新長田で赤いスーツ、赤い帽子、サングラスと言えばこの人! 鉄板 コテ之介さん
(有限会社上野刺繍 代表取締役 上野栄一さん)
新型コロナウイルスの影響により取材を8か月近く自粛していましたが、様子を見ながらぼちぼち再開です。新長田で、真っ赤なスーツにコテの付いた赤い帽子、サングラスで歌の上手い人と言えばこの人、鉄板コテ之介さんこと上野刺繍の上野栄一さんにお話を聞きました。(2020年10月2日にインタビュー)
今回は、上野さんの会社近くで行きつけの、愉快な店主とかわいい愛犬のいる居酒屋さんでのインタビュー。新長田への熱い思いとロックな生き様をお聞かせいただきました。
小さい頃はどんな子どもでしたか。
今からは想像ができひんけど、引っ込み思案で人前でしゃべれない子どもやった。当時は刺繍の家業が儲かっていたので、あつらえた服を着て通学したりして周りから浮いてたと思う。小学3年生の時の先生が、子どもはワンパクでないとあかん、前にもっと出ろ、というタイプで、音楽の授業の時に皆の前で歌を歌わされて、それで褒められた。嬉しかった。家に帰って歌っても褒められた。実は父親は川崎車両に勤めながら夜はダンスホールでギターを弾いていて、母親ともそこで知り合ったらしい。 と言いながら、中学1年生の終わりまでは当時流行っていたドラマ「進め!青春」の影響でサッカーをしてた。その後にドラマ「俺は男だ!」の第28話で夕焼けに向かってトランペットを吹いている志垣太郎がカッコ良くって、吹奏楽部に入部する条件で父親にトランペットを買ってもらった。でも、その後プレスリーを聴いたらめっちゃカッコ良くて、歌を歌おう!と思ったんやけど、トランペットは吹きながら歌えへんやん。それで、ギターに変えてバンドを始めた。 ミーハーやねん。いろんなものに無茶苦茶影響を受けやすい。
音楽活動について教えて下さい。
本格的なバンド活動を始めたのは高校生になってから。夢野台高校の同級生と「夢野台ハイスクールロンリーハーツクラブバンド」を結成して、いきなり高校1年生の文化祭で演奏した。ビートルズとかチューリップ、ディープパープルの曲が多かった。 NPO法人KOBE鉄人PROJECTの事務局長をやっている岡田との出会いも夢野台高校で、最初は別のバンドに入っていてライバルやったのに、高校3年生の時に急に一緒にやらせてくれと言ってきたん。ちょうどベースが抜けたところで、ベースやったらええでと答えたら、元々ギターの岡田が次の日にはベースを買ってきた。それで一緒にやることになった。後でその時の理由を聞いたら、ちゃんと音楽をやりたかった、ということやった。岡田とは高校3年から大学1年まで同じバンドBOSSで活動していた。 今やっているバンド「跡夢(あとむ)」は20歳から始めた。チキンジョージより1年古い。最初の跡夢はビジュアル系で人気があったよ。かわいい顔したドラム1人に人気が集まってたんやけど。当時三宮にあったアビーロードというライブハウスで100人定員のところ、200人も集まった。跡夢の名前は、プロにはならない、夢の跡を続ける、という意味なんやけど、結局俺以外のメンバーはプロになっていったな。 大学の時はミュージシャンとしてメジャーになるために東京に行きたいと思って父親に相談したら、あっさりとOKしてくれた。川崎車両を辞めて上野刺繍の社長をしていた父親が大酒飲みで肝臓を壊していて、ちょうどその時に倒れた。次に倒れたらもう駄目と医者に言われたので、ミュージシャンの道をあきらめて家業を継ぐことにした。大学に行きながら家で働いていた。ちなみに、8歳年下の弟は跡夢のボーカルをやっている。
上野刺繍の会社のことをお教え下さい。
