ。4から入って、1、2、3って見返してるんですね。で、4で、『これはめっちゃいい』と思ってて。めっちゃ好きで。なんなら僕は4が最高傑作だと思ってるんですよ。なんでかっていうと、4でやってることって、おもちゃたちに自由を与えてるんですよね。『私』を見出してるっていうか、本当の意味で『私』を与えてるんですよ。だからウッディとバズたちは、物語の中で『私』というものを得てるから、別れることができるんですよ。違う道を行くことができるんですよ。でも3までは、こっちがウッディとバズに、家族みたいなのを勝手に投影してるから、3で綺麗に終わってると思ってる。
けど僕は4ですごく自由な気がして、なんか大好きなんですよ。4って、ちょっと調べたら出てくるんですけど、死ぬほど叩かれてるんですよ。もうけちょんけちょんに言われてるんですけど。
でも4、最高なんですよ。
おもちゃたちに自由がちゃんと与えられてるんですよ。
個人の自由が確保されてて、『私』をしっかり与えてるんですよね。
それを今、トイ・ストーリーって〇〇さんがおっしゃってたので思い出して。
おもちゃに対してそう思うのと一緒で、僕もやっぱり『私』って自由で、選択できて、そういうものなんですね。
そうか、そうなんですね。
ちょっと自分の中でつながったんで、勝手にしゃべってますけど。」
A「そう言ってくれなかったら思い出せなかったです。」
Q「『私』を与えられたおもちゃたち、ということですか?」
A「まあ、与えられたというか、その『私』というものを制作陣がおもちゃよりちゃんと見出したってことですよね。
ファンの思う形じゃなくて。……でも、ちょっと待ってよ。
よく考えたら、この物語でいけば、4では彼らはこの選択を自然とするんじゃない。
ファンは『別れないでほしい』『家族でいてほしい』って思うだろうけど、それって彼らの自由を尊重してないんじゃないかって。そこまで俺が勝手に深読みしてるだけですけど。制作陣が自由を与えてるっていうのに、ちょっと感銘を受けたっていう話。」
A「そうですね。
自由であることが良しとするかどうかは、また別の話ですけど。それは議論があっていいと思うんですけど。
前提として、自由はあった方がいいよなとは思いますね。」
A「トイ・ストーリーの話、ちょっとごめんなさい。脱線しちゃいましたけど。」
Q「多分今日、『どこまで私なのか』の前に、『私があるのかないのか』『私ってなんだ』みたいなことがある。
全然難しい。『私って何』がすごい難しいと思います。
なんかいろんなことを問いかけたいけど、これは多分エンドレスになるかなと思って。
子ども時代とかの、みんなの好み、いろんな好きなことって、多分大人より純粋だから、ピュアだから、もともと持ち合わせてるものがあって好きで選んでたり、虫が好きな子とか、めっちゃ走るの好きとか。
そういうのって、親がやれって言ったわけでもなく勝手に選んでたりするのかなと思うと、『私』なのかなと思ったりとか。
もともと持ってるものっていうのか分からないけど。
今の大人の私たちの感覚とはまた違ったところにも考える余地はあるのかなと思ったり。
『私』っていうのが何かに影響されて、何か見たものによってそういうのが選択されているのかとか。
これをもっと深掘りすると、もう1回ぐらい会が必要になると思うんだけど。
『私』っていうテーマ、すごいですね。」
Q「『私』っていうテーマ、深いですね。
ちょっとだから、『どこまで私なのか』っていうのは、もっと先の話になるかな。
どうですか。感想タイムにしますか。もう時間だから。」
Q「一個だけ質問していいですか。
今まで『自分がある』っていうことを、あると思ってた。でも今は、なんかないと思ってるっておっしゃってるじゃないですか。『ない気がするな』みたいな。今は楽なんですか?」
A「えっと、説明しますと、楽じゃないです。
まず楽じゃないんですよ。
だから、また多分『私』が戻ってくることもあるだろうなとも思うんです。環境が変わったりとか、状況が変わったりすると。
なんか、握ってた方がいいと思ってて。選択権をある程度、自分の人生において。
福祉を学んできた時に、『自分の人生の主人公でその人が居続けられるために、私たちは支援をするんだよ』みたいなことを、ひたすら学んできたので。あ、そうなんだ、ケアとか相談職ってそういうもんなのかな、みたいなことを考えながら大学生活を送ってて。自分がいざこっちの立場になった時に、『あ、確かに握ってた方がいいことってあるね』とか思いながら。
でも、そのエネルギーがない時もあったりとかもするので。
今はこういう、なんとなく生きてるのもいいか、みたいな時期なのかなって思ってるっていうだけですけど。
なんか、うーん、わかんないですね。
でも、生き生きは多分、自分が選択権を握ってたりとか、自分がなんかできるって思ってるとか、決めれる方が生き生きはすると思うし。そっちの人生の方が絶対楽しいとは思う。
とは思うけど、親になったりするとか、全然違う環境に行って、ゼロからやらなきゃいけないみたいな時期は、自分がない時期もあるんじゃないかなとも思う。」
Q「なるほど。
