振り返れば多くの写真を撮った
がそれはほとんどすべてすでに
誰かに撮られたものの焼き直しであった
人類はあまりにも多くのものを見てしまって、
撮ってしまった
机に向かいながら世界のすべてを
検索することができる
結局自分の撮った写真とは、
自分が見てきたものの記録で
だけれども、
自分にそもそもなんらオリジンが存在しないから
この記録はだれかの寄せ集めであり、
また複製イメージの集合である
現代はだれでも写真を撮れるから
大雑把にざっくり言ってしまえば
僕が写真を撮る理由なんてない
写真に魅入ってしまった自分は
当初非常に盲目で、
ただ写ることの面白さや
カメラのメカニックな美しさで
お腹がいっぱいだった
写真の世界は広く、
一重に写真をやっていると言っても多様で
この世界で僕が非常に面白く感じたのは
いわゆる写真論という分野だった
歴代の写真家と呼ばれる人たちの
仕事を洗い、そこに意味を見出していく
写真論とはすなわち理論で、
ここから写真の能力は拡張がなされていった
ちまた多くの写真家の仕事は
写真論によって意味付けがなされ
確たる言語として、進化の証が刻み込まれてきた
ブレッソンとは?スナップとは
報道とは何か?キャパは何を見たのか
決定的瞬間はそもそもあるのか?
写真によって拡張される視覚。
その記録性が生み出す第二の認識
などなど
写真論は写真家への評論でありながら
同時に写真の可能性を示唆する道標でもある
過去を振り返り、現在の立ち位置を把握する
にあたり
写真論が「生きる」写真家に与えた情報は多い
時に写真家は写真論に殺され
またどうじに写真論によって
陽を当てられた写真家がいる
いつしか、
自分もこの大いなる写真の可能性の遍歴に
なにかしらの形で貢献してみたかった
いや、それより前に
そもそもわけのわからん芸術というものを
切っていく評論家たちが
非常に冴えているように映った
彼ら彼女らの叡智は、常に僕に新しい光を与えた
それゆえに僕は自分なりに写真を解釈したかった
当然既存のものは参考にする
自ずと自分の作品にも
そういう目線で向き合うようになる
これは第一に作品を作るにあたり
常に自問自答する部分である
なぜか?少なくとも自分の作品に納得するために
まえ2つはそんなに大したものではない
結局好きだから、でことは済む
確かに、自分もここに対する思索があった
だがそれは次に比べればなんてことはない
最後の部分、
「見せる」という所は
前2つと全く異なる性質のものである
なぜなら見せなくても作品になるというのに
「見せる」ということは、わざわざそうする、
ということだ
写真展という活動を通して
「見せる」ことに非常な疑問をもった
言ってしまえば、部として活動するから
「見せねばならない」のかもしれない
なるほど体裁のためだ
そういうこともあろうが
突として見せたくなることもある
それは写真家からしたら
衝動であり、承認欲求なのかもしれない
キュレーターからしたら
それを取り上げるメリットや目的
が存在するからだろう
過去の巨匠の作品を振り返るにあたり
確かにぐっとくる写真とは、
上に挙げた3つの疑問が明快である
なぜ撮り、なぜ作り、なぜ見せたのか
これらに非常に鋭い意志がある
彼らの作品はこれ故にか美しく、
自分もそれに近づきたかった
ゆえにここには納得する言葉による説明が欲しい
やはり、前2つと最後の部分で事情は異なる
3つめが壁であった
いま、考えてみればこれは当然で
巨匠は生まれたときから巨匠であったわけではない
彼ら彼女らは、
後からやってきた評論家の上書きの結果
現在、巨匠として存在している
彼らは1人で戦ったわけではない
でもこう考えていても埒があかないので
22歳の小さな脳味噌で、
納得いく答えを出そうと思うと
やはり、
この言葉は切り離せないのではないだろうか
社会を知らぬ人間が社会について書くなど
到底わけのわからないことだが
22歳には22歳なりの「社会」の認識があるので
ここは平たくご容赦願おう
して、
写真を見せる必然性が、この世界にあるとすれば
それはやはり
社会に求められたものなのだろうと思う
社会をテーマにした写真は、
いつの時代も求められる
ひとは社会とともに生きていて
ひとは社会の情報で生きていて
そしてなによりひとは社会を作っている
人類は、写真や文学、テレビなどを通して
社会の切り口を増やしてきた
社会をいろいろな角度から
「正確に、客観的に」とらえようとする試みで
そういう中に写真はひとつの手段として存在する
ひとつ
このために我々は写真の可能性を拡張し、
常に新しい能力を与えてきた
見たいものがあってその手段があって、
それでできることがあってできないことがある