61年前に二葉町4丁目の路地で母親が創業した。俺が1歳の時。父親は川崎車両で溶鉱炉の仕事をしていて体調を崩してた。昔の会社は正月に新調した名前入りのスーツを従業員に渡す習慣があったので、大晦日は関係なく働いていた。服を取りに来た人が店の前で行列を作っていたぐらい。そこが手狭になってきたので、5歳の時に駒ヶ林4丁目に移転をした。当時は全部手作業で17~18人が働いていた。住み込みで働いていた女性2人が、襖一枚隔てた隣の部屋で寝泊まりしていたのでドキドキしてたな。相手は俺を子どもとして見ていて、気にせんとパンツ一枚に近い恰好をしている時もあった。 その後も自宅は駒ヶ林のままやけど、工場は刺繍の機械が入って、それがどんどんと大型化していくにつれて手狭になり、何度も移転した。駒ヶ林の次は久保町にあったマルハ市場の横の貸工場、次に駒ヶ林に戻って、昭和60年には大橋町、平成元年に大道通に移転したけど、その年に父親が57歳で亡くなったんで俺が社長を継いだ。その時はバブルの絶頂で遊び倒してたな。会社の経費が3倍にもなってた。それからバブルが弾けたからえらい目にあったわ。 今、会社のある水笠通へは東北大震災の年(平成23年)に移転したけど、その後、1か月して俺が脳出血で倒れて入院した。父親も会社の移転後に亡くなり、俺も移転後に脳出血で倒れて、会社を移転すると良くないことが起きてたわ。 ワールドやジャヴァといった神戸のアパレルメーカーの衰退は悲しい。仕事もアパレル中心では厳しいので、作業着や制服のネーム入れといった他の仕事の比率を上げていったけど、いかに早く仕事を終わらせて納期に間に合わすか、ということにかかりっきりになっている。アパレルの仕事の時はいろいろと考えてたのに、今は技術が落ちたな。 刺繍は将来性のない仕事。全て機械でできるようになって、大きい会社は自前で機械を揃えるようになった。子どもには継がせたくない。弟に継ぐことになるのかな。
鉄板コテ之介の活動を始めたきっかけは。
鉄板コテ之介より諸葛亮小梅の方が古い。岡田からの依頼でやり始めた。鉄人28号モニュメントはまだ骨組みやった。三国志ガーデン(三国志の名シーンをジオラマで再現した施設)のオープンイベントで、諸葛亮孔明みたいな衣装にサングラスをかけて、三国志音頭という曲を歌った。 その後に脳出血で倒れて入院中に、岡田から次のキャラを考えたんでリハビリ頑張れ、と言われたのが鉄板コテ之介。退院して1か月後にはコテ街浪漫という曲を録音した。来年(令和3年)で鉄板コテ之介10周年になる。最初の衣装の赤いスーツは漫才師のかつみさゆりのかつみさんと同じ服やねん。 これまでにアルバムを1枚出して、24時間テレビには小梅・コテ之介で合計2回出演した。喜楽館でも神戸出身の落語家3人と一緒に出演しているけど、落語家に負けんとこと思って笑いを取りにいっているで。
奥様との馴れ初めを教えてください。
高校2年生の時の同級生。見た目に一目ぼれして口説き倒した。バンドをやっていてツレはモテてたけど、俺はモテへんかった。妻とは8年付き合って、25歳で結婚した。
新長田の好きなところ、嫌いなところを教えてください。
阪神・淡路大震災前の新長田は大好き。震災があったから今寂れている訳ではない。昔の大正筋は自慢やった。二葉新地とかいかがわしいけどうまい飯屋もあって、おもしろい街やった。怖い街というイメージはなかった。人が多くて、迷子になるから一人で行ったらあかんという感じ。怖い人がいても共存してた。色々な考え方や人種がちゃんと一緒に暮らしてきた街なのがいい。今の再開発ビルは大き過ぎる。一般的な街にする必要はなかったと思う。 嫌いなところは分からへん。どっぷりやからなぁ、ないかな。あったとしても、肥やしになっている。
新長田のお気に入りの場所は。色に例えると何色ですか。
お気に入りの場所は大正筋。生まれ育った町やからね。形は変わっても、田んぼの畦道を歩いているような気がして変に落ち着く。 新長田を色に例えると紫とかオレンジ。混ざった色がぴったりくる。
これからの活動について教えてください。
跡夢も鉄板コテ之介もできる限り続ける。「町を笑顔に」が自分のコンセプトやからね。笑ってもらえて何ぼ。みんなに元気になってほしい。
上野さんに会うにはここへ
有限会社 上野刺繍
神戸市長田区水笠通4丁目4-18
http://bit.ly/3b2V3me
もしくは新長田の各種イベントで。
インタビュー会場は、店主のノリ良し、料理の味良しの居酒屋
Dining 五十嵐家
神戸市長田区御屋敷通5丁目1-17
http://bit.ly/2MqUnwO










