われわれの知覚や認識の背後に明確な言葉で表現できない「暗黙の次元」が存在するという事実の指摘に留まるなら、率直にいって、ポランニー知識論の意義はさして大きなものではない。多くの、特に日本の暗黙知の理論に関する知識はそうした事実の指摘に留まっているが、ポランニーが独特の知識論を構築する究極の意図は、より高いところにある。 ポランニー知識論は、まるで、顔の諸細目からだれかの存在を同定するのと同じように、世界の諸細目から世界と人間の存在理由を導きだそう、世界と人間存在の意味を明らかにしようという、恐るべき目的を持っているのだ。「宇宙の意味」「世界の意味」「人間の意味」などの、通常の科学的方法によっては明らかにしようもない究極の意味、そうした意味への問いを持つこと自体が無意味(nonsense)とされかねない、究極の意味を探求することが可能であること――この点を主張することが、顔の識別の例を挙げながら、人間は「語ることができるよりも多くのことを知ることができる」と述べる、ポランニーの哲学的コミットメントだったのである。 逆にいえば、究極的な問いを問うことが無意味だとすれば、人間の顔を識別できることの理由を問うことも無意味となる。人間の顔をやすやすと、なんの疑問持たずに識別しておいて、「神の顔」の識別の段になると、現代人はとたんに極端な懐疑主義者となる。これは、現代人の癒やしがたい病ではないのか――ポランニーは、こういって、現代の「合理主義者」という名の無神論者たちを挑発している。人間の顔を識別するように、「神の顔」を識別すること――これが、暗黙のリベラリズムの究極のねらいなのである。
『マイケル・ポランニー 「暗黙知」と自由の哲学』(佐藤光著、講談社, 2010, 978-4062584579)位置No.3305 終章 暗黙のリベラリズムの可能性 2 個人的で人格的で暗黙の知識の役割 真実の意図