ただそれだけ
往々にしてこれは段階的で、
おもに科学技術によってブレイクスルーされてきた
新しい技術が可能性のすそ野を大きく拡大し、
そこから先の子細な洞察は思考が誘導する
ここで重要なのは、
その能力の必要性は、
その時その社会にそれが要るかどうか、
が決定するといういことだ
ほおっておいても技術は進歩する
もちろんどの技術が選ばれるかは社会が決定するが
一度求められればあとはドミノだ
こと写真において、見るということは
根源的な欲求であるから
技術の進歩が衰えたり途絶えたりする
心配をすることはない
ゆえに写真は社会に望まれて進化してきた
と言えるだろう
写真家はその目線の当て方を受け継ぎ、
本人が生きる時代において
彼、彼女らの環境、社会を見る
社会によって形成された思考であるから
シャッターを押す動機から発表まですべて
「社会のため」
という目的が一貫して存在する
一方で、
全ての写真は社会のためにあるわけではない
絵画的写真や、情景的写真、心象写真など・・・
社会的なテーマを取り扱わないものも
世の中に多くある
例えば、需要の存在というものがある
既に作者にファンが存在する場合
に当てはまるだろう
作者は
やりたいからやっていて
ファンも好きだから追いかける
こう考えると、やり続けることが大事で
そのうちファンがでてきて、
やめられなくなるのかもしれない
写真のそういう直感的な部分は
非常に大事だと思うけれど
今回は理論でもって解釈し、理論であるがゆえに
前進できることを期待しているので
まあここは出来る限り理論で詰めていくとしよう
立ち返って写真を発表するその目的は
当然誰かに何かを伝えることにあるだろう
写真にはパワーがある
それは目の覚めるような感覚で、
まさしくインスピレーションだ
いい写真とは、どれもそういう引き付ける力がある
同時に写真は孤独である
展示されて、作者の手元から離れた瞬間に
すべてのコンテクストから離脱して、
写真は一人で歩いて行く
作者の思いなんて全く伝わらなかったり、
はたまた違った見方をされたり
そして最後に、写真には自立性がある
シャッターを押したら写真はできあがる
たったこれだけの作業をしただけの人間を、
はたして作者と呼べるだろうか
主にこれら3つの写真の特性をもって、
写真は人から人へ渡る
ものを見ることの切り口なのか
シャッターを押すことの、
記録することへの思考なのか
写真の表面的誘引力なのか
写真の質感なのか
写真を見ることの、見られることの不確実性なのか
たったシャッターを押しただけで
作者になってしまうその諧謔なのか
もし、見せる理由に迷わない作品があるとすれば
それは、
「新規性」を十全に満たす作品だろう
すなわち
写真の技量を身に着けて、いい目線を持ち、
新たな思考で社会を切り開いた写真である
うーむ。結局社会に戻ってきてしまった
まあこの社会の大きさに多様性こそあれ
「発表する」ということは
誰かに見てもらうということで
大なり小なり社会と接点を持つのだから・・・
最終的な判断基準がそこにあるのは
翻ってみれば必然である
ここでそれが確かめられた、
ということでひとまず、としたい
このようにして「見せる」理由の性質は
説明されるわけだが
写真を撮っている人間は、
いまだに違和感があるに違いない
撮りたいという衝動なくしては、
そもそも写真は始まらないのだ
見せたいという欲求が
ここを歪めているようにも思える
写真を撮る人からすれば
ただ結果として、こういう潮流のうえに乗っていた
とか乗っていなかったというだけではないだろうか
つまり全ての写真は私写真であり
社会との距離にグラデーションがある、と。
社会との距離が近い私写真は報道などであり
社会と距離が離れている写真は家族写真などだ
まあでもこれらの理論は
自分の立ち位置を把握するのに有用であるから
持っていることに越したことはなく
特に写真という、
創作活動が一瞬にして終わる分野では
(シャッターを押せばそこで制作完了である)
それをどういう風に使うのか?
というところは大きな課題で
そのためには「作者」と「評論家」を
行ったり来たりせねばならない
それ故に僕は写真の理論というものを
非常に重く感じている
経験的に分かったことでもあるが
人間は論理によって物事を前進させる
納得した写真を作るにあたり、
論理に頼るしかなかった
また一方で、芸術は論理だけでは面白くなくて
「生理」という部分にも非常な面白みがあり
さらに「論理」と「生理」のミックスが
それを加速させる
今回は論理の部分を整理してみた
生理についても同様のものが存在するが、
長くなったのでまた今度にしよう