seen from Malaysia

seen from Italy
seen from Malaysia

seen from Malaysia
seen from Russia
seen from United States

seen from Singapore
seen from United States
seen from China

seen from Türkiye
seen from Czechia
seen from Germany
seen from China
seen from Germany
seen from Germany
seen from United States

seen from Thailand

seen from T1
seen from United Kingdom
seen from China
建築的無意識という概念には、1980年代に隆盛を極めたポストモダニズム形態主義に対する暗黙の批判が込められている。それは、建築空間のもっとも重要なはたらきは、形態による視覚的刺激にあるのではなく、生活のアクティビティの背景を通じて、人間の感性にはたらきかける点にあるという主張である。建築的無意識は、長期にわたって生活が営まれる住宅において、とりわけ重要な意味を持つように思える。
「建築的無意識」 Architectural Unconsciousness
要するに、暗黙知の第1項である諸細目は、全体性をもった第2項を構成する部分であり、両者は存在のレベルが異なるために、部分を寄せ集めても全体を形成することはできないということである。これは機能の集合によって形態をみちびき出そうとする、機能主義の方法についてもあてはまる。 アレグザンダーは『ノート』において、コンテクストと形だけでなく、両者の関係までも明示知化・意識化しようと試みた。ポラニーの暗黙知理論によれば、コンテクストを明示知化・意識化すれば、それを統合する形は見えなくなる。コンテクストと形を明示知化したままで、両者を結びつけることは不可能なのだ。アレグザンダーがパタン・ランゲージに向かったのは、コンテクストと形の関係を暗黙知化するためだったのではないだろうか。
「建築的無意識」 Architectural Unconsciousness
これで少しは見当がついただろうが、ポランニーは技能の中にこそ、のちの創発を喚起する方法が芽生えていると見通したのである。すなわち、発見は対象知(knowing what)によっておこるのではなく、方法知(knowing how)によっておこるにちがいないと踏んだのだ。もっというのなら、ある個人の知識の総体のなかでその知を新たな更新に導くものは、その知識にひそむ方法知ではないかということなのである。その方法知がアート、スキル、レリバンスで組み立てられていると見たのだ。
1042夜『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー|松岡正剛の千夜千冊
コロンブスは地球が丸いことを知っていて、アメリカ大陸の一端に辿りついたのではなかった。メンデルは遺伝法則の知識を獲得するためにエンドウマメを掛け合わせたのではなかった。アインシュタインは特殊相対性理論のあとに重力理論たる一般相対性理論の可能性がやってくるとは思っていなかった。 にもかかわらず、コロンブスもメンデルもアインシュタインも、自分が果たしたことをあとから振り返ってつなげることができた。これらの出来事には「不意の確証」(surprising confirmation)というものがはたらいたのである。
1042夜『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー|松岡正剛の千夜千冊
われわれの知覚や認識の背後に明確な言葉で表現できない「暗黙の次元」が存在するという事実の指摘に留まるなら、率直にいって、ポランニー知識論の意義はさして大きなものではない。多くの、特に日本の暗黙知の理論に関する知識はそうした事実の指摘に留まっているが、ポランニーが独特の知識論を構築する究極の意図は、より高いところにある。 ポランニー知識論は、まるで、顔の諸細目からだれかの存在を同定するのと同じように、世界の諸細目から世界と人間の存在理由を導きだそう、世界と人間存在の意味を明らかにしようという、恐るべき目的を持っているのだ。「宇宙の意味」「世界の意味」「人間の意味」などの、通常の科学的方法によっては明らかにしようもない究極の意味、そうした意味への問いを持つこと自体が無意味(nonsense)とされかねない、究極の意味を探求することが可能であること――この点を主張することが、顔の識別の例を挙げながら、人間は「語ることができるよりも多くのことを知ることができる」と述べる、ポランニーの哲学的コミットメントだったのである。 逆にいえば、究極的な問いを問うことが無意味だとすれば、人間の顔を識別できることの理由を問うことも無意味となる。人間の顔をやすやすと、なんの疑問持たずに識別しておいて、「神の顔」の識別の段になると、現代人はとたんに極端な懐疑主義者となる。これは、現代人の癒やしがたい病ではないのか――ポランニーは、こういって、現代の「合理主義者」という名の無神論者たちを挑発している。人間の顔を識別するように、「神の顔」を識別すること――これが、暗黙のリベラリズムの究極のねらいなのである。
『マイケル・ポランニー 「暗黙知」と自由の哲学』(佐藤光著、講談社, 2010, 978-4062584579)位置No.3305 終章 暗黙のリベラリズムの可能性 2 個人的で人格的で暗黙の知識の役割 真実の意図
第1章では、私たちの暗黙知の能力を扱った。そこで明らかになったのは、暗黙知は内在化(indwelling)によって包括=理解(コンプリヘンション)を成し遂げること、さらにすべての認識はそうした包括の行為から成り立っている、もしくはそれに根ざしている、ということだった。第2章は、暗黙知の構造が包括的存在の構造を決定する仕組みについて明らかにした。暗黙知が人間の動作(パフォーマンス)を包括する仕組みを研究することによって、私たちは、包括(=理解)されるものが、それを包括(=理解)する行為と同じような構造を持っていることに気づいた。このとき分かったのは、包括的存在と個々の諸要素との関係は二つの実在(リアリティ)レベルの関係であること、そして高位の実在レベルが、低位の実在レベルを制御する原理によって決定されずにいる境界条件を制御していること、であった。次に、こうした実在レベルが互いの上に積み重ねられて階層を成し、ついには階層化された生物界の全体像を出現させるのだった。まず無生物から生物へ、その後は順繰りに各生物レベルからそれぞれすぐ上位の生物レベルへ、といった具合に階層化されるのだった。こうした階層化は、次の上位レベルを生み出す働き(アクション)として創発(emergence)を定義するための、枠組みを与えてくれた。この考え方は、個人の発達と、生物の進化の両方に当てはまるのである。 かくして暗黙知に関する考察から、根本的革新を生み出す創発の機能が明らかになった。創発に関する考察が人間の誕生に至る進化の頂点を極めていくにつれて、すでに考察された人間の認識形式が創発にも存在することが、次第に了解されるようになったのである。そしてついに私たちは再び人間の精神に直面し、包括(=理解)を目論んで世界の個々の諸要素に内在化して、絶えず世界の意味を更新していくことになったのだ。
『暗黙知の次元』(Michael Polanyi著、高橋勇夫訳、筑摩書房, 2003, ISBN 978-4480088161)pp.94-95 第3章 探求者たちの社会
私は本章の最初から、一般化(=概念化)の方法で、暗黙知の構想を詳述してきた。そして今その一般化は前述の進化のイメージに行き着いたのである。すでに検証したように、暗黙知は、身体と事物との衝突から、その衝突の意味を包括=理解(コンプリヘンド)することによって、周囲の世界を解釈するのだった。この包括は知的なものであり、なおかつ実践的なものでもあった。だから包括的存在の範囲は拡張されて、自分自身の動作(パフォーマンス)は言うまでもなく、他人の動作とその他人自身をも含むものとされたのである。このとき私たちは、その向こうに生物学の全貌が見渡せるドアの前に到達していたのだ。そしてそのドアの鍵を手に入れるには、次の点を認識しなければならなかった。すなわち、包括的存在は、首尾一貫した現実の諸レベルが独特の論理で組み合わされたところにある。
『暗黙知の次元』(Michael Polanyi著、高橋勇夫訳、筑摩書房, 2003, ISBN 978-4480088161)p.85 第2章 創発