ちょっとスイッチできるというか、『今は私あった方がいいな』っていう時と、『今はない方がいいな』っていう時が、その状況によってあるっていう感覚ですか。」
A「うん。勝手に自分で入れる時は勝手に入るから。
『今は出せないんだな』とかって思っちゃう。
自分の努力でどうにかなるもんじゃないと思ってるかも。その自分が出される時っていうかな。
無理して出してると、どっかで止まっちゃったりした時があったので。私の経験談だけですけど。
でも、そうやって突き抜けちゃう人もいると思うし、自分の努力だけで。
私がそういうのじゃなかっただけかもしれないけど。
わかんないですけど。みたいなふうに思っていました。」
A「さっきの最後の『与える』『与えられる』みたいなのが結構面白くて。
私はすごい面白くて。私も似たようなこと考えたことがあって。赤ちゃんというよりは、『愛』について哲学カフェをやった時にやったのかな。やったのか、やりたかったのかわかんないですけど。
愛って、世代間で循環する。逆もしかりで、愛じゃないものも循環しちゃうっていうか。
例えばトラウマとかも世代間で循環しちゃったりとかってあると思うんですけど。
愛ってすごい循環する面白いものだなって思ってて。
本当にそれこそ赤ちゃんじゃないけど、自分の子どもに料理を作ってあげた記憶とかがそのまま残ってて、また子どもに料理を作ろうって思ったりとか。そういうことが巡るんだなと思ってると、『これは人間、深いぞ』と思って面白かった覚えがあるので。ちょっと突き詰めたら面白そうだなって、また思いました。以上です。」
Q:「『絶対ないよ』『絶対あると思う』みたいな、変わらない意見っていうのも大事だし、哲学対話的なあれですね。
だけど途中で、『いや、ないと思ってたのかもしれない』『というか、あってほしい』みたいな。自分の中で意見が変わるっていうのもすごく重要で。哲学対話の中で、これをしたいというか。あとは、もうちょっともっと話し続けたいなぐらいで終わっているので。また別のテーマでもありかな、この『私』のテーマは。」
A「それこそ居場所のお話されてましたけど、居場所も結局ここにつながると思ってて。
自分が、いわゆる安全基地ですよね。
自分が安心していられる空間、場所。居場所で出せる自分っていうのがすごく大事だなと思うし。
そうじゃない環境でいるのがやっぱりしんどいと思うし。
そういう居場所がない人もいっぱいいるじゃないですか。
だから本当に『私』っていう話は、どのテーマでもいけるなと思って。
ちょっとそのまま感想に入りますけど。
やっぱり確かに、ないよなと思うんですよね、突き詰めていくと。
過去の集積、もちろんそうだと思うし。環境によってほとんどのことが決まっていくので、自分が選択できるものなんて少ないし。それこそ国分功一郎でしたっけ。『中動態の世界』だったかな。ちょっと前に話題になってて。中動態って、結局、自分の意思でできることなんかほとんどないよっていう話ですよね。環境とか要因とかに左右されてて、巡り巡ってこうなってるだけで。自分の意思で操作できたりとか、選択できることってほとんどないんだよっていう話だから。それは結局、『私』ってないっていう話に帰着すると思うんですけど。
ただ、その中で勝手にこっちが認識として、『でも私ってこうだよね』っていうのをある程度握っておく。
さっきもそういう話がありましたけど。どっかで範囲を絞っておくことって、やっぱり必要なんじゃないかなって思いますね。
だから本当、『私』というのがあってほしいっていうのが、今回最終的にはそこに落ち着いたっていう感じですね。」
A「最後の、ぬいぐるみも自分だって思ってる……いや、ぬいぐるみを自分だと思ってないっていう発見が超面白かったなって思うけど。なんだろう。感覚としては、フィルターだなっていうのは、ずっとそう思う。今日の話の間でずっとそう思ってたな。
そんな感じで感じてました。」
Q「次回以降のテーマの時に、『私』を絡めたやつを、ちょっと間を空けてやりますか。」
A「なんか、いろいろ出てたのを聞いてて、どれやっても面白いかなと思って。」
Q「またそのうちやりたいテーマだなと思いました。」
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茅スタジオでは、「つくる」や「かんがえる」をするイベントを継続的に自主企画しています。哲学対話はもちろん「かんがえる」担当ですが、裏テーマは「役に立たないことをしよう」です。
役に立つ、効率的なことを求められることがとても多い現代ですが、役に立つことだけが大切なことなのだろうかと疑問が残ります。答えのない問いについて考えをめぐらせる時間は、「役に立たない」かもしれません。でも何かにつまづいた時、前に進むだけではいられなくなった時に自分を支えてくれるのはそんな時間かもしれないという気もします。本当の意味で豊かな時間とは何なのか。そんなことを考えながら哲学対話を企画しています。
Philosophical dialogues
Facilitator: Miyuki Warita
Planning: Bou Studio
*レポートは参加者の許可を得て掲載させていただいています